第40話:アランヴァル編① 霧の街
カイロスを出て二日目の昼、地形が変わった。
緑が増えた。ただし乾いた緑ではなく、草の背が高い湿った緑だった。道の両側に水が見える。川か、水路か、その両方が入り組んでいた。
「湿地に入りましたね」
「この辺りは昔から水が多い」とにゃん吉が言った。荷台の端で風を嗅いでいた。
「土の匂いより水の匂いが強い」
「エルダの金属の匂い、カイロスの塩の匂い、ここは水の匂いです」
「お前は匂いで場所を覚えるのか」
「覚えやすいので」
霧が出始めた。
薄い霧。遠くが霞んでいる。道が川と並走している区間が増えた。
アランヴァルが見えてきた。
街は水の中に建っていた。
正確には、水路の間に建っていた。運河が街を縦横に走っていて、橋がいくつもかかっている。船が行き交っていた。陸の荷車と川の船が同じ荷を別のルートで運んでいる街だった。
霧が低く漂っていた。
人の顔が疲れていた。カイロスの漁師の疲れとは違う疲れ方のような気がした。荷揚げをしている人間の体が、全員前傾みになっていた。
「食べ物を見てきます」とリディアはにゃん吉に言った。
「市場か」
「先に市場を見ます」
市場は運河沿いにあった。
並んでいるものを確認した。
新鮮な野菜が少なかった。湿気で傷んでいるものが混じっていて、売り手が困った顔をしていた。肉は塩漬けが中心だった。調味料は塩と乾燥した香草だけが目立った。
値段を見た。
安いものと高いものの差が大きくて、安い方に傷みかけのものが集まっていた。
市場の端に来た時、足が止まった。
袋が積まれていた。
黒い粒が袋から少し溢れていた。色が濃い。つやがない。粒の大きさが不揃いだった。
「これは何ですか」とリディアは売り手に聞いた。
売り手は四十代の女だった。面倒くさそうな顔をした。
「黒穀だ。食えないから安い。家畜の餌か、飢饉の時の非常食くらいにしかならない」
「炊いたことはありますか」
「炊いた。ボソボソして喉を通らない。固い殻が残る。まともに食えたものじゃない」
リディアは一粒取って手のひらに乗せた。
黒い。固い。押しても変形しない。殻が分厚い。
(野生米に近い。あるいは玄米の原種に近いもの)
前世の知識が動いた。
この種の穀物は、普通に炊くだけでは固さが残る。殻が固すぎて水が浸透しない。ただし、適切な方法を使えば話が変わる。
長時間の浸水。酸性の液体を使った前処理。高温での炊き込み。この三つが揃えば、殻が弾けて中の旨味が出てくる。
「全部もらえますか」とリディアは言った。
「全部?」と女が言った。
「あります?袋ごと全部」
「六袋ある。値段はいくらでもいい。どうせ売れないものだから」
「正規の値段で買います」
女が不思議そうな顔をした。
設営場所は運河沿いの広場だった。
マリウスがアランヴァルの取引先に話を通しておいてくれていた。広場の一角を使う許可が出ていた。
移動厨房車の側面を開けた。
エルダ製のフライパンを出した。ドランが作った試作一号だった。カイロスでも使っていた。熱伝導率が高い分、均一な加熱ができる。
「炊き込みにします」とリディアはにゃん吉に言った。
「炊き込みというのは」
「穀物を出汁で炊くやり方です。水の代わりに旨味のある液体を使います。素材に旨味が染み込みます」
「黒穀に旨味が染みるのか。固くて炊けないと言われていたのに」
「前処理が要ります。まず浸水させます。カイロスから持参した魔果実の酸性の汁を薄めた水を使います。酸が殻を柔らかくします」
水晶板を起動した。
「湿地の街アランヴァルから配信します」とリディアは言った。
「家畜の餌扱いされている黒い穀物を使います」
コメント欄に「また知らない街だ」「黒い穀物?」「ボソボソして食えないやつでは」「どこからそんな食材探してくるんだよ」が流れた。
黒穀を画面に映した。
「これが黒穀です。殻が固くて、普通に炊いてもボソボソになります。ただし適切な方法で処理すれば、別の食材になります」
酸性の汁を薄めた水に黒穀を沈めた。
「一時間浸水させます。この間に出汁を作ります」
カイロスから持参した保存食を出した。オイルサーディンの瓶と、小魚の発酵ペーストだった。
「この発酵ペーストを出汁に使います。海の旨味が凝縮されています」
水に発酵ペーストを溶かした。香草を加えた。塩で味を整えた。
コメント欄に「カイロスの保存食をアランヴァルで使ってる」「繋がってる」「出汁が複数の場所から来てる」が流れた。
一時間後、黒穀の状態を確認した。
触った。昨日より柔らかかった。殻が少し変化していた。
「良いです。次に炒めます」
フライパンを熱した。
