第41話:アランヴァル編② 黒穀のマニュアル
朝は霧が濃く、運河が見えなかったが、水音だけが聞こえた。
リディアは夜明け前から動いていた。
黒穀のマニュアルを仕上げなければならなかった。昨夜の骨子に肉をつける作業だった。浸水の時間と液体の比率。炒りの温度と時間の目安。炊き込みの水分量と火加減。失敗した時の原因と対処法。
書きながら確認のために試作をした。
二回目の黒穀を仕込んだ。昨夜と同じ工程を、今度は意識的に一工程ずつ区切りながらやった。マニュアルに書いた内容が実際に再現できるかを確認する作業だった。
「また朝から仕込んでいるのか」とにゃん吉が言った。
「マニュアルの確認です。自分が書いた通りにやって、同じ結果が出るか確かめます」
「出なかったら」
「書き直します」
昨夜の人影について、にゃん吉に聞いた。
「今朝も気配がありますか」
「ある。昨夜と同じ人間ではない。別の人間が来ている。入れ替わっている」
「交代制ですね」
「組織的に動いている」
「水運の妨害屋と聞いていますが、どういう手を使いますか」
「荷を積んだ船を遅らせる。水路の要所を塞ぐ。通行料を不当に取る。そういう仕事だ」
「物理的な妨害ですね」
「腕力で解決する種類の仕事をしている人間の体型をしていた」
リディアは少し考えた。
「今日、マリウスの取引先に会う予定があります。アランヴァルで物流を扱っている商人です。その人間から情報を集めます」
「俺は周囲を確認しておく」
「お願いします」
午前中、マリウスの紹介状を持って商人のところへ行った。
名前をイルゼという女商人だった。四十代で、体格が良く声が低かった。水運の仕事を長年やってきた人間の顔をしていた。
「マリウスから話は聞いています」とイルゼは言った。
「移動厨房車で食事を作っている令嬢でしょう。昨日の配信を見ました」
「見ていましたか」
「水運の仲間が全員見ていました。黒穀がああなるとは誰も知らなかった」
「マニュアルを作っています。今日中に渡せます」
「それより先に聞きたいことがある」とイルゼが言った。
「どうぞ」
「昨夜から工作員が動いています。あなたたちを監視している。気づいていますか」
「気づいています」
「対処法は」
「まだ考えています。情報が足りないので、イルゼさんに聞きに来ました」
イルゼが少し目を細めた。
「直接的だな」
「遠回りをしても時間が無駄になります」
「エルダでもカイロスでも同じやり方をしてきたのか」
「同じです」
イルゼが腕を組んだ。
「工作員の動きはこちらも把握していた。王都系の商会から金を受け取っている連中だ。水路の要所に人間を配置して、気に入らない荷を通さない。合法と非合法の境界線上にいる」
「どこが境界線ですか」
「通行料と称して取る金が、合法の範囲内に収まっている。法的には取り締まれない。ただし実質的な妨害だ」
「その人間たちを動かしているのは誰ですか」
「王都の商会の名前は分かっている。ただし直接の命令系統は見えていない。間に二つ三つ組織が挟まっている」
リディアは羊皮紙に書いた。
「エルダやカイロスと同じ構造ですね。直接手を出さずに、地元の人間を動かす」
「そうだ」
「では対処法も同じです」
「どういうことですか」
「地元の人間を動かすなら、地元の別の人間が対抗できます。工作員を使っている側より、こちらと利益が一致する人間の方が多いはずです。そちらを動かします」
イルゼが「どうやって」と言った。
「今日の昼に配信をします。黒穀のマニュアルを公開します。来た人に食べてもらいます。それだけです」
「妨害への対処が、飯を作ることなのか」
「食事が基盤です。基盤ができれば人が集まります。人が集まれば組織ができます。組織ができれば対抗できます」
イルゼがしばらくリディアを見た。
「マリウスが組んで正解だったと言っていた。今日分かった」
昼の配信を始めた。
今日は試食役が増えていた。昨日来ていた荷揚げの男たちが今日も来ていた。新しい顔もあった。
「黒穀のマニュアルを公開します」とリディアは言った。
「今日は一緒に作ってもらいます」
コメント欄に「マニュアル回だ」「エルダのセルムとマリみたいな展開」「現地内製化パターンきた」が流れた。
昨日来ていた荷揚げの男が前に出た。名前をグレンと言った。
「昨日から気になっていた」とグレンが言った。
「家に帰って家族に話したら、自分たちでも作りたいと言っていた」
「今日覚えれば作れます。材料は市場で安く買えます」
「黒穀は捨て値だからな」
「それが強みです」
グレンに隣に立ってもらった。
「一工程ずつ一緒にやります。まず浸水から始めます」
黒穀を器に入れた。
「酸性の液体を薄めた水を使います。ここでは、この地域で採れる酸味の強い魔果実の汁が使えます。市場で売っています。比率はこれです」
羊皮紙を見せた。
グレンが見た。
「比率というのは量の割合ですか」
「そうです。果汁一に対して水を九です」
