第43話:お湯一杯のスープ
アランヴァルを出て二日目の昼、車輪が鳴き始めた。
きぃ、という音が一定の間隔で出ていた。最初は小さかった。一時間経つと少し大きくなった。
「整備が要りますね」
「エルダから乗り続けているからな」とにゃん吉が言った。荷台の端で風を嗅いでいた。
「次の宿場町で止まります」
水晶板で三か所に短い通信を入れた。
エルダのセルム宛。
「角煮丼の状況を教えてください」
カイロスの漁師組合宛。
「オイル漬けの一週間後の確認はできましたか」
アランヴァルのイルゼ宛。
「組合の部門は動き始めましたか」
三か所から返信が来るまでの間、荷台で羊皮紙を整理した。この一か月の記録が溜まっていた。素材の記録、マニュアルの控え、取引の骨子、配信の構成メモ。
「整理しておかないと後で読めなくなります」
「今やらなくてもいいのではないか」とにゃん吉が言った。
「帰ってからやる気力がある保証がありません」
「正直だな」
宿場町に着いた。
小さな町だった。街道沿いに宿と食事処が並んでいる。通りがかりの旅人が多い。
厨房車を広場の端に止めた。
車輪を確認した。継ぎ目の部分に砂が入り込んでいた。油が乾いている部分もあった。魔導炉の接続部分にも軽い緩みがあった。
「思ったより各所に来ていますね」
「長距離を走った分だ」とにゃん吉が言った。
「レオンに連絡します」
水晶板でレオンに連絡を入れた。
【宿場町に停車中です。整備が必要な箇所があります。近くにいますか。——リディア】
返信が速かった。
【一時間で行きます。ちょうど近くにいました。——レオン】
「一時間です」とリディアはにゃん吉に言った。
「待つ間に何かするのか」
「仕込みをします」
「それ以外の答えを一度でいいから聞いてみたい」
荷台からアランヴァルで余分にもらった黒穀を出した。
道中で手に入れた素材もあった。宿場町の手前の村で売られていた干し肉と、乾燥した香草だった。
「試作をします」とリディアはにゃん吉に言いながら水晶板を起動した。
「また配信を始めるのか」とにゃん吉が言った。
「道中の配信です。宿場町から」
コメント欄に「久しぶりだ」「今どこにいるんだ」「帰り道か」が流れた。
「アランヴァルを出て公爵領に戻る途中です。整備の待ち時間に試作をします」
「何を作るんだ」という書き込みが来た。
「携帯用のスープの素です。お湯を注ぐだけで飲めるものを作ります」
コメント欄に「即席スープか」「そんなものが作れるのか」「旅人に需要がありそう」が流れた。
干し肉と香草を細かく刻んだ。
黒穀は炒った。ぱちぱちという音が宿場の広場に広がった。
「今日は黒穀を炊くのではなく、素材として使います」とリディアは言った。
「炊いた後に乾燥させれば、携帯できる形になります」
「乾燥させるんですか」とコメント欄に書き込みが来た。
「乾燥させると水分が抜けて保存期間が延びます。お湯をかければ戻ります」
炒った黒穀を出汁で一度炊いた。短時間で仕上げた。半炊きの状態にした。
「今日は完全には炊きません。お湯で最終的に仕上がるように、途中で止めます」
半炊き状態の黒穀を広げた。魔石灯の熱を当てて乾燥させた。
干し肉と香草と混ぜた。発酵調味料を少量加え塩で整えた。
全部を合わせて丸めた。
手のひらの半分くらいの大きさの塊ができた。
「これがスープの素です」
レオンが来た。
約束通り一時間で来た。工具を入れた袋を持っていた。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです。ドランさんのフライパンのデータを持ってきましたか」とリディアは言った。
「持ってきました」とレオンは言いながら車輪を見た。
「これは砂が入っていますね。油も乾いています」
「分かりますか」
「音が特徴的でした。通信で教えてもらった時点で想像していました」
レオンが整備を始めた。
