第36話:捨てられていた出汁
移動厨房車は三日かけてカイロスに着いた。
街道から港が見えた瞬間、空気が変わった。
塩の匂いがした。
今まで嗅いだことのない匂いだった。ダンジョンの石の匂いでも、農村の土の匂いでも、鉱山の金属の匂いでもない。湿っていて、重くて、生き物の匂いが混ざっている。
「海の匂いです」とリディアは言った。
「知っている」とにゃん吉が言った。
「昔、この辺りまで来たことがある」
「どれくらい昔ですか」
「数百年前だ。そこまで覚えていない」
港が近づいた。
大きかった。船が何十艘も停まっていた。帆の色が違う。船の大きさが違う。荷を運ぶ人たちが行き交っていた。声が飛んでいた。鳥が鳴いていた。
街に入ると市場があった。
生きた魚介が並んでいた。動いているものもあった。甲殻類が積まれていた。海草が束で売られていた。
リディアは手を止めた。
市場の端に廃棄場所があった。
山積みになっていた。
海老の頭。蟹の甲羅と脚の先端。魚の骨と内臓。
「これは」
近くにいた漁師に声をかけた。
「捨てるんですか」
「そうだ。身だけ取ってあとはいらない」と漁師が言った。
「食えないから」
「出汁を取ったことはありますか」
「出汁?」
「煮て、エキスを引き出す方法です」
「そんなことをするのか」と漁師が言った。不思議そうな顔だった。
「臭みが強くて食えないから捨てているのに」
「臭みは処理で消えます。処理が済めば、これが一番濃厚なスープの素になります」
漁師がリディアを見た。次に廃棄場所を見た。
「使うのか、これを」
「使います。もらえますか」
「ただで持っていっていい」と漁師が言った。
「どうせ捨てるものだ」
マリウスが手配してくれた広場は港から歩いて五分の場所にあった。
移動厨房車を設営した。
廃棄場所からもらってきた素材を洗った。海老の頭、蟹の甲羅と脚、魚の骨。水で何度も洗った。
「臭みを取ります」とリディアはにゃん吉に言った。
「どうやる」
「まず焼きます。炒めることで臭みが飛んで、香ばしさが出ます。その後に水と一緒に煮て、エキスを引き出します」
魔導フライパンに油を薄く引いた。
海老の頭を入れた。
ジュアッという音が出た。
香りが変わった。
最初は磯の匂いが強く出た。次第に変化した。香ばしい甘みのある匂いが出てきた。
「この匂いです」
「さっきと違う」とにゃん吉が鼻を動かした。
「熱で成分が変化しています。生の状態と焼いた後では全然違います」
蟹の甲羅も加えた。魚の骨も加えた。全部を炒めた。
広場に匂いが広がった。
港の方から人が来た。荷運びをしていた男が足を止めた。船から降りてきたばかりの船員が鼻を向けた。
「何の匂いだ」と誰かが言った。
「料理中です」とリディアは答えた。
水を加えた。
白ワインに相当する魔果実の発酵酒を少量加えた。香草を入れた。地元市場で買っていた野菜を粗く切って入れた。
「煮ます」
蓋をして、弱火で時間をかけた。
その間に水晶板を起動した。
「港湾都市カイロスから配信します」とリディアは言った。
「今日は海の素材を使います。捨てられていたものです」
コメント欄に「海鮮回来た」「港の配信か」「どんな料理だ」が流れた。
煮ている鍋を映した。白い蒸気が上がっている。
「海老と蟹の頭と魚の骨で出汁を取っています。これが一番旨味の濃い部分です」
「捨ててたのか」と視聴者から書き込みが来た。
「捨てていたようです。身だけ取っていた」
「もったいない」
「知らなければ捨てます。知れば使えます」
三十分後、鍋から素材を取り出して漉した。
液体が出た。
薄い橙色だった。光を通すと透明感がある。
一口飲んだ。
深かった。
海老の甘み、蟹の香り、魚の旨味が全部一つになっていた。それぞれの素材の個性が残りながら、一体になっていた。
「良い出汁が出ました」
