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もふもふ猫神とダンジョン飯  作者: もも
第一部 大陸・ダンジョン編

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35/84

第35話:旅立ち

 朝、ヴォルクが来た。


「昨夜の来訪者が宿に入っています。話を聞きますか」


「会います」




 宿の食堂に通された。


 三人いた。


 一人は六十代ほどの男だった。背筋が伸びていて、手が繊細だった。長年包丁を持ってきた手だった。王都の老舗料理店の名前が入った前掛けを持っていた。名前をジョルダンと言った。


 残りの二人は商人風の旅人だった。四十代の男と、三十代の女で、どちらも王都の服を着ていた。


「遠くから来られましたね」とリディアは言った。


「配信を見ていました」とジョルダンが言った。


「最初は興味半分でした。ただ見続けるうちに、確かめずにはいられなくなりました」


「何を確かめたかったんですか」


「本物かどうかです」


 率直だった。リディアは嫌いな言い方ではなかった。


「王都の厨房にいながら、あの配信を見ていました。岩角豚の回、燻製の回、スタミナ丼の回。どれも技術的に正確でした。ただ配信と現実は違う場合がある。だから来ました」


「答えは出ましたか」


「昨夜、鉱夫たちが丼を食べているのを見ました」とジョルダンは言った。


「あの顔を見れば十分です」


 商人風の二人も似たような理由だった。王都の経済が停滞していて、実際に良いものがある場所を自分の目で確認したかったと言った。


「今日の昼まで滞在できますか」とリディアは聞いた。


「できます」


「昼に揚げるものがあります。見てもらえますか」




 公爵家からの輸送便が届いたのは午前中だった。


 魔導保温容器が三つ。開けると冷えた状態のカレーパンが並んでいた。揚げる前の状態で、真空に近い形で封じられていた。


 一番上にメモが乗っていた。


 【揚げて食え。——父より】


 五文字だった。


「相変わらずですね」


「素直でないな」とにゃん吉が言った。


「でも送ってくれました」


 数を数えた。二十個ある。エルダの鉱夫と、遠方からの来訪者と、セルムとマリとヴォルクと、全員分ある。


(数えてから送っている)


 そういう人だった。言葉は少ないが、準備は細かい。




 昼、配信を始めた。


「公爵家からカレーパンが届きました」とリディアは水晶板に向かって言った。


「揚げる前の状態で送られてきました。エルダ製のフライパンで揚げます」


 コメント欄に「公爵自ら送ってきたのか」「親バカすぎるw」「エルダ製フライパンで揚げるカレーパン」「この組み合わせは予想してなかった」が流れた。


 ドランが作った試作第一号フライパンを取り出した。


 油を張った。


 魔力を通した。


 温まり方が速かった。全体が一度に均一に熱くなっていく。


「揚げます」


 カレーパンを油に入れた。


 音が出た。


 ジュワァァッという音が広場に響いた。コロッケでもスタミナ丼でも聞いたことのない音だった。熱伝導率が高い分、接触した瞬間の温度差が大きい。最初の音が今まで聞いた中で一番太かった。


