第54話:父の決断と全ての集結
翌朝、レオンが厨房車の整備を始めた。
広場に厨房車を出して、車輪を外して確認した。魔導炉の接続部分を点検した。側面の扉の蝶番を調整した。
リディアは隣でエルダ製フライパンの追加ロットを確認した。
十二枚届いていた。
一枚ずつ触った。重さ、仕上げ、魔法陣の刻み方。全部を確認した。
「ドランさんの工房が安定してきていますね」とリディアはレオンに言った。
「そうです。最初の試作と比べると、ばらつきがなくなっています。職人が慣れてきた分だと思います」
「量産の数は増やせますか」
「来月からさらに増やせます。ドランさんが若い職人を二人追加で雇ったとのことです」
「エルダに仕事が増えていますね」
「増えています。フライパンの需要が広がるにつれて、エルダの鉱石の採掘量も増えています。ヴォルクさんから、坑道の拡張工事を始めたという連絡が来ていました」
クラウスが来た。
「お帰りなさい」と言った。
「ただいまです。食堂の状況を教えてください」
「毎日満席が続いています。カレーパンは開店前から行列ができています。ライセンスを持った近隣の店でも安定して作れるようになっています」
「品質のばらつきは」
「最初より減っています。先月から週一回の巡回指導を始めました。その効果が出てきています」
「巡回指導を自分たちで運用できていますか」
「できています。リディア様がいなくても動いています」
それを聞いて、リディアは少し安心した。
午後、ヴィランが来た。
「明日、閣下がいらっしゃいます。ご準備はよろしいですか」
「準備はできています。話したいことがいくつかあります」
「閣下も同じようにおっしゃっていました。重要な話があると」
「何の話か聞いていますか」
「聞いていません。ただし閣下の表情が、普段と少し違いました」
「どう違いましたか」
「決めた後の顔でした」とヴィランは言った。
「何かを決断した後の、静かな顔です。私は長年お仕えしているので分かります」
夜、水晶板でエルダ、カイロス、アランヴァルに通信を入れた。
エルダのセルムから返信が来た。
【配信を毎回見ています。ノルドの封鎖の件は工房全員で見ていました。ドランさんが「リディア様がフライパンで封鎖を突破した」と言っていました。意味は分かりませんが、皆が頷いていました。——セルム】
カイロスのタスカから返信が来た。
【オイルサーディンの一か月物が完成した。あんたが言っていた通り、味が変わっていた。次に来た時に食べさせてやる。マリウスとの取引は順調だ。——オルセン*
アランヴァルのイルゼから返信が来た。
【水運組合の食材部門が軌道に乗っています。グレンが後輩に教え始めました。黒穀の消費量が増えたので、農家との直接交渉を始めました。何かあれば連絡してください。——イルゼ】
三か所から返信が来た。
三か所とも動いていた。
「全部が動いています」とリディアはにゃん吉に言った。
「お前がいなくても、か」
「いなくても動いています。それが目的でした」
「達成できたのか」
「この段階では。次の段階は王都です」
翌日の昼前、父が来た。
馬車は一台だった。護衛が四人。ヴィランが隣にいた。
ギルド食堂に通した。
父は部屋に入って、まず食堂全体を見渡した。隅々まで見た。厨房を見た。棚を見た。道具を見た。
「変わったな」と言った。
「改装を続けています」
「最初にここを見た時と違う」
「最初は物置でした」
「今は本物の厨房だ」
席についた。
ヴィランが隣に立った。
「話を聞かせてください」とリディアは言った。
「ヴィランさんが、閣下が何かを決断されたと言っていました」
父が腕を組んだ。
「報告が先だ。王都の状況を聞かせろ」
「ノルドで何があったかはヴィランさんから全部届いているはずですが」
「お前の口から聞く」
リディアは話した。