この出汁に地元の新鮮な魚介を加えた。市場で買っていたものだった。鮮度が良かった。切って入れた。
スパイスを少し加えた。隣国から持参したものだった。酸味のある魔果実の汁も加えた。
煮ると香りが増した。
広場の周囲に人が増えていた。最初は五人程度だったのが、二十人、三十人と増えていた。港の仕事の合間に引き寄せられてきた人間たちだった。
「もう少しで完成します」
椀に盛った。
橙色の濃厚なスープに、魚介が沈んでいる。香草の緑が浮いている。湯気が立っていた。
「最初にもらった皆さんからどうぞ」
廃棄場所で話した漁師が最前列にいた。
受け取った。飲んだ。
目を見開いた。
「……捨ててたアタマからこんなスープが出るのか」
「そうです」
「深みが全然違う。いつも食べてる魚のスープと」
「いつも食べているものは何で出汁を取っていますか」
「塩と水だけだ。それしか知らなかった」
「素材で全部変わります」
漁師が隣の船員に渡した。船員が飲んだ。
「体が温まる」と言った。
「港の仕事は冷えるが、これを飲むと中から来る」
「煮込んだ分、温度が持続します」
コメント欄に「ブイヤベース美味そう」「捨てていたものが主役になった」「漁師たちの顔が変わっていく」「スパチャ連打」が流れた。
にゃん吉が椀を受け取って飲んだ。
長く飲んだ。
「……複数の旨味が一つになっている」
「三種類の素材の出汁が合わさっています」
「それぞれが分かる。でも一つでもある」
「出汁の特性です。混ざって増幅する」
「炒めてから煮るのが重要だったのか」
「焼くことで香ばしさが加わります。その香ばしさが出汁に溶けます。生のまま煮るとこの香りは出ません」
「手間の分だけ違う」
「そういうことです」
配信が進んでいる途中、人込みの端にマリウスが現れた。
商会の服を着ていた。普段より急いで来た様子だった。
「来たんですか」とリディアは声をかけた。
「噂を聞いて走ってきた」とマリウスが言った。
「港の人間が全員同じ方向を向いているから何かと思ったら」
「スープです。飲みますか」
「もらいます」
受け取った。飲んだ。
しばらく黙っていた。
「やはりあなたと組んで正解だった」とマリウスが言った。
「ありがとうございます」
「捨てていた素材で、これが出る。うちの商会にも関係する話だ。廃棄コストが下がる可能性がある」
「出汁の取り方をマニュアルにします。漁師の方たちに教えられます」
「頼めますか?」
「できます。ただし今日明日ではありません。少し時間をください」
「問題ない」とマリウスが言った。
「長い付き合いになりそうだから、急がなくていい」
配信が終わった後、クラウスが来た。
「ヴィランさんから通信です」と水晶板を差し出した。
受け取った。
【王都の状況をご報告します。エルダとガルムの動きが王都に伝わり、セドリック殿下が緊急の会議を開いたとの情報があります。内容は不明ですが、これまでより強硬な手段が検討されているとの声が複数から上がっています。詳細が分かり次第、追ってご連絡します。——ヴィラン】
リディアは読んだ。
「強硬な手段を検討しているようです」とにゃん吉に言った。
「前より硬い手が来るか」
「来ると思います。ただ」
「ただ?」
「今日、港の漁師に出汁の取り方を教えました。エルダではセルムとマリが角煮丼を作れるようになっています。マリウスとのルートも動いています」
「だから?」
「一か所を塞がれても、別の場所が動いています。今は塞ぐより作る方が速い状態です」
マリウスが横で「頼もしい言い方ですね」と言った。
「現実としてそうなっています」
リディアは羊皮紙を取り出した。
出汁の取り方のマニュアルの骨子を書き始めた。
港の風が入ってきた。
塩の匂いがした。
今日初めて嗅いだ匂いが、少し馴染んでいた。




