第38話:妨害と団結
昼、マリウスが戻ってきた。
顔に疲れがあった。交渉がうまくいかなかったような顔だった。
「どうでしたか」
「三人の船主に当たりましたが、全員が断りました」とマリウスは椅子に座りながら言った。
「王都系の商会から相当な金が動いている。断れない理由を作られている」
「脅しですか」
「金と脅しの両方です。船を出せば今後の取引から外すと言われているようです。カイロスの大きな船主は王都との取引で生きているから、それが一番効く」
「全員ですか」
「大手は全員だ」とマリウスが言った。
「ただし」
「ただし?」
「大手ではない船主がいる。浅瀬を通れる小型船を持っている連中だ。王都の大型船が入れない水路を知っている。ただしあの連中は一筋縄ではいかない」
「どういう人たちですか」
「商売と密輸の境界線上を生きている人間たちだ。金だけでは動かない。信用しているか、惚れ込んだ相手にしか船を出さない」
「会えますか」
「今夜、港の奥の酒場に集まっている。ただしリディア様が行っても、最初は相手にされない可能性が高い」
「それでも会います」
夕方、仕込みの続きをした。
昨日からの塩漬けの状態を確認した。水分がしっかり出ていた。魚の身が締まっている。色が落ち着いていた。
「順調です」
新たにオイル漬けの瓶を三本作った。香草の配合を昨日より変えた。ローズマリーに近い魔草を多くした。保存期間を延ばす効果がある。
水晶板を起動した。
「今日は仕込みの続きを見せます」とリディアは言った。
「港の封鎖が続いています。その間も保存食は積み上がっています」
コメント欄に「封鎖まだ続いてるのか」「王都の嫌がらせエグすぎる」「でも令嬢は動じてないな」が流れた。
「止まる理由がないので続けています」
オイルを瓶に注いだ。魚が沈んでいく。油の色が澄んでいる。
「これが一週間後には別の食材になっています。時間が仕事をします」
コメント欄に「仕込みが着実に進んでる」「封鎖されてる間に戦力が積み上がってて草」が流れた。
配信を終えて、片付けをしていた時だった。
にゃん吉の耳が動いた。
昨日と同じ動き方だった。鋭く、一点に向く。
「また来ていますか」
「一人だ。今回は厨房車に近づいている」
「食材を」
「手を伸ばそうとしている」
リディアは動かなかった。
普通に片付けを続けた。
にゃん吉がカウンターからゆっくりと降りた。
音がしなかった。
次の瞬間、厨房車の外で短い音がした。何かが地面に倒れる音だった。
外に出た。
男が地面に伏せていた。動けない状態になっていた。にゃん吉が男の背中の上に座っていた。前足で押さえていた。丸々とした猫が人間を押さえているという、非常にシュールな絵面だった。
「離してくれ」と男が言った。
「動くな」とにゃん吉が渋い声で言った。
マリウスを呼んだ。マリウスが人を連れてきた。男を別の場所に移した。
話を聞いた。
男は王都から来ていた。商会の雇われ人だった。今回の仕事は、移動厨房車の食材に傷んだものを混ぜること、または器具を密かに壊すことだった。
「他に何人いますか」
男は答えなかった。
「答えなくていいです」とリディアは言った。
「一つだけ聞きます。港の封鎖だけではない、と昨日の人間が言っていました。市内の物流を麻痺させる計画があると。それは本当ですか」
男が少し動いた。答えではなかったが、答えに近かった。
「分かりました」
マリウスに処置を任せた。
夜、酒場に向かった。
マリウスが隣を歩いた。にゃん吉が肩に乗っていた。
「武器は持っていかなくていいのですか」とマリウスが言った。
「にゃん吉さんがいます」
「それが最強の武器ですね」
酒場は港の外れにあった。古い建物だった。扉を開けると煙草と酒の匂いが来た。
男たちが何人かいた。
一番奥のテーブルに三人いた。年齢が違う。一人は六十代、一人は四十代、一人は三十代だった。全員が日焼けした顔をしていた。手が荒れていた。
マリウスが「こちらがリディアさんだ」と言った。
三人がリディアを見た。にゃん吉を見た。
「猫を連れている」と六十代の男が言った。
「神獣です」とリディアは言った。
「神獣ね」と六十代の男が言った。信じていない顔ではなかった。確認している顔だった。
「配信を見た。港で料理をしていた令嬢か」
「そうです」
「座れ」
座った。
「話を聞こう」と六十代の男が言った。名前はオルセンと言った。この三人の中で一番長く海にいる人間だった。
「王都の封鎖を回避したいです」とリディアは言った。
「大型船が使えない。でも小型船で動けるルートがあると聞きました」