封鎖の経緯。水路で物資を届け続けたこと。配信で王都内部に情報を届けたこと。固形スープの素のレシピを公開したこと。封鎖が五日で終わったこと。
父は黙って聞いていた。一度だけ頷いた。
「ノルドとの正式な協定は」
「昨日、ヘンドリック市長と骨子を確認しました。来週中に書面にします」
「公爵家も連名で入る」と父が言った。
「そうしていただけますか」
「した方がノルドの立場が安定する。王都が圧力をかけてきた時、公爵家が後ろにいれば牽制になる」
「ありがとうございます」
話が終わった後、父が少し間を置いた。
「決断の話をする」
「聞きます」
「お前が次に王都の外に向かうことは分かっている。城壁の外で配信をするつもりだろう」
「そのつもりです」
「それを聞いて、考えた」と父は言った。
「一人で行かせるわけにはいかない。かといって大勢の護衛をつければ目立つ。王都が警戒する」
「だから難しいと思っていました」
「解決策を考えた」
父が羊皮紙を取り出した。
地図だった。王都周辺の詳細な地図だった。
「王都の外縁に、公爵家が所有している古い倉庫がある。王都の商業地区の入口に近い場所だ。今は使っていない」
「その倉庫を使えますか」
「使える。公爵家の所有物なので、王都の許可は要らない。ただし目立ちすぎれば王都側が動く。移動厨房車で正面から行くのではなく、先に倉庫に入って、そこから動く方がいい」
「なるほど」
「倉庫の場所と、王都周辺の地形を確認してから動け」
「分かりました」
「それと」と父が続けた。
「公爵家として、王都の貴族院に正式な書簡を送る」
リディアは少し止まった。
「どういう内容ですか」
「セドリックが行ってきたことの問題点を、正式に指摘する書簡だ。婚約破棄の問題。追放の問題。エルダ、カイロス、アランヴァル、ノルドへの妨害工作の問題。全部を文書にして貴族院に提出する」
「それは」
「お前が動きやすくなる。王都の外で配信をしている間に、貴族院の内部で圧力がかかる。表と裏から同時に動く」
リディアは少し考えた。
「お父様が動いてくれるんですか」
「お前が動ける環境を作るのは親の仕事だ」と父は言った。短く、事務的な口調だった。
ヴィランが目を逸らした。
「……ありがとうございます」
「礼は要らん」
昼食を作った。
ノルドから持ち帰った素材と、公爵領の食材を合わせた。
エルダ製フライパンで魔豚を焼いた。
音が出た。ジュアアアッという音が食堂に響いた。
父の眉が少し動いた。
「その音が配信に映っていたフライパンか」
「エルダのドランさんが作りました」
「鉱石の産地が道具になって、料理の音になるのか」
「繋がっています、全部が」
父が「そうか」とだけ言った。
食事の途中で、にゃん吉が台の上から父を見た。
「公爵」とにゃん吉が渋い声で言った。
父が視線を上げた。
「神獣か」
「主夜神だ。にゃん吉というのは配信用の名前だ」
「どちらで呼べばいい」
「好きにしろ」
「では主夜神様と呼ぶ」と父が言った。
「構わない」
「娘の世話になっているな」
「世話というより、共に仕事をしている」とにゃん吉は言った。
「世話をされているのはどちらかと言えば俺の方だ」
父がリディアを見た。
「主夜神様にそう言わせるのか、お前は」
「言ってもらえているとは知りませんでした」
「聞こえているところで言ったんだからいい」とにゃん吉が言った。
食事が終わった後、父が地図を広げた。
「倉庫の場所を確認しろ」
一緒に見た。
王都の商業地区の入口から少し外れた場所に印がついていた。城壁の外だった。街道から外れていて、目立たない場所だった。
「ここから城壁まで」
「歩いて十分ほどだ。厨房車を置いて徒歩で移動できる距離だ」
「城壁の前で配信をするなら、倉庫を拠点にして動くのが良さそうです」
「そのつもりだ。先に人を入れておく。お前が着いた時に使えるように整えさせる」
「準備を進めてください」
「出発は」
