第35話:旅立ち
朝、ヴォルクが来た。
「昨夜の来訪者が宿に入っています。話を聞きますか」
「会います」
宿の食堂に通された。
三人いた。
一人は六十代ほどの男だった。背筋が伸びていて、手が繊細だった。長年包丁を持ってきた手だった。王都の老舗料理店の名前が入った前掛けを持っていた。名前をジョルダンと言った。
残りの二人は商人風の旅人だった。四十代の男と、三十代の女で、どちらも王都の服を着ていた。
「遠くから来られましたね」とリディアは言った。
「配信を見ていました」とジョルダンが言った。
「最初は興味半分でした。ただ見続けるうちに、確かめずにはいられなくなりました」
「何を確かめたかったんですか」
「本物かどうかです」
率直だった。リディアは嫌いな言い方ではなかった。
「王都の厨房にいながら、あの配信を見ていました。岩角豚の回、燻製の回、スタミナ丼の回。どれも技術的に正確でした。ただ配信と現実は違う場合がある。だから来ました」
「答えは出ましたか」
「昨夜、鉱夫たちが丼を食べているのを見ました」とジョルダンは言った。
「あの顔を見れば十分です」
商人風の二人も似たような理由だった。王都の経済が停滞していて、実際に良いものがある場所を自分の目で確認したかったと言った。
「今日の昼まで滞在できますか」とリディアは聞いた。
「できます」
「昼に揚げるものがあります。見てもらえますか」
公爵家からの輸送便が届いたのは午前中だった。
魔導保温容器が三つ。開けると冷えた状態のカレーパンが並んでいた。揚げる前の状態で、真空に近い形で封じられていた。
一番上にメモが乗っていた。
【揚げて食え。——父より】
五文字だった。
「相変わらずですね」
「素直でないな」とにゃん吉が言った。
「でも送ってくれました」
数を数えた。二十個ある。エルダの鉱夫と、遠方からの来訪者と、セルムとマリとヴォルクと、全員分ある。
(数えてから送っている)
そういう人だった。言葉は少ないが、準備は細かい。
昼、配信を始めた。
「公爵家からカレーパンが届きました」とリディアは水晶板に向かって言った。
「揚げる前の状態で送られてきました。エルダ製のフライパンで揚げます」
コメント欄に「公爵自ら送ってきたのか」「親バカすぎるw」「エルダ製フライパンで揚げるカレーパン」「この組み合わせは予想してなかった」が流れた。
ドランが作った試作第一号フライパンを取り出した。
油を張った。
魔力を通した。
温まり方が速かった。全体が一度に均一に熱くなっていく。
「揚げます」
カレーパンを油に入れた。
音が出た。
ジュワァァッという音が広場に響いた。コロッケでもスタミナ丼でも聞いたことのない音だった。熱伝導率が高い分、接触した瞬間の温度差が大きい。最初の音が今まで聞いた中で一番太かった。
スパイスと揚げパンの香りが来た。
鉱山の方から風が吹いていた。その風に乗って香りが広がった。
坑道から出てきた鉱夫の一人が鼻を上げた。来た。また一人来た。
「今日は公爵家から届いたカレーパンです」とリディアは続けた。
「鉱夫の皆さんにも出します」
コメント欄に「現地フライパンで揚げるカレーパン神すぎる」「鉱夫に届くのか」「スパチャ連打」が流れた。
引き上げた。
全面が均一なキツネ色だった。今まで自分で揚げたカレーパンより、色が揃っている。フライパンの熱が均一な分、仕上がりが揃う。
「ジョルダンさん、一つどうぞ」
渡した。
ジョルダンが受け取った。両手で持った。長年料理をしてきた手が、カレーパンを慎重に持った。
かじった。
音が出た。サクッという音が、今まで聞いた中で一番乾いていた。フライパンの熱が表面に入り切っている分、衣が完全に仕上がっている。
ジョルダンが噛んだ。止まった。
飲み込むまで時間がかかった。
「……王都の厨房には、もうこんな熱がない」とジョルダンが言った。
「どういう意味ですか」
「温度の話だけではありません」とジョルダンは言った。
「王都で料理をする時、誰かに届けている感覚が薄れていました。ここは違う。この熱さは料理だけの話ではない」
