第59話:ハンスの脂身
公爵領に戻って三日目の朝、門を叩く音がした。
開けると、ハンスが立っていた。
大きな木箱を抱えていた。日焼けした顔が、いつもより嬉しそうだった。
「すまんな、急に来て」
「構いません。どうぞ入ってください」
「これを持ってきた」と箱を置いた。
「お礼と言っちゃなんだが、使ってほしいものがある」
箱を開けた。
白かった。
真っ白な塊が並んでいた。脂身だった。魔豚の、脂肪が極端に多い部位だった。
「これは」
「うちの豚の背脂だ。これだけ分厚いやつはなかなか出ないが、先週の解体で大量に出てしまった。肉屋に持っていっても買い叩かれる。捨てるくらいなら令嬢に渡した方がいいと思って」
リディアは脂身を手に取った。
重くて、冷やされているので固かった。
匂いを嗅いだ。
嫌な匂いではなかった。ハンスの豚の良い素材から来ている脂の匂いだった。
「使えます」
「そうか」とハンスが言った。顔が緩んだ。
「何になるんだ」
「二つ作ります」とリディアは言った。
「一つは保存脂。もう一つは揚げた豚皮です」
「豚皮か。固くて食えないやつじゃないか」
「処理次第で変わります」
水晶板を起動した。
「今日はハンスさんから届いた魔豚の背脂を使います」とリディアは言った。
「脂身が多くて使い道に困っている部位です。二種類に加工します」
コメント欄に「脂身回か」「どうなるんだ」「ハンスさんの豚が来た」が流れた。
まず脂身を角切りにした。
鍋に入れた。弱火にかけた。
「焦らずに時間をかけます。急いで高温にかけると焦げます。弱火でゆっくりと油を出していきます」
待った。
じわじわと音が出てきた。ぱちぱち、という小さな音だった。脂が溶けて、液体になっていく。
「油が出てきました」
白い塊が少しずつ小さくなっていった。代わりに鍋の底に透明な液体が溜まっていく。
「これが保存脂です。精製すれば長期保存できます。調理用の油として使えます。バターの代わりにもなります」
コメント欄に「精製するのか」「確かに白い」「万能調理油みたい」が流れた。
三十分かけた。
固形物がほぼなくなった。鍋に透明な液体が残った。
「漉します」
布で漉した。不純物を取り除いた。
液体を別の容器に移した。
冷えると白くなった。純白の固形物になった。
「できました」とリディアは言った。
「綺麗だな」とハンスが言った。
「自分の豚の脂がこうなるのか」
「これが保存脂です。料理に使うと風味が加わります。パンに塗っても美味しいです」
にゃん吉が近づいてきた。
「匂いが変わっている」
「精製すると不純物が取れて、素材の本来の香りだけが残ります」
「澄んだ匂いだ」
「そうです。澄んだ分だけ、料理に使った時に素材の味を邪魔しません」
次は豚皮の工程に移った。
脂身を取り除いた後に残った皮の部分を使った。
「豚皮を乾燥させます」とリディアは言った。
魔石灯の熱を当てて、一時間かけて水分を飛ばした。
「乾燥した皮を高温の油で揚げます」
精製したばかりの保存脂を鍋に入れた。高温にした。
乾燥した豚皮を入れた。
音が出た。
ジュアアアッという音とともに、皮が膨らんだ。
一瞬で何倍もの大きさになった。泡が立って、色が変わって、表面がカリカリになった。
「膨らんだ」とハンスが言った。
「水分が完全に抜けているので、油に入った瞬間に一気に膨張します」
引き上げた。
塩を振った。
カリカリした白い塊になっていた。
「食べてください」とリディアはハンスに渡した。
ハンスが一口かじった。
音が出た。バリッという、乾いた音だった。
「……脂がない」とハンスが言った。
「乾燥させてから揚げているので、余分な脂が飛んでいます。残るのは旨味だけです」
「こんなに軽いのに、うちの豚の味がする」
「素材が良いからです。処理で余分なものを取り除くと、本来の味だけが残ります」
ハンスがもう一口食べた。止まらなくなっていた。
にゃん吉も一枚受け取った。食べた。
「脂の旨味が凝縮されている」とにゃん吉が言った。
「揚げることで水分と余分な脂が飛んで、旨味だけが残ります」
「これは酒に合う」
「合います。保存もできます。乾燥した状態を保てれば長期間持ちます」
コメント欄に「食感が伝わってきた」「バリッという音が聞こえた気がする」「酒に合うやつだ」「保存できるなら旅先に持っていける」が流れた。
ハンスが手を止めずに言った。
