第44話:帰還
翌朝、久しぶりに天井が低いスタジオの石の部屋で目が覚めた。
旅先では空か、宿の木の天井を見ていた。久しぶりに石の天井に戻ってきた。
「帰ってきましたね」
声に出したが、返事がなかった。
にゃん吉はまだ寝ていた。旅の疲れが出ているのかもしれなかった。神獣も疲れるのかは分からなかったが、起こさなかった。
水晶板を確認した。
三か所からの返信が全部来ていた。
エルダのセルムから。
「角煮丼を今週三回作りました。ヴォルクさんが毎回食べています。ドランさんの工房からフライパンの試作が二号まで出ました」
カイロスの漁師組合から。
「オイル漬けの一週間後を確認しました。香りが変わっていて驚きました。もう一週間置いたものが食べたいです。タスカさんたちが次回の来訪を楽しみにしています」
アランヴァルのイルゼから。
「水運組合の食材部門が正式に発足しました。グレンが初回の炊き込みを担当しました。問題なく作れています」
三か所全部が動いていた。
朝食を作った。
久しぶりのスタジオの厨房だった。設備が旅先より整っている。棚に素材が並んでいる。発酵窯がある。魔導フライパンがある。
シンプルなものにした。
卵を焼いた。パンを切った。蜂蜜を出した。
にゃん吉が起きてきた。
「珍しいな、簡単なものを作っている」
「疲れているのかもしれません」
「認めるのか」
「事実です」とリディアは言った。
「旅先では止まれないので動き続けましたが、帰ってきたので少し落とします」
「それでいい」とにゃん吉が言った。
二人で朝食を食べた。
静かだった。
前世も含めてこのくらいの静けさが一番落ち着く、とリディアは思った。
午前中、ヴィランが来た。
「昨日はゆっくりお休みになられましたか」
「よく眠れました」
「それは良かったです。公爵閣下からお話があります。今日の昼にお時間をいただけますか」
「大丈夫です。ただし昼前にレオンさんと打ち合わせがあります」
「承知致しました。昼過ぎにご用意いたします」
ヴィランが帰りかけて、振り返った。
「リディア様、配信のアーカイブを確認しましたか」
「まだです」
「エルダ、カイロス、アランヴァルの配信が全部で二十三回あります。累計再生数が出ていました」
「どのくらいですか」
「三か所合計で、四百万を超えています」
リディアは少し止まった。
「四百万」
「はい。一回の配信の平均が十七万ほどです。アランヴァルの対立の回が特に多く、単独で五十万を超えています」
「ありがとうございます。後で確認します」
レオンが来た。
工房の資料を持っていた。分厚かった。
「量産の話から始めましょう」とリディアは言った。
「固形スープの素から始めてください」とレオンが言った。
「昨日の試作を工房に持ち帰って職人に見せたら、全員がすぐに量産できると言いました」
「素材の配合は決まっています。成形の型を作れますか」
「作れます。一週間で試作型を出します」
「並行してエルダ製フライパンの量産ラインも整備してください」
「そちらは今週中に分業の協定書をドランさんと取り交わします」
二人で次々に項目を確認した。
固形スープの素の量産。フライパンの分業ライン。保温容器の改良版。カイロスの海産保存食の流通ルートの正式化。アランヴァルの黒穀を原材料として仕入れるルートの開拓。
「まとめると」とリディアは羊皮紙に書いた。
「今月中に着手するものが五つ、来月中に形にするものが三つです」
「多いですが、全部並行して動かせます」とレオンが言った。
「無理がありますか」
「工房の職人が全員燃えています。旅先の配信を全員で見ていたので、自分たちも関わりたいと言っています」
「レオンさんも見ていましたか」
「全部見ていました。工作員が来た回は工房で実況のような状態になっていました」
「それは知りませんでした」
「にゃん吉さんが一瞬で取り押さえた場面で歓声が上がりました」
リディアはにゃん吉を見た。
「見ていたようですよ」
「知っている」とにゃん吉が渋い声で言った。
「配信中にコメントが来ていた」
昼過ぎ、父の部屋に通された。
窓から公爵領の街が見えた。
父が席についていた。ヴィランが隣に立っていた。
「座れ」と父が言った。
座った。
「無事に戻ったな」
「はい」
「三か所を回ってきたと聞いている。鉱山、港、湿地の街」
「そうです」
「報告を聞かせろ」
リディアは羊皮紙を出した。
エルダ、カイロス、アランヴァルの状況を順番に説明した。各地で何を作り、誰に教えて、どういう仕組みを残してきたか。取引ルートがどう繋がっているか。王都の妨害がどこで来て、どう対処したか。
父は黙って聞いていた。
途中で一度だけ口を開いた。
「カイロスで工作員を捕まえた時、お前はどこにいた」
「厨房車の中で仕込みをしていました」
「妨害が来ても仕込みを続けたのか」
「止まる理由がなかったので」
父がヴィランを見た。ヴィランが無表情で正面を向いた。
父が何か言いかけて、止めた。
「続けろ」
話を続けた。
全部話し終わった後、しばらく沈黙があった。
「公爵領の食材流通の件だが」と父が言った。
「お前が旅先を回っている間に、領内の商人たちから声が上がっていた」