「ある」とオルセンが言った。
「ただし聞いたくらいで動かない。それが条件になるわけではない」
「分かっています。条件は何ですか」
「条件はない」とオルセンが言った。
リディアは少し止まった。
「条件がないということは」
「気に入ったら動く。気に入らなければ動かない。それだけだ」
「何が基準ですか」
「人を見る」とオルセンが言った。
「長く海にいると、信用できる人間かどうかは顔を見れば分かる。言葉ではなく、顔と手だ」
リディアは何も言わなかった。
オルセンがリディアの手を見た。長く見た。
「料理をする手だな」
「そうです」
「今日も仕込みをしていたのか」
「していました。塩漬けとオイル漬けの追加分です」
「封鎖されているのに」
「保存食は積み上がります。時間があるなら仕込みます」
オルセンが隣の四十代の男と目を合わせた。
四十代の男が「飯を食いながら話せないか」と言った。
厨房車に戻った。
昨日の海鮮カレーの残りがあった。温め直した。スパイスが一晩で馴染んでいた。昨日より深みが出ていた。
オイルサーディンの試作品を出した。まだ一日しか経っていないが、少しだけ馴染みが出てきたものだった。
パンと一緒に出した。
オルセンが海鮮カレーを一口飲んだ。
しばらく何も言わなかった。
「海老の頭から取った出汁か」と言った。
「そうです」
「漁師が捨てているやつだ」
「もらいました」
「捨てていたものが、これになるのか」
「処理次第です」
オルセンがオイルサーディンを一切れ取った。パンに乗せた。食べた。
「まだ一日しか経っていませんが」とリディアは言った。
「一週間後はもっと味が変わります」
「待てるのか、一週間」
「仕込みながら待ちます。止まっていても時間は経ちます」
オルセンが四十代の男を見た。
「フィン、お前はどう思う」とオルセンが言った。
フィンが海鮮カレーを飲んでいた。飲み終えてから言った。
「王都の鼻を明かしてやりたいとは思っていた」
「それだけか」
「この娘とマリウスに一本取られた気がする」とフィンが言った。
「気に入った」
三十代の男が黙ってカレーを飲み続けていた。
「キース、お前は」とオルセンが言った。
キースがスプーンを置いた。
「ルートを出す」と言った。
「浅瀬を通れる船なら三艘ある。夜なら王都の大型船は動けない。朝までに荷を積んで出せる」
「危険はありますか」とリディアは聞いた。
「ある」とキースが言った。
「ただし俺たちは慣れている。王都の監視より海の方がよく知っている」
オルセンが椀を置いた。
「決まりだ」と言った。
「ただし条件が一つある」
「何ですか」
「出航の前に、もう一回この飯を食わせてくれ」
コメント欄が爆発するのが、後で確認した時に分かった。
「現地の渋い船主たちが落ちた」「海鮮カレー無双」「王都包囲網が崩れ始めた」「スパチャ連打」が画面を埋めていた。
深夜、マリウスと打ち合わせをした。
「三艘で動ける量は限られています」とリディアは言った。
「優先順位をつけます。エルダの鉱石を一番に。カイロスの保存食を二番に。流通の価値が高いものから動かします」
「保存食はどこに届けますか」
「ガルムの別ルートを使います。マリウスさんのネットワークで捌けますか」
「捌けます。隣国には王都系でない商人が複数います」
「では明日中に積み込みを終わらせます。明後日の夜明け前に出航させます」
マリウスが羊皮紙に書いた。
「漁師への出汁マニュアルは渡せますか?」
「明日中に仕上げます。仕込みながら書きます」
「同時にやるのか」
「手は二本あります」
マリウスが笑った。疲れた笑い方だったが、少し力が戻った笑い方だった。
にゃん吉が缶を開けた。
「今夜は上手くいったな」
「オルセンさんたちが動いてくれました」
「飯の力だ」
「そうですね」とリディアは言った。
「ただ、"飯"だけではないと思います」
「何が加わった」
「時間です。昨日から仕込み続けていた。封鎖されても止まらなかった。オルセンさんはその手を見ていた気がします」
「手を見ていた、か」とにゃん吉が言った。
「長く海にいる人間は、手で人を判断するのか」
「そう言っていました」
リディアは自分の手を見た。
塩の匂いがまだあった。オイルの感触が残っていた。今日一日、止まらずに動いていた手だった。
「仕込みの続きをします」とリディアは言った。
「夜中にか」
「明日の出航前の食事分を今夜から準備します。オルセンさんたちに出すと約束したので」
魔石灯を強くした。
鍋を出した。
港の風が入ってきた。塩と海の匂いがした。
出航まであと二日だった。




