第32話:温かい飯と戻る生気
最初の丼を渡した。
受け取ったのは前列にいた鉱夫だった。年齢は分からなかった。顔の皺が深くて、手の皮が分厚かった。長年の労働が全身に刻まれている。
受け取った時、両手で持った。
大きな手だったが、丁寧に持った。
一口食べて、飲み込んだ。
「……温けぇ」
声が小さかった。独り言のような声だった。
もう一口食べた。
「肉が柔らかい」
隣の鉱夫が自分の丼を受け取って食べた。
「タレだけで飯がいくらでも食える」と言った。
広場に声が増えていった。
静かだったのが少しずつ変わった。どよめきというより、ため息が重なるような音だった。驚きと安堵が混ざった音だった。
リディアは手を止めなかった。
フライパンを返す。タレを回しかける。ご飯を盛る。肉を乗せる。ハーブの薬味を添える。渡す。次の器を取る。
繰り返した。
にゃん吉がカウンターの端に座っていた。広場を見ていた。
「顔が変わっているぞ」と低い声で言った。
「どの顔ですか」
「鉱夫たちの顔だ。来た時と変わっている」
手を動かしながら見た。
確かに変わっていた。食べる前と食べた後で、同じ人間の顔が違う。疲れていないわけではない。泥も汗も落ちていない。でも何かが戻っていた。
(食べる、ということ)
温かいものを、作られたものを、受け取って食べる。それだけで何かが変わる。
「水晶板、映っていますか」とリディアはコメント欄を確認せずに聞いた。
「映っている。コメントが速い」とにゃん吉が答えた。
「内容は」
「現場の熱気がヤバい。鉱夫たちの顔が変わっていく。これが本当の現場飯か。そういう文字が流れている」
「このまま続けます」
一時間で七十人分を出した。
材料が尽きた。
「本日分は以上です」と広場に向かって言った。
列がまだあった。
「明日また作ります。来てください」
残っていた列の全員が頷いた。文句を言う人間がいなかった。それが不思議だった。王都で同じことを言えば必ず不満の声が出る。ここでは誰も言わなかった。
ヴォルクが片付けを手伝いながら言った。
「明日もやれるか」
「やります」
「材料は」
「今日の分は公爵領から持参したものです。明日以降は現地で調達できる素材で作ります。鉱山周辺で取れるものを教えてください」
「肉なら坑道魔物の素材が余っている。処理方法が分からなくて廃棄しているものが大量にある」
「見せてもらえますか」
「明日、案内する」
ヴォルクが一度手を止めた。何か言いたそうな顔をした。言った。
「頼む」
「何をですか」
「ここに留まってくれ。今日だけじゃなくて。食費も場所代も出す」
リディアは少し考えた。
「滞在期間中に、三つのことをやります」
「三つ」
「一つ目、現地の食材を使った定番メニューの開発と、作り方のマニュアル化。私がいなくてもギルドの人間が作れるようにする。二つ目、坑道魔物の素材の活用方法の確立。廃棄されているものを食材として使えるかどうか確認する。三つ目、調理器具の現地生産の可能性の調査。鉱山から出る鉱石を材料に使えるなら、ユリウス商会と連携して生産できる」
ヴォルクが目を細めた。
「食事の話だけじゃないのか」
「食事が基盤です。基盤の上に経済が乗ります」
「……経済、か」
「鉱山都市に良い食事がある、という情報が広まれば人が来ます。人が来れば物が動きます。食事は入口です」
ヴォルクが腕を組んだ。しばらく考えた。
「全部任せる」と言った。
「ありがとうございます。ただし全部こちらに任せると、私がいなくなった後に続きません。現地の人間が主体になれるように作ります」
「難しい話だな」
「やることは単純です。一緒に作って、覚えてもらう。それだけです」
夜、厨房車の中で片付けをした。
ヴォルクが差し入れを持ってきた。地元で作っている酒だった。クラウスとにゃん吉と三人で受け取った。
「今夜だけは飲め」とヴォルクが言った。
「明日からまた働いてもらうから」
「一口だけいただきます」
少し飲んだ。鉱物の香りがした。土の香りもした。この場所の酒だと分かった。
「美味いか」とヴォルクが聞いた。
「この土地の味がします」
「褒め言葉か」
「そうです」
ヴォルクが笑った。久しぶりに笑った顔をした、とクラウスが後で言った。
配信は片付けながら続けていた。
夜の広場の様子を映した。
鉱夫たちが数人、まだ厨房車の近くにいた。帰り損ねたのではなく、ただいたかったようだった。何人かが石に腰を下ろして、話をしていた。
コメント欄に「いつもと違う雰囲気の配信だ」「飯を食った後の人間の顔が良い」「こういう配信も好きだ」が流れた。
エルダ鉱山ギルドのアカウントから書き込みが来た。
「今日、久しぶりに若い奴らが笑った。ありがとう」
リディアは読んだ。
「にゃん吉さん」
「なんだ」
「読んでいますか、コメント欄」
「読んでいる」
「どう思いますか」
にゃん吉がしばらく間を置いた。
「神獣の時間感覚からすれば、人間は短い」と言った。
「一瞬で生まれて一瞬で消える。だから深く関わらないようにしていた時期が長かった」
「過去形ですね」
「今も完全には変わっていない。ただ」
「ただ?」
「温かいものを受け取った顔は、どの時代も変わらないな」とにゃん吉が言った。
「百年前も千年前も、今夜のあの顔と同じだ」
リディアは広場をもう一度見た。
石に座っている鉱夫の一人が、空を見上げていた。何を考えているかは分からなかった。ただ、来た時より肩が下がっていた。
「明日から素材の確認をします」とリディアは言った。
「坑道魔物の件か」
「廃棄されているものを食材にできるなら、仕入れコストが下がります。ヴォルクさんも助かります」
「経済の話に戻ったな」
「ずっと経済の話でした。ただ今日は、それ以外のものが見えた気がしました」
「何が見えた」
リディアは少し考えた。
「温かい飯が届いた時の顔、です」とそのまま言った。
にゃん吉が返事をしなかった。
水晶板のコメント欄が流れていた。
「エルダに行きたくなってきた」「王都よりここの方が活気が出てきそうだ」「移動厨房車が来た街はこうなるのか」「スパチャ投げます」が続いていた。
王都のことを少し考えた。
関税の引き上げを画策しているという話がある。主要街道を塞ごうとしている。
でも今日、リディアはエルダに着いた。街道を使わない経路でも来られた。鉱山ギルドと直接の関係ができた。素材の調達ルートの見込みが立った。
道が塞がれる前に、別の道が一本できた。
(このまま続ける)
羊皮紙を取り出し、明日の予定を書いた。坑道魔物の素材確認。現地食材の調査。マニュアルの骨子作成。
鉱山の夜は冷えていた。でも厨房車の中は、昼間の調理の熱がまