第53話:石の部屋の紅茶
公爵領に戻ったのは昼過ぎだった。
城門をくぐった瞬間、空気が変わった。
知っている匂いがした。農村の土と、ギルド食堂の煙と、公爵領固有の魔力の濃度が混ざった匂いだった。
「帰ってきましたね」
「また言うのか、それを」とにゃん吉が言った。
「毎回言います。帰ってくるたびに実感があります」
「感傷的だな」
「そういうものだと思います」
スタジオに荷を下ろした。
厨房車をギルド食堂の横に停めた。レオンが整備のために来ることになっていた。
石の部屋に入った。
天井が低く魔石灯が灯っていて、棚に道具が並んでいた。発酵窯もある。
全部あった。
旅先では持っていけなかったものが全部ある場所だった。
「久しぶりにゆっくりできるな」とにゃん吉が言った。
「できます。今日と明日は予定を入れていません」
「珍しいな」
「次の段階の前に、一度止まります。動き続けていると見えなくなるものがあります」
荷物を整理した。
旅先から持ち帰った羊皮紙の束を確認した。エルダ、カイロス、アランヴァル、ノルドの記録が全部入っていた。
素材の在庫を確認した。
カイロスから持ち帰ったオイルサーディンの瓶。アランヴァルの黒穀の残り。ノルドで買い足した香草。全部が旅先の記憶と繋がっていた。
その中に、一つ知らない箱があった。
ヴィランからの荷だった。メモが貼ってあった。
【マリウス様から届きました。隣国の発酵茶葉とのことです。使い方の説明書が同封されています。——ヴィラン】
茶色の葉が入っていた。乾燥していて、少し圧縮されている。匂いを嗅いだ。発酵した香りがした。深みのある、温かみのある香りだった。
「マリウスさんから届きました」とリディアはにゃん吉に言った。
「何だ」
「発酵茶葉です。前世でいう紅茶に近いものだと思います」
「紅茶とは」
「お湯で淹れる飲み物です。温かくて、香りが良い。前世では日常的に飲んでいました」
「淹れてみるのか」
「今日こそちょうど良い機会です」
説明書を読んだ。
マリウスが書いてくれたものだった。
【急須に相当する容器に茶葉を入れて、熱湯を注いでください。三分待てば飲めます。乳脂を加えると風味が変わります。甘みを足す場合は蜂蜜が合います。——マリウス】
道具を確認した。
急須に近いものはあった。陶製の小さい注ぎ口のある容器だった。普段は出汁を注ぐのに使っていた。
お湯を沸かした。
茶葉を容器に入れた。少量だった。説明書の量より少し少なめにした。初回だから控えめにした。
お湯を注いだ。
色が出てきた。薄い橙色から、少しずつ濃くなっていく。
匂いが広がった。
花と果実が混ざったような、複雑な香りだった。前世の記憶が反応した。紅茶の匂いだった。完全に同じではないが、根っこの部分が同じ匂いだった。
「三分待ちます」
「待てるのか、お前が」とにゃん吉が言った。
「今日は待てます」
三分経った。
椀に注いだ。
深い橙色の液体だった。透明感がある。光を当てると宝石のような色になった。
「乳脂を加えます」
魔物脂から作ったバターに相当するものを少量溶かして加えた。色が少し薄くなった。
「蜂蜜も入れます」
少量の蜂蜜を加えた。混ぜた。
一口飲んだ。
香りが口の中に広がった。発酵した深みと、乳脂の丸みと、蜂蜜の甘みが来た。後から渋みがある。でも嫌な渋みではなかった。
「美味いですね」
声が自分でも意外なくらい素直に出た。
「どんな味だ」とにゃん吉が言った。
「深くて、少し渋い。でも後味が良い。飲んでいる間ずっと香りがします」
「俺にも」
「少し待ってください。冷めたらいいです。猫に熱いものは」
「神獣だ」
「神獣にも熱いものは熱いはずです」
少し冷まして、小さい椀ににゃん吉の分を注いだ。
にゃん吉が前足で椀を寄せた。一口飲んだ。
しばらく動かなかった。
「……深い」
「そうですね」
「お湯に溶けているのか、この香りは」
「茶葉の成分が溶け出しています。三分間で出ます」
「三分でこれが出るのか」
「温度と時間があれば出ます」
「料理と同じだな」とにゃん吉が言った。
「同じ原理です。時間と温度が素材を変える」
にゃん吉がもう一口飲んだ。
「渋みがある」
「発酵の成分です。渋みが後から来るのが特徴です」
「不思議な飲み物だ」とにゃん吉は言った。
「美味いかどうかより、飲んでいたくなる」
「それが紅茶です」
二人でしばらく何も言わなかった。
石の部屋に静けさがあった。
魔石灯の光が変わらず灯っていた。
旅先ではなかった種類の静けさだった。
リディアは椀を持ったまま、窓のない壁を見た。この部屋に来た時は、窓がないことが閉塞感だった。今は落ち着く。
「いつからここが居場所になったんでしょうね」
「気づいたら、か」
