第39話:出航の夜
出航前日、リディアは夜明けから動いていた。先にマニュアルを仕上げなければならなかった。
出汁の取り方。魚の塩漬けの手順。オイル漬けの比率と保存期間の目安。瓶の密封方法。全部を羊皮紙に書いた。
書きながら仕込みをした。
オルセンたちに出す約束の食事の分を準備した。海鮮カレーの新しい鍋を火にかけた。昨日より素材が増えていた。市場の漁師から追加で買い取っていた分だった。
「手が足りないなら言え」とにゃん吉が言った。
「マニュアルの確認をしてください。分かりにくい部分があれば指摘してください」
「俺が読むのか」
「神獣は万能です」
「買いかぶりだ」とにゃん吉は言ったが、羊皮紙に前足を置いて見始めた。
午前中、港の若い漁師と漁師の家族を集めた。
マリウスが声をかけてくれていた。十人ほどが広場に来た。二十代前後が多くて、家族連れが三組いた。子供が二人いた。
「昨日から作っている保存食の作り方を教えます」とリディアは言った。
「私がいなくなっても、同じものが作れるようになってほしいので」
最初は出汁の取り方を実演した。
海老の頭を炒めた。音が出た。香りが出た。
「この香りが出たら次の工程に進めます。香りが出る前に水を入れると、旨味が十分に出ません」
子供の一人が前に出てきた。七歳か八歳くらいだった。
「触っていいですか」と言った。
「熱いので火には触れないでください。匂いなら嗅いでもいいですよ」
子供が近づいてきた。鍋の縁から香りを嗅いだ。
「甘い匂いだ」と言った。
「そうです。海老が焼けると甘い香りになります。生の時と違います」
「なんで」
「熱で成分が変わります。詳しく説明すると長くなるので、今日は覚えなくていいです。ただ、この匂いが出たら次に進むということだけ覚えてください」
子供が頷いた。
コメント欄に「子供に教えてる」「次の世代に繋ぐやつだ」「令嬢の教え方が上手い」が流れた。
塩漬けの実演をした。
昨日仕込んだものを取り出した。一日経った分だった。
「見てください。水分が出ています。魚の中から塩が水を引き出した分です」
漁師の一人が「これを捨てるのか」と言った。
「捨てます。この水分には臭みが含まれています。捨てることで素材が締まります」
「なるほど」
「次は新しく仕込みます。やってみますか」
漁師が前に出た。魚を手に取り、包丁を入れた。開いてから、内臓を取った。
「次に塩を振ります。全面に、均一に」
漁師が振った。多すぎた。
「少し多いです。塩が多すぎると食べた時に辛くなります。薄く、でも全面に。粉雪が降るくらいの量です」
漁師がやり直した。今度は均一に振れた。
「それで大丈夫です」
漁師が少し照れた顔をした。
オイル漬けの瓶詰めは全員でやった。
魚を並べる担当、油を注ぐ担当、香草を入れる担当、蓋を閉める担当に分けた。
「流れ作業にすると速くなります。一人で全部やるより、役割を分けた方が量が作れます」
「仕事みたいだな」と年配の漁師が言った。
「仕事です。保存食の生産は、釣りと同じ仕事です」
全員が動いた事で瓶が増えていった。
コメント欄に「チームワークが生まれてる」「現地で産業になりそうだ」「エルダのセルムとマリみたい」が流れた。
昼過ぎ、マニュアルを印刷した分を渡した。
正確には、複数枚に書き写したものだった。クラウスが手伝ってくれた。十枚用意した。
「一枚はギルドに保管してください。一枚はマリウスさんのところに。残りは各自で持っていてください」
一番最初に来た若い漁師が受け取った。
「これがあれば作れますか」と聞いた。
「作れます。ただし最初の二回三回は失敗するかもしれません。失敗したらマリウスさん経由で私に連絡してください。原因を確認します」
「いなくなるのか」
「明日の夜には出発します」
「また来るか」
「来ます。保存食の品質確認と、次の工程の開発のために」
「次の工程というのは」
「燻製があります。燻すことでさらに保存期間が延びます。それはまた今度に」
漁師が「楽しみにしてる」と言った。
夕方、オルセンとフィンとキースが来た。
出航の最終確認をした。
「夜明け前の四時に動く」とオルセンが言った。
「その前に荷を積む。日が変わった頃から積み込みを始める」
「荷の内容を確認します」とリディアは言って羊皮紙を出した。
「エルダの鉱石が第一優先。次にカイロスの保存食。鉱石は重さがあるので三艇でも限界があります。保存食の量はそれに合わせて調整します」
「鉱石の重さは把握している」とキースが言った。
「荷を積む前にもう一度計量する」
「お願いします」
「食事の約束だが」とオルセンが言った。
「今夜です」
「楽しみにしていた」
配信を始めた。
「今夜は出航前の食事をします」とリディアは言った。
「オルセンさんたちへの約束です」
コメント欄に「船主たちが来た」「出航前夜だ」「何を作るんだ」が流れた。
海鮮カレーを温めた。昨日より馴染んでいた。出汁が深くなっていた。