 スパイスと揚げパンの香りが来た。


 鉱山の方から風が吹いていた。その風に乗って香りが広がった。


 坑道から出てきた鉱夫の一人が鼻を上げた。来た。また一人来た。


「今日は公爵家から届いたカレーパンです」とリディアは続けた。


「鉱夫の皆さんにも出します」


 コメント欄に「現地フライパンで揚げるカレーパン神すぎる」「鉱夫に届くのか」「スパチャ連打」が流れた。


 引き上げた。


 全面が均一なキツネ色だった。今まで自分で揚げたカレーパンより、色が揃っている。フライパンの熱が均一な分、仕上がりが揃う。


「ジョルダンさん、一つどうぞ」


 渡した。


 ジョルダンが受け取った。両手で持った。長年料理をしてきた手が、カレーパンを慎重に持った。


 かじった。


 音が出た。サクッという音が、今まで聞いた中で一番乾いていた。フライパンの熱が表面に入り切っている分、衣が完全に仕上がっている。


 ジョルダンが噛んだ。止まった。


 飲み込むまで時間がかかった。


「……王都の厨房には、もうこんな熱がない」とジョルダンが言った。


「どういう意味ですか」


「温度の話だけではありません」とジョルダンは言った。


「王都で料理をする時、誰かに届けている感覚が薄れていました。ここは違う。この熱さは料理だけの話ではない」


 コメント欄が止まった。


 一拍後に動いた。


「王都の料理人が言う言葉だ」「これは重い」「来た甲斐があったね」「スパチャ投げます」が流れた。


「もう一口いただいてもいいですか」とジョルダンが言った。


「どうぞ」




 全員に行き渡った。


 セルムとマリが食べた。ヴォルクが食べた、ドランが食べた。


 ドランが「うちのフライパンで揚げたのか」と言った。


「そうです」


「悪くない」とドランが言った。鍛冶職人らしい言い方だった。


 にゃん吉がカレーパンを前足で押さえた。今日も前足にカレーがついた。舐めた。


「スパイスが馴染んでいる」


「公爵領で仕込んでから送られてきたので、一日置いています」


「熟成した分か」


「またその表現ですね」


「正確だからだ」




 午後、セルムとマリが岩角豚の角煮丼を仕込んだ。


 リディアは見ていた。


 二人とも手が迷わなかった。羊皮紙を見る回数が昨日より減っていた。体が覚えていた。


「今日は私は何も言いません」


「分かりました」とセルムが言った。


 二人だけで仕上げ、盛り付けた。


 完成した丼を見る。


 初日と変わらない。いや、少し安定していた。肉の並べ方が均一で、タレの量が適切だった。


「合格です」とリディアは言った。


「本当ですか」とマリが言った。


「三回連続で同じものが作れれば定着しています。明日も同じものが作れますか」


「作れます」とセルムが言った。間を置かずに言った。


「では大丈夫です」




 夕方、ヴォルクに呼ばれた。


「明日出発するのか」


「予定通りです」


「そうか」とヴォルクが言った。


「引き留めたいが、引き留める理由がなくなったな」


「どういう意味ですか」


「セルムとマリが作れるようになり、マリウスとのルートが開いた。ドランが鍋を作り始めた。お前がいなくても動く仕組みができた」


「それが目的でした」


「分かってる」とヴォルクが言った。


「だから引き留めない。ただ、礼だけは言いたかった」


「こちらこそ、素材を使わせてもらいました。お礼はそちらです」


「対等だな」


「そういう関係が一番長続きします」


 ヴォルクが笑った。エルダに来てから何度か見た笑い方だった。最初の夜に比べると、顔が違う。




 翌朝、出発の準備をした。


 厨房車に道具を積んで、残りの素材を確認する。


 ヴォルクと鍛冶場のドランが見送りに来た。セルムとマリが来た。


 セルムが羊皮紙を持っていた。


「追加で記録しておきたいことがあります」と言った。


「お時間をください」


「どうぞ」


 セルムが書いた。昨日の仕込みの中で気づいたことを自分で言語化していた。マニュアルに書いていない細かい判断の部分だった。


「良い目をしていますね」とリディアは言った。


「ありがとうございます。教えてもらったことです」


「自分で気づいたことの方が大切です。それはマニュアルには書けないものです」


 マリが「また来ますか」と聞いた。


「来ます。鍋の量産が軌道に乗った頃に確認しに来ます」


「待っています」




 厨房車が動き出した。


 ヴォルクが手を上げた。ドランが腕を組んだままこちらを見た。セルムとマリが並んで立っていた。


 道が伸びていた。


 来た時とは別の方向に向かう。次の目的地はまだ決めていない。動きながら考える。


「次はどこへ行く」とにゃん吉が聞いた。


「考えています」


「考えながら動くのか」


「止まっていても考えは進みません」


 にゃん吉が缶を開けた。


「ガルムの港湾都市という選択肢があるな」


「あります。マリウスとのルート確認も兼ねられます」


「他には」


「流通のハブになっている街があれば、そこに拠点を作れます。一か所ではなく、複数の場所に仕組みを作れれば、王都の妨害がどこかを塞いでも別のルートで動けます」


「それがお前の狙いか」


「最初から狙っていたわけではありません。動いているうちに形が見えてきました」


 道が曲がり、エルダが見えなくなった。


 空が広かった。


 リディアは羊皮紙を開いた。


「次の目的地候補」と書いた。その下にいくつか書いた。


 まだ行ったことのない場所の名前が、羊皮紙に並んでいった。

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