「来週の中頃にします。その前にノルドとの協定書を仕上げます。レオンとも次の開発の話を詰めます」
「一週間か」
「やることがあります」
「分かった」と父が言った。立ち上がった。
「帰る」
「お泊まりにはならないんですか」
「仕事がある」と父は言った。それから少し間があった。
「茶葉の淹れ方を教えてもらった通りにやったが、上手く淹れられなかった」
「どの工程で詰まりましたか」
「三分待つところだ。待てなかった」
「お父様らしいですね」
「それはどういう意味だ」
「急いでしまうということです。三分は待てます」
「分かっている。ただ待てなかった」
「次は待てます。帰り道で練習してください」
父が「帰り道で練習するものではない」と言いながら出ていった。
ヴィランが後に続きながら、リディアに小声で言った。
「帰り道、茶葉を持参されていました。馬車の中で淹れるつもりのようです」
リディアは少し笑った。
父が帰った後、にゃん吉が言った。
「良い父親だな」
「そう思いますか」
「素直でないが、全部考えてある。倉庫のことも、貴族院への書簡も、お前が動きやすくなることを全部準備している」
「前世の父親も似ていました」
「素直でなかったのか」
「似たところがありました。心配していても、心配していると言わない」
「そういう人間は多いのか」
「多いと思います。言えない分、別の形で出てくる」
「茶葉を持参して馬車で淹れる、か」とにゃん吉が言った。
「それが父の形です」
夕方、全拠点への通信を入れた。
エルダ、カイロス、アランヴァル、ノルド、ユリウス商会、そしてマリウスへ。
内容は短くした。
【来週、王都の外縁に向かいます。各拠点の状況を継続して報告してください。何かあれば随時連絡をください。——リディア】
全部から返信が来た。
エルダから。
「応援しています。フライパンを持っていってください。——セルム、マリ」
カイロスから。
「風の方向次第では王都まで匂いが届くかもしれない。——タスカ」
アランヴァルから。
「黒穀を持っていってください。王都の人間にも届けてください。——イルゼ」
ノルドから。
「コルトが、俺たちも行くと言っています。止めた方がいいですか。——ヘンドリック」
ユリウス商会から。
「固形スープの素を追加で百個用意します。フライパンも十枚持参します。——レオン」
マリウスから。
「隣国でも配信を見ている人間が増えています。応援しています。——マリウス」
「全部から返信が来ました」とリディアはにゃん吉に言った。
「何と言っている」
「全員が応援しています。コルトが一緒に行くと言っているようです」
「冒険者が来るのか」
「止めた方がいいかどうか聞かれていますが」
「止めなくていいだろう」とにゃん吉が言った。
「戦力は多い方がいい」
「戦力というより、証人です。大勢が見ていれば、向こうも動きにくい」
「それもそうだ」
羊皮紙を広げ、来週の計画を書いた。
ノルドとの協定書の仕上げ。レオンとの最終打ち合わせ。厨房車の最終確認。持参する素材のリスト。王都外縁の倉庫の下見。
「準備が多いですね」とにゃん吉に言った。
「今まで一番大きな動きだからな」
「そうですね。ダンジョンから始まって、公爵領、エルダ、カイロス、アランヴァル、ノルド。全部が今度に繋がっています」
「繋がっているのか、全部が」
「繋がっています。エルダのフライパンを王都の外で使います。カイロスの保存食を届けます。アランヴァルの黒穀を炊きます。公爵領の肉を焼きます。ノルドで学んだことを活かします。全部が一か所に集まります」
「それが王都の外になるのか」
「なります」
ペンが動いた。
魔石灯の光が部屋を照らしていた。
石の天井があった。
帰ってきた場所だった。
でも次の出発の場所でもあった。
手が止まらなかった。
来週が来れば、動く。
今夜はまだ準備をする。
それだけだった。