「一日置いたカレーです」
「また馴染んだのか」とオルセンが言った。
「そうです。時間が仕事をしました」
オイルサーディンを出した。二日目のものだった。油が素材に入り込んでいた。昨日より柔らかく、香りが複雑になっていた。
「パンと一緒にどうぞ」
三人が食べ始めた。
オルセンが海鮮カレーを飲んだ。
「昨夜より深い」
「素材が馴染んでいます」
「時間が料理するのか」
「時間も調理の一部です」
フィンがオイルサーディンをパンに乗せた。食べた。
「昨日とまた違う」
「一日で変わります。一週間後はもっと変わります」
「見たかったな、一週間後のやつ」
「次に来た時に持ってきます。今日仕込んだ分が一週間後のものになります」
フィンが「それは来る理由ができた」と言った。
にゃん吉が海鮮カレーを飲んだ。
「出汁が三日分の深みになっている」
「毎回出汁を足しながら煮ています。前の出汁が次の出汁の基礎になります」
「積み重ねか」
「時間と素材の積み重ねです」
コメント欄に「カレーが育ってる」「三日分の積み重ねってロマンがある」「スパチャ投げます」が流れた。
深夜になった。
配信を終えた。オルセンたちが積み込みの準備に向かった。
マリウスが残っていた。
「出航後の届け先はこちらで段取りをします」と言った。
「問題は出ないと思いますが、もし連絡が必要な時は水晶板で」
「お願いします」
「こちらこそ」とマリウスが言った。
「リディア様がカイロスに来てから、港の空気が変わった。封鎖されても止まらなかった。それを全員が見ていた」
「漁師の方たちが動いてくれたおかげです」
「動いた理由があなたにある、ということです」
リディアは返事をしなかった。
マリウスが少し笑った。
「謙遜するのかと思ったが、受け取らないのか」
「考えていました」とリディアは言った。
「受け取るべきか」
「受け取ってください。事実ですから」
「分かりました。ありがとうございます」
「それでいい」
夜明け前の四時、波の音が大きくなった気がした。
三艇の船が動き始めた。
荷が積まれていた。エルダの鉱石。カイロスの保存食。マリウスの商会の荷が少し加わっていた。
岸壁でオルセンが振り返った。
「また来るか」と言った。
「来ます。一週間後のオイルサーディンを持って来ます」
「待っている」
船が離れた。
暗い水面を進んでいった。浅瀬を通るルートだった。大型船が入れない場所を知っている人間たちの船だった。
コメント欄に「出航した」「王都の封鎖を突破した」「深夜の配信にスパチャ投げます」が流れた。
空が白み始めた頃、漁師が来た。
今日の漁に出る前に寄った、という顔だった。
「昨日習ったやつ、今日からやってみる」と言った。
「どれですか」
「出汁の取り方。頭を捨てるのをやめて、炒めてから煮る」
「やってみてください。分からなければマリウスさん経由で聞けます」
「あんたに直接聞けないのか」
「離れた場所にいますが、水晶板で繋がれます」
「便利なもんだな」と漁師が言った。
「じゃあ行ってくる」
漁師が港に向かった。
船が出ていった。今度は漁に出る船だった。
王都の封鎖は続いているかもしれない。でも今朝、漁師は出汁の取り方を知っている状態で船に乗った。昨日と違う状態で今日が始まった。
移動厨房車の準備を始めた。
「出発しますか」とクラウスが言った。
「今日中に出ます」
「次の目的地は」
「決めながら動きます」
にゃん吉が荷台に乗った。
「王都の報告が来るな、今日中に」
「来ると思います」
「何と言ってくるか」
「想像はできます。ただし来てから対処します。来る前に心配しても何も変わりません」
荷車が動き出した。
港が後ろになった。
波の音が遠くなり、塩の匂いが薄くなった。
マリウスが岸壁に立っていた。手を上げた。
リディアも手を上げた。
道が伸びていた。
羊皮紙を広げた。
「次の候補地を書きます」とリディアは言った。
「もう考えているのか」
「移動中は考える時間があります」
にゃん吉が缶を開けた。
「公爵領に戻る選択肢はないのか」
「あります。ただし戻る前にもう一か所行きます」
「どこだ」
「王都の近くに、王都系ではない商人が集まっている街があります。ヴィランの情報で把握しています。そこに流通の拠点を作れれば、王都の内側から別のルートができます」
「王都の真横に拠点を作るのか」
「王都の妨害が届きにくい場所を選びます。王都系ではない人間が集まっているなら、そういう場所のはずです」
にゃん吉がしばらく黙っていた。
「……面白い発想だな」
「包囲するつもりはありません。ただ、選択肢を増やすだけです」
「結果として包囲になる」
「なりますね」
道を曲がると港が完全に見えなくなった。
空が青くなって夜明けが終わっていた。
次の目的地の名前を羊皮紙に書いた。その下に確認すべき事項を書いた。
やることが、また増えた。