コメント欄が止まった。
一拍後に動いた。
「王都の料理人が言う言葉だ」「これは重い」「来た甲斐があったね」「スパチャ投げます」が流れた。
「もう一口いただいてもいいですか」とジョルダンが言った。
「どうぞ」
全員に行き渡った。
セルムとマリが食べた。ヴォルクが食べた、ドランが食べた。
ドランが「うちのフライパンで揚げたのか」と言った。
「そうです」
「悪くない」とドランが言った。鍛冶職人らしい言い方だった。
にゃん吉がカレーパンを前足で押さえた。今日も前足にカレーがついた。舐めた。
「スパイスが馴染んでいる」
「公爵領で仕込んでから送られてきたので、一日置いています」
「熟成した分か」
「またその表現ですね」
「正確だからだ」
午後、セルムとマリが岩角豚の角煮丼を仕込んだ。
リディアは見ていた。
二人とも手が迷わなかった。羊皮紙を見る回数が昨日より減っていた。体が覚えていた。
「今日は私は何も言いません」
「分かりました」とセルムが言った。
二人だけで仕上げ、盛り付けた。
完成した丼を見る。
初日と変わらない。いや、少し安定していた。肉の並べ方が均一で、タレの量が適切だった。
「合格です」とリディアは言った。
「本当ですか」とマリが言った。
「三回連続で同じものが作れれば定着しています。明日も同じものが作れますか」
「作れます」とセルムが言った。間を置かずに言った。
「では大丈夫です」
夕方、ヴォルクに呼ばれた。
「明日出発するのか」
「予定通りです」
「そうか」とヴォルクが言った。
「引き留めたいが、引き留める理由がなくなったな」
「どういう意味ですか」
「セルムとマリが作れるようになり、マリウスとのルートが開いた。ドランが鍋を作り始めた。お前がいなくても動く仕組みができた」
「それが目的でした」
「分かってる」とヴォルクが言った。
「だから引き留めない。ただ、礼だけは言いたかった」
「こちらこそ、素材を使わせてもらいました。お礼はそちらです」
「対等だな」
「そういう関係が一番長続きします」
ヴォルクが笑った。エルダに来てから何度か見た笑い方だった。最初の夜に比べると、顔が違う。
翌朝、出発の準備をした。
厨房車に道具を積んで、残りの素材を確認する。
ヴォルクと鍛冶場のドランが見送りに来た。セルムとマリが来た。
セルムが羊皮紙を持っていた。
「追加で記録しておきたいことがあります」と言った。
「お時間をください」
「どうぞ」
セルムが書いた。昨日の仕込みの中で気づいたことを自分で言語化していた。マニュアルに書いていない細かい判断の部分だった。
「良い目をしていますね」とリディアは言った。
「ありがとうございます。教えてもらったことです」
「自分で気づいたことの方が大切です。それはマニュアルには書けないものです」
マリが「また来ますか」と聞いた。
「来ます。鍋の量産が軌道に乗った頃に確認しに来ます」
「待っています」
厨房車が動き出した。
ヴォルクが手を上げた。ドランが腕を組んだままこちらを見た。セルムとマリが並んで立っていた。
道が伸びていた。
来た時とは別の方向に向かう。次の目的地はまだ決めていない。動きながら考える。
「次はどこへ行く」とにゃん吉が聞いた。
「考えています」
「考えながら動くのか」
「止まっていても考えは進みません」
にゃん吉が缶を開けた。
「ガルムの港湾都市という選択肢があるな」
「あります。マリウスとのルート確認も兼ねられます」
「他には」
「流通のハブになっている街があれば、そこに拠点を作れます。一か所ではなく、複数の場所に仕組みを作れれば、王都の妨害がどこかを塞いでも別のルートで動けます」
「それがお前の狙いか」
「最初から狙っていたわけではありません。動いているうちに形が見えてきました」
道が曲がり、エルダが見えなくなった。
空が広かった。
リディアは羊皮紙を開いた。
「次の目的地候補」と書いた。その下にいくつか書いた。
まだ行ったことのない場所の名前が、羊皮紙に並んでいった。