「令嬢、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「王都の関税が撤廃されて、うちの豚がガルムとカイロスに出荷できるようになった。これは令嬢のおかげだと皆が言っている」
「皆さんが動いてくれたからです」
「でも最初に動いたのは令嬢だ。ダンジョンで配信を始めてから、全部が変わった」
「変わりましたね」
「一つだけ言いたかった」とハンスは言った。
「ありがとう」
直接的な言い方だった。ハンスらしかった。農夫の言葉だった。
「こちらこそ、良い素材をいつも届けてもらっています」とリディアは言った。
「令嬢がいなければ俺の豚はただの豚だった。令嬢がいるから価値が分かった」
「素材が良かったからです」
「そうやって返すのか」
「事実です」
ハンスが笑った。
「頑固だな、令嬢は」
「(前世)昔からそうです」
「そうか」
昼過ぎ、保存脂をハンスに一部渡した。
「これを持ち帰ってください。農村でも使えます。寒い朝に炒め物に使うと風味が出ます」
「もらっていいのか」
「ハンスさんの豚から作ったものです」
「……そうか」とハンスが言った。容器を受け取った。大事そうに持った。
「次に豚の部位で使い道に困るものがあれば、また持ってきてください」
「ある。腸だ」
「腸は使えます。次回に」
「次も来ていいか」
「いつでも来てください」
ハンスが帰った後、にゃん吉が言った。
「農夫の礼の受け取り方が上手くなったな」
「そうですか」
「最初の頃は少し戸惑っていた」
「そうでしたね。今は素直に受け取れます」
「何が変わった」
「届いたと分かるようになりました」とリディアは言った。
「最初は届いているのかどうか、自分では分からなかった。今は届いていると分かります。だから受け取れます」
「どこで分かるようになったんだ」
「エルダでセルムが角煮を一人で作れた時だと思います。自分がいなくても動いているものを見た時に、届いたと分かりました」
夜、羊皮紙を広げた。
保存脂と豚皮の加工マニュアルを書いた。
次の配信での応用方法も書いた。保存脂をラードとして料理に使う方法。豚皮を砕いてトッピングにする方法。固形スープの素に混ぜる方法。
「応用が多いですね」とにゃん吉に言った。
「一つの素材から複数の使い方が出てくるのか」
「出てきます。素材の性質を理解すれば、組み合わせは広がります」
「それがお前の仕事か」
「その一部です」
にゃん吉が缶を開けた。
「明日は何をする」
「レオンが来ます。次の遠征に向けた厨房車の改修の話を詰めます」
「ガルムの内陸部へ行くのか」
「その前に準備があります。寒冷地では今の装備では足りない部分が出てきます」
「具体的には」
「保温が問題になります。高地は気温が低い。今の魔導炉は低温環境での出力が落ちる可能性があります。レオンに確認します」
「先を読んでいるな」
「行って困るより、行く前に確認する方がいいです」
コメント欄の確認をした。
今日の配信の反響を見た。
豚皮の音の描写に反応した書き込みが多かった。「バリッという音が聞こえた」「食感が伝わってきた」という書き込みが続いていた。
「音と食感は画面越しでも伝わるんですね」とにゃん吉に言った。
「伝わっているのか」
「伝わっているようです。見ている人間の想像力が補完してくれるのだと思います」
「配信の面白いところだな」
「そうです。全部が伝わるわけではない。でも想像を引き出せれば、伝わったのと同じになります」
「だから料理の音と匂いを大事にするのか」
「音と見た目が引き金になって、視聴者が匂いと食感を想像します。全部揃って初めて食欲が生まれます」
にゃん吉が「お前は計算して料理しているのか」と言った。
「計算と感覚が半々です」とリディアは言った。
「計算しすぎると面白みがなくなります。でも感覚だけでは再現できません」
「どちらが先か」
「素材を見てから決めます。素材が教えてくれます」
魔石灯を少し暗くした。
「明日はレオンと話します。明後日からは新しい準備が始まります」とリディアはにゃん吉に言った。
「楽しそうだな」
「楽しいです。ガルムの内陸部は行ったことがありません。何があるか分からない」
「分からないのが楽しいのか」
「分からない分だけ、発見があります」
にゃん吉が「そうか」と言った。
缶を傾けた。
石の部屋が静かだった。
帰ってきた場所だった。
でも出発する前の場所でもあった。
ペンが動いた。
明日のレオンとの打ち合わせの準備を書いた。
手が止まらなかった。