「一対九か。書いておきます」
グレンが羊皮紙に書き写した。
「浸水は一時間です。その間に出汁を作ります」
一時間後、炒りの工程をグレンにやってもらった。
フライパンに黒穀を入れた。
「弱火で動かし続けます。止まると焦げます」
グレンが動かした。最初は大きく動かしすぎた。
「もう少し小さく。フライパンの中で転がすくらいのイメージです」
グレンが調整した。
「この匂いが出たら次です」
「昨日と同じ匂いだ」とグレンが言った。
「そうです。匂いで判断します。時間より匂いを基準にした方が失敗しにくい」
「匂いで判断するのか」とグレンが言った。
「計れないな、匂いは」
「だから体で覚える必要があります。三回やれば分かってきます」
「三回か」
「エルダでも同じことを言いました」
炊き込みの工程になった。
出汁を加えた瞬間の音が広場に響いた。
ジュアッという音が来た。
運河の向こうから人が来た。音と匂いを聞きつけた人間だった。
「また人が増えますね」とクラウスが言った。
「昨日より多いです」
「昨日来た人間が家族や仲間を連れてきています」とイルゼが言った。隣にいた。
「話が広がっています」
炊けた。
グレンが蓋を開けた。
「昨日より良いおこげができています」とリディアは言った。
「俺が作ったのか、これが」
「工程を全部グレンさんがやりました」
「信じられない」
「マニュアル通りにやれば同じものが作れます。昨日と今日で二回やりました。もう一回やれば体が覚えます」
試食が始まった。
来ていた人、全員に回した。
子供が一人来ていた。荷揚げ人の家族らしかった。器を受け取って食べた。
「温かい」と子供が言った。
「そうです」
「いつも食べているのは冷たいパンです」と子供が言った。
「温かいものは体が楽になります」
子供がもう一口食べた。
コメント欄に「子供の一言が刺さる」「冷たいパンだけで生きていたのか」「令嬢の飯が届いてよかった」が流れた。
配信の終盤、イルゼが前に出た。
「一つ、皆さんに話をしていいですか」とイルゼはリディアに言った。
「どうぞ」
イルゼが水晶板の前に立った。慣れていない動き方だったが、声ははっきりしていた。
「王都の工作員がこの街の水路を妨害しています。皆さんも体で感じているはずです。通行に余分な金を取られる。荷が遅れる。そういう嫌がらせが続いています」
来ていた人間たちが頷いた。
「リディアさんはエルダでもカイロスでも、現地の人間が自分たちで動けるようにしていきました。私は今日それを見て、アランヴァルでも同じことができると思いました」
「具体的には何をするんですか」とグレンが言った。
「水路を使う人間が集まって、妨害に対して一緒に声を上げることができます。一人では対抗できなくても、全員で動けば違います」
「組合みたいなものか」
「そうです」
人込みの中で話し合いが始まった。
リディアは配信を続けながら、その様子を映した。
「アランヴァルで何かが動き始めています」と水晶板に向かって言った。
「食事から始まって、人が集まって、動きが生まれています」
コメント欄に「これが令嬢の本当のすごさだ」「飯が起点で組合ができてる」「エルダ、カイロス、アランヴァルと全部同じパターンで違う結果が生まれてる」「スパチャ連打」が流れた。
夕方、人込みが落ち着いてから、にゃん吉が来た。
「工作員の動きが変わった」
「どう変わりましたか」
「観察から行動に移ろうとしている。水路の主要な分岐点に人を配置し始めている」
「明日、動いてくる可能性がありますね」
「高い」
「イルゼさんに伝えます」
イルゼに連絡した。イルゼはすでに把握していた。
「動くなら早い方がいい」とイルゼが言った。
「明日の朝、水路の組合の人間を集めます。人数で対抗します」
「配信も続けます。人が見ている状況で動けば、工作員も派手なことはできません」
「カイロスの時と同じか」
「同じです。見られているという状況が抑止力になります」
夜、マニュアルを最終版に仕上げた。
十枚書き写した。エルダとカイロスの時と同じ枚数だった。
「どこに配りますか」とクラウスが言った。
「ギルドに一枚。イルゼさんに一枚。グレンさんに一枚。残りは明日来た人間に渡します」
羊皮紙を束ねた。
にゃん吉が缶を置いた。
「明日、何かが動くな」
「そうですね」
「備えはあるか」
「あります。ただし私がやることは変わりません。朝から仕込みをして、配信をします」
「妨害が来ても仕込みをするのか」
「止まる理由がないので続けます」とリディアは言った。
「止まった時に向こうが有利になります。続けている間はこちらが主導権を持っています」
にゃん吉が「そうか」と言った。
霧が夜になっても晴れなかった。
運河の水音が続いていた。
魔石灯の光の下で、マニュアルの最後の確認をした。
明日何が来ても、黒穀の炊き込みの作り方は羊皮紙に残っている。グレンが体で覚えている。それは変わらなかった。