工具を取り出して車輪の継ぎ目を確認した。砂を払った。専用の油を差した。魔導炉の接続部分の緩みを締め直した。
「ドランさんのフライパンですが」とレオンが作業しながら言った。
「熱伝導率のデータを見て、工房の技師が全員興奮していました。こんな数値が出た素材は今まで見たことがないと」
「量産に向けて動いていますか」
「動いています。ただし赤鉄鉱の加工が難しいので、ドランさんの工房と連携することにしました。エルダで加工した半製品をこちらに送ってもらって、仕上げを公爵領の工房でやる分業制にします」
「それはいいですね。エルダの仕事が増えます」
「そう考えました。リディア様が拠点を作ってきた場所が全部繋がる形になります」
リディアはお湯を用意した。
試作した固形スープの素を一個、器に入れた。
「お湯を注ぎます」
注いだ。
素が崩れ始めた。干し肉が戻っていく。黒穀が膨らんでいく。香草の香りが出た。発酵調味料の香りが広がった。
三十秒で形が変わっていた。
「混ぜます」
スプーンで混ぜた。
「できました」
レオンに渡した。
レオンが整備の手を一度止めた。受け取った。一口飲んだ。
目が大きくなった。
「お湯を注いだだけで」
「そうです」
「アランヴァルの炊き込みの味がします」
「同じ素材を使っています。黒穀と干し肉と香草です」
「でもこれ、お湯をかけるだけですよ」
「工程を全部事前に済ませておいたので」
「旅の常識が変わります」とレオンが言った。
「商人も冒険者も、どこにいても温かいものが飲めます」
「量産できますか」
「できます。素材の配合さえ決まれば、組み合わせる作業は単純化できます。型があれば成形も揃います」
「型を作ってください。帰ったらすぐに話を詰めましょう」
レオンがスープを飲みながら羊皮紙にメモした。飲みながらメモする器用な人だった。
コメント欄に「お湯かけるだけのやつ」「旅の常識が変わる」「レオン技師が生き生きしてて草」「商品化してほしい」が流れた。
にゃん吉が固形スープの素を一個もらった。
お湯を自分で注いだ。前足でスプーンを持って混ぜた。
「自分でやるのですか」
「できる」
一口飲んだ。
「黒穀が半炊きの状態から戻っている」
「お湯の熱で最終的に炊き上がります。だから事前に半炊きにしておきます」
「計算されているな」
「半炊きで止める時間が重要でした。止めすぎると戻りにくくなります。短すぎると旨味が出ません」
「どこで止めるか分かるのか」
「匂いで分かります」
にゃん吉が「そうか」と言った。もう一口飲んだ。
整備が完了した。
レオンが車輪を確認した。魔導炉の接続部分を確認した。
「問題ありません。このまま公爵領まで走れます」
「ありがとうございます」
「一緒に帰りますか、私も公爵領に向かうところでした」
「一緒に行きましょう。話したいことがあります」
「量産の話ですか」
「それと、エルダ、カイロス、アランヴァルの状況を整理して、次の展開を考えたいです。レオンさんの商会として動けることがあれば一緒に考えたい」
「喜んで」とレオンが言った。
夕方、公爵領が見えてきた。
城門が見えた。
城門の前に人影があった。
複数の人影だった。
近づいた。
ヴィランが立っていた。その隣に、背が高い人影があった。
「父ですね」とリディアはにゃん吉に言った。
「城門まで来ているのか」
「心配していたんだと思います」
「素直でないな、相変わらず」
「そういう人です」
厨房車が門に近づいた。
父が動かなかった。ただ立っていた。厳格な顔だった。表情が読めなかった。
リディアは厨房車から降りた。
「お帰りなさい」とヴィランが言った。
リディアは父を見た。
「ただいま帰りました、お父様」
父が少し目を細めた。
「無事か」
「無事です」
「そうか」とだけ言った。
それで十分だった。
城門をくぐった。
公爵領の石畳の音が、旅先とは違う音をたてた。
帰ってきた音だった。




