第61話:マリウスの顔
国境を越えたのは二日目の昼前だった。
ダグラスの言った通り、通関は一時間かからなかった。マリウスの書状を見た国境の担当者が、名前を確認してから通してくれた。
越えた瞬間に、空気が変わった。
冷たかった。
公爵領より明確に冷たい空気が来た。肌に当たる感触が違った。乾いていて、少し痛い。
「冷えますね」
「まだヴェルンより低地だ」とにゃん吉が言った。荷台で丸まっていた。
「上に行けばさらに下がる」
「耐寒改修が必要な理由が分かります」
「レオンの見立ては正しかったな」
「正しかったです」
景色が変わっていった。
草が減り岩肌が増え、道の両側に枯れた低木が並んでいた。緑の色が薄くて、生命力が控えめな景色だった。
コルトが御者台から言った。
「厳しい土地だな」
「そうですね」
「こういう土地で生きている人間の食事はどんなものになるか、想像がつく」
「どんなものだと思いますか」
「保存が利くもの、カロリーが高いもの、それしかない。新鮮なものは贅沢品だ」
「正確だと思います」
「ダンジョンでも同じだ。長い遠征になれば食事の選択肢が減る。減った中で何を選ぶかで、体の状態が変わってくる」
ヴェルンが見えてきたのは夕方だった。
石造りの街だった。建物が低い。窓が小さい。寒さを防ぐための構造だと分かった。煙突が多かった。どの建物からも煙が上がっていた。
街の色が灰色だった。
石の色と、空の色と、人の服の色が全部近かった。
街に入った。
人が行き交っていた。全員が厚着をしていた。足早に歩いていた。止まっている人間がほとんどいなかった。寒いので外に長居しないのだと分かった。
市場があった。
通り過ぎながら確認した。
並んでいるものが少なかった。干し肉が何種類か。乾燥した根菜が少し。塩の袋。それくらいだった。
「少ないですね」とリディアはにゃん吉に言った。
「これが全部だ、ということかもしれない」
「新鮮なものがほぼありません」
「育たないのか、この気候では」
「育ちにくいはずです。生育期間が短い。夏が短くて冬が長い土地では、野菜の選択肢が限られます」
マリウスが待っていた。
約束の場所は街の中央にある宿だった。
マリウスが出てきた。
顔を見た。
久しぶりだった。カイロスで会って以来だった。あの時は商人として精力的に動いていた顔だった。
今日は少し違った。
疲れていた。仕事の疲れではない。別の種類の疲れだった。
「来てくれた」とマリウスが言った。
「来ました」とリディアは言った。
「疲れていますか」
「分かりますか」
「分かります」
マリウスが少し笑った。苦笑に近い笑い方だった。
「この街に来て三か月になります。関税が撤廃されて、ガルムとの取引が自由になった。だから商機があると思って入ってきました。確かに商機はありました。でも同時に、この街の状況を知ってしまった」
「どういう状況ですか」
「中に入って話しましょう。外では寒い」
宿の中に入った。
暖炉があった。火が入っていた。外との温度差が大きかった。
マリウスが話し始めた。
「ヴェルンは鉱山と牧畜で生きている街です。鉱夫と牧夫が人口の大半を占めています。食事は昔から変わっていない。干し肉と硬いパンと、たまに根菜のスープ。それだけです」
「新鮮なものは」
「夏の短い期間だけ野菜が手に入ります。今は冬に向かう時期で、既に畑はほぼ終わっています」
「栄養が偏っています」
「偏っています。タンパク質と塩分は足りている。でも他が少ない。子供の成長に影響が出ているという話も聞きます」
リディアは書いた。
「食材として使えそうなものは何がありますか」
「干し肉は大量にあります。種類も多い。鉱山魔物の肉が安く手に入ります。ただし固くて臭みが強い。誰も美味く料理できていない」
「他には」
「山羊と魔羊がいます。乳が取れますが、処理の方法が分からなくて余っています。飲みきれない分は捨てています」
「捨てているんですか」
「捨てています。チーズにしようとした人間もいたようですが、上手くいかなかったと聞きました」
にゃん吉が暖炉の前に陣取っていた。
「良い場所を取りましたね」
「当然だ。寒い場所では火に近い方がいい」
「神獣も寒さは苦手ですか」
「苦手とは違う。ただし快適な温度というものがある。今の外の気温は快適ではない」
マリウスがにゃん吉を見た。
「神獣というのは寒さも感じるんですね」
「感じる。ただし感じながら平気でもある。矛盾しているが、そういうものだ」
「詩的な言い方ですね」
「事実を言っただけだ」
夕食を宿で取った。
出てきたのは干し肉と、硬いパンと、薄い根菜のスープだった。
マリウスが「これが毎日の食事です」と言った。
リディアは一口ずつ食べた。
干し肉は固かった。噛み切るのに力が要った。塩が強い。旨味はあるが、引き出されていない。
パンは昨日の分だと分かった。硬くなっていた。
スープは薄かった。根菜が少し入っていた。温かいのだけが良かった。
「食べられますが、これだけでは足りないですね」
「足りないと分かっていても、他がないので食べ続けます」とマリウスは言った。
「この状態が続いています」
「分かりました」とリディアは言った。
「明日から始めます」
「何をしますか」
「この干し肉を美味くします。乳も使えるようにします。それだけで変わります」
夜、宿の部屋で羊皮紙を広げた。
持参した素材のリストを確認した。
固形スープの素。黒穀。オイルサーディン。保存脂。香辛料。
「どれを使うのか」とにゃん吉が聞いた。
「干し肉の煮込みから始めます。固くて臭みが強い肉でも、時間と酸と熱があれば柔らかくなります。エルダで岩角豚をやった時と同じです」
「現地の素材で出汁を取れるか」
「干し肉自体が出汁になります。臭みを取る下処理をしてから煮れば、深みのある出汁が出ます。そこに黒穀を加えれば栄養も取れます」
「乳はどうする」
「チーズです。前世の知識があります。山羊の乳と魔羊の乳では性質が少し違います。まず確認してから決めます」
「確認してから決める、か。それがお前の基本だな」
「現地を見てから決めます。決めすぎると修正できなくなります」
翌朝の準備を書いた。
市場で干し肉の種類を確認する。乳の余剰量を確認する。使える根菜の種類を調べる。
「準備が多いですね」とにゃん吉に言った。
「新しい場所は最初の確認が一番時間がかかります。確認が終われば後は動くだけです」
「急がないのか」
「急いで間違えるより、確認して正確に進む方が速いです」
「そういうものか」
「エルダでもカイロスでもそうしてきました。最初の確認をきちんとやれば、後の工程が速くなります」
暖炉の火が落ちてきた。
外の風の音がした。
ガルムの夜は深かった。
「寒いですね」とリディアは言った。
「そうだ」とにゃん吉が言った。
「こういう場所で毎日暮らしている人間に、温かいものを届けるのか」
「届けます」
「それが分かれば十分だ」とにゃん吉は言った。
ペンが動いた。
明日の計画が羊皮紙に並んでいった。
手が止まらなかった。