黒穀を乾煎りした。音が出た。ぱちぱちという音だった。殻に熱が入ると、香ばしい匂いが出てきた。前世でナッツを炒った時の匂いに似ていた。
「香ばしい匂いがします」と漁師が言った。
いつの間にか漁師が来ていた。正確には水運の労働者だった。荷揚げの手を止めて、匂いの方を向いていた。
「炒ることで香りが出ます。この香りが後の工程で残ります」
出汁を加えた。
ジュアッという音と一緒に蒸気が上がった。
液体が黒穀に当たって、音が変わった。殻が出汁を吸い始める音がした。
蓋をした。
「弱火で炊きます。時間をかけます」
十五分待った。
蒸気が蓋の周囲から出てきた。匂いが変わった。
海の旨味と、香ばしい穀物の匂いが混ざっていた。
霧の街に、その匂いが広がっていった。
人が来た。
最初は一人だった。荷揚げ作業をしていた男が、荷を置いてこちらに来た。
次が二人。運河の船を繋いでいた船頭が来た。
また増えた。
蓋を開けると、黒穀が炊けていて、色が変わっていた。黒から濃い茶色になっていた。粒が少し大きくなっていた。表面に光沢がある。
端の部分を確認した。おこげができていた。薄く、均一なおこげだった。エルダ製フライパンの均一な熱の効果だった。
「食べてください」
器に盛った。
最初に来ていた荷揚げの男に渡した。
男が一口食べた。
「……ボソボソじゃない」
「そうです」
「柔らかい。旨味がある。海の匂いがする」
「出汁が染み込んでいます」
「これがあの黒穀か」と男は言った。
「俺たち、毎日これを素通りしていた」
「処理方法を知らなければ食えないものです。知れば食えます」
次の器を渡した。
別の男が食べた。
「おこげが香ばしい」と言った。
「フライパンの熱が均一なのでおこげが均一にできます」
「均一なおこげというのがあるのか」
「ある場所とない場所があると、食感が変わります。均一だと全部同じ食感になります」
コメント欄に「労働者の顔が変わっていく」「毎日素通りしていたという言葉が刺さる」「黒穀が覚醒した」「スパチャ連打」が流れた。
配信が続いていた。
広場に人が増えていた。作業を続けながら匂いを嗅いで来た人間、配信の話を聞いて来た人間、たまたま通りかかった人間が混ざっていた。
にゃん吉が器を受け取った。
黒穀を一口食べた。
「出汁と穀物が一体になっている」
「炊き込みの効果です。炊いた後に出汁をかけるのと、出汁で炊くのは全然違います」
「何が違う」
「内側から味がします。かけた場合は外側だけです」
にゃん吉が二口目を食べた。
「おこげは別の食感だ」
「そうです。同じ器の中に二種類の食感があります」
「それが良いのか」
「食べていて飽きません。一つの食感だけより変化があります」
にゃん吉が三口目を食べた。返事をしなかった。それが答えだった。
コメント欄に「にゃん吉が黙って食べてる時が本当に美味い時だ」「三口食べた」「スパチャ投げます」が流れた。
配信の終盤、人込みの端に人影があった。
最初は気にしなかった。来ている人間が多いので、人影があること自体は普通だった。
にゃん吉の耳が動いた。
ほんの少し、一方向に向いた。
リディアはにゃん吉を見た。
にゃん吉が目だけで合図した。
(見ている人間がいる)
リディアは配信を続けた。
「今日の黒穀の炊き込みは以上です」と水晶板に向かって言った。
「明日は処理方法のマニュアルを作ります。現地の皆さんでも作れるように」
コメント欄に「また内製化させる気だ」「エルダとカイロスと同じパターンだ」「次話も楽しみ」が流れた。
配信を終えた後、クラウスを呼んだ。
「人込みの端に、見ている人がいます」
「工作員ですか」
「分かりません。にゃん吉さんが気配を感じています」
にゃん吉が言った。
「王都の匂いではない。ただし雇われた人間の匂いはする。どこかから金をもらって動いている人間だ」
「カイロスと同じ手ですか」
「似ているが、別の種類だ。カイロスは港を使う人間で、ここは別の仕事をしている人間だ」
「街道か水運の関係の人間ですか」とリディアは聞いた。
「その辺りだ」
リディアは広場を確認した。人影はまだいた。動いていない。観察している動き方だった。
「今夜は動かないと思います。まだ情報を集めている段階です」
「どうしますか」とクラウスが言った。
「明日の仕込みをします」とリディアは言った。
「向こうが動く前に、こちらがやることを終わらせます」
羊皮紙を取り出した。
黒穀の処理マニュアルの骨子を書いた。浸水の方法。炒りの工程。炊き込みの手順。
霧が濃くなっていた。
運河の水音が聞こえた。
街の空気は重かったが、器の中は温かかった。