「どういう声ですか」
「お前の配信を見た商人が、公爵領の食材を外に売る機会を作ってほしいと言ってきた。農村の生産者からも同じ声がある。ハンスという農夫が直接、公爵家に申し出てきた」
「ハンスさんが」
「娘の作った料理で魔豚の問い合わせが増えた。もっと広く販路を開きたいと言っていた」
リディアは少し考えた。
「エルダ、カイロス、アランヴァルのルートと、公爵領の生産者を繋げることができます。それぞれの拠点で食材を需要しているので、供給できます」
「そこまで考えていたか」
「輪郭は旅先で見えていました。具体的にはこれから詰めます」
父が腕を組んだ。
「一つだけ言う」
「はい」
「無理をするな、とヴィランを通じて言った。聞こえたか」
「聞こえました」
「守っていたか」
「守っていました。やることをやっていただけです」
「やることをやっていただけ、というのがお前の無理だ」と父が言った。
リディアは少し止まった。
「……肝に銘じます」
「銘じなくていい。ただ、疲れた時は言え」
父が立ち上がった。
「今夜は食堂で食事をする。連れてこい、その猫も」
「にゃん吉さんに伝えます」
「猫の飯も用意させる」
「神獣です」とリディアは言った。
「神獣の飯も用意させる」
夕方、ギルド食堂に行った。
久しぶりだった。旅に出る前より少し変わっていた。席数が増えていた。厨房の道具が一部新しくなっていた。クラウスが整備していたらしかった。
「お帰りなさい」とクラウスが言った。
「ただいまです。食堂の様子を教えてください」
「毎日満席です。カレーパンは今も行列ができています。ライセンスを持った近隣の店でも売っています」
「問題は出ていませんか」
「品質のばらつきが少し出ています。マニュアルがあっても、慣れていない人間が作ると差が出る場合があります」
「巡回指導が必要ですね。週一回、各店を確認する仕組みを作ります」
「誰がやるんですか」
「クラウスさんかギルドの人間にお願いしたいです。確認の基準をマニュアル化します」
「また仕組みを作るんですね」
「仕組みがあれば私がいなくても続きます」
夜、食堂に父が来た。
ヴィランと護衛が二人いた。
食堂の常連の冒険者たちがざわめいた。公爵が来たからだった。
父は気にしなかった。席についた。
「何があるか」と父は言った。
「今夜は帰ってきたばかりなので、シンプルなものです」とリディアは言った。
「スタミナ丼を作ります」
「それでいい」
厨房に入った。
スモーク肉を炙った。タレを絡めた。ご飯に乗せた。温泉卵を乗せた。
二人分作った。にゃん吉の分は小さい器に少量作った。
父の前に置いた。
父が黄身を崩した。タレと混ざった。一口食べた。
何も言わなかった。
ただ、二口目に進むのが早かった。
にゃん吉が自分の器を前足で押さえながら食べた。
「炙り肉が久しぶりだ」
「旅先ではあまり作れなかったので」
「公爵領に戻ったな、という味がする」
「そういうものですか」
「場所の味がする。食材も、道具も、同じでも場所が変わると少し違う」
父がにゃん吉を見た。
「神獣というのは、そういうことを言うものなのか」とつぶやいた。
「言います」とリディアは答えた。
「初めて聞いた」
「机の上では分からないことを知っています」
父が丼を半分ほど食べてから、リディアを見た。
「次はどうする」
「帰ってきたばかりです」とリディアは言った。
「一週間は公爵領で仕込みをします」
「一週間で次に動くのか」
「動きます。ただし今回は遠くではなくて、王都に近い場所で動きます」
「王都に近い場所とは」
「王都の中ではないですが、近くにある街です。王都系でない商人が集まっている場所があります。そこに拠点を作れれば、王都の内側から別のルートができます」
「王都の近くで動くのか」と父が言った。危険を心配する声だった。
「動ける状況なら動きます。状況次第では変えます」
父が丼の残りを食べた。
「考えておく」と言った。
「何をですか」
「王都の近くで動く際の、公爵家としての動き方だ。一人で動かせない部分がある」
「ありがとうございます」
「礼は要らん」と父が言った。
「親がやることだ」
にゃん吉が小さい声で「素直でないな」と言った。
父が聞こえたかもしれなかった。何も言わなかった。ヴィランが目を逸らした。
夜遅く、スタジオに戻った。
石の天井と魔石灯の光があった。
羊皮紙を広げた。
「また書くのか」とにゃん吉が言った。
「今日確認したことを整理します。明日からやることを書きます」
「帰ってきた日にやることか」
「頭にあるうちに書かないと消えます」
にゃん吉が缶を開けた。
「それなら、お前は書いたら寝ろ」
「分かりました」
ペンを動かした。
今月中に着手するもの。来月中に形にするもの。王都近郊の街の調査。公爵領の生産者との連携。エルダ製フライパンの量産ライン。固形スープの素の商品化。
書いた。
石の部屋が静かだった。
旅先の風音も、運河の水音も、鉱山の金属音もなかった。
静かな分だけ、頭が整理されていく感じがした。
これも必要な時間だと思った。
眠くなっていた。
魔石灯を少し暗くし、羊皮紙を閉じた。
明日から始まる。