「気づいたらなっていました」
「お前がここを居場所にしたんだ」とにゃん吉が言った。
「追放されてきた場所が、自分で選んだ場所になった」
「選んだかどうかは分かりません」
「選んでいる。毎回帰ってくる。戻れと言われても戻らない。それが選んでいることだ」
リディアは少し考えた。
「そうですね」
ヴィランが来た。
扉を開けて、二人が紅茶を飲んでいるのを見た。少し驚いた顔をした。
「お邪魔でしたか」
「構いません。どうぞ」
「ご帰還の確認に来ました。公爵閣下が今夜のご挨拶をされたいとのことです」
「父が来るんですか」
「いえ、閣下がこちらにいらっしゃるのは明後日の予定です。今夜は通信でご挨拶をいただけますか」
「分かりました」
「それと」とヴィランが続けた。
「マリウス様から届いた茶葉を使われていますね」
「使っています。美味しいです」
「閣下も同じものを受け取られていまして、淹れ方が分からないとのことです。教えていただけますか」
「通信で説明します。難しくないです」
ヴィランが少し表情が緩んだ。
「閣下は配信より先に、茶葉の淹れ方を気にされていました」
「そうですか」とリディアは言った。
「昨夜から水晶板で確認されていたようで、茶葉の分量について三回ほど私に聞いてこられました」
にゃん吉が「素直でないな」と言った。
「本当に」とリディアは言った。
ヴィランが帰るとまた静かになった。
にゃん吉が二杯目を要求した。
「冷めたものでいい」と言った。
「温め直します」
「要らん。そのままで」
「頑固ですね」
「神獣だ」
二杯目を注いだ。
にゃん吉が飲みながら言った。
「次は王都の外に行くのか」
「はい」
「怖くないのか」
リディアは少し考えた。
「ないわけではないです」
「珍しく認めたな」
「今日は認める気分です」とリディアは言った。
「怖くても行く理由があります」
「何だ」
「届けたい人がいます」とリディアは言った。
「王都の配信で作ってみたと書いてきた人。王都の兵士でノルドに来た人。下級貴族でノルドを訪れた人。全員に直接届けたい」
「届けられると思うか」
「やってみなければ分かりません。ただし届いた時の顔は想像できます」
「どんな顔だ」
「エルダでセルムが角煮を自分で作った時の顔、カイロスの漁師が出汁の取り方を知った時の顔、アランヴァルでグレンが黒穀の炊き込みを一人で作れた時の顔、コルトがフライパンの音を初めて聞いた時の顔」
「全部覚えているのか」
「覚えています。それが全部の起点です」
にゃん吉が椀を置いた。
「そうか」とだけ言った。
夜、父から通信が来た。
映像ではなかった。文字だった。
【帰ったか。無事か。——父より】
「帰りました。無事です。——リディア」と返信を打った。
しばらくして返信が来た。
【茶葉の淹れ方を教えろ。——父より】
リディアは少し笑った。
【茶葉は少量です。お湯は沸騰させてから少し冷まします。三分待ちます。乳脂と蜂蜜を加えると美味しいです。——リディア】
【分かった。——父より】
それだけだった。
心配していた、とは書かなかった。
無事か、と聞いた。茶葉の淹れ方を聞いた。
それが父の言い方だった。
夜遅く、レオンから通信が来た。
【厨房車の整備を明日の朝から始めます。エルダ製フライパンの追加ロットも到着しました。ドランさんから手紙が来ていました。同封します。——レオン】
ドランの手紙を開いた。
【リディア様、エルダは元気です。セルムとマリウスが毎日角煮丼を作っています。先週、ヴォルクさんが「今までで一番疲れが取れた一週間だった」と言っていました。フライパンの量産は順調です。次のロットをもうすぐ出せます。また来てください。——ドラン】
セルムとマリが毎日作っている。
ヴォルクさんが疲れが取れたと言っている。
リディアがエルダにいなくても、エルダが動いている。
「エルダから手紙が来ました」とにゃん吉に言った。
「どんな内容だ」
「セルムとマリが毎日角煮丼を作っているそうです。ヴォルクさんが元気だそうです」
「それが聞けると安心するのか」
「します」とリディアは言った。
「自分がいなくても動いている、というのが確認できると」
「安心するんだな、お前が」
「します」
にゃん吉が缶を開けた。
「今夜はゆっくり飲む」と言った。
「どうぞ」
「お前も紅茶でも飲め」
「もう一杯淹れます」
お湯を沸かし茶葉を入れた。三分待ってから椀に注ぐと、石の部屋に紅茶の香りが広がった。
魔石灯の光の下で、二人と一匹が静かにいた。
明後日、父が来る。
その後、王都の外に向かう。
でも今夜は何も考えなかった。
ただ紅茶を飲んだ。
深みがあった。
少し渋かった。
でも後味が良かった。
それで十分な夜だった。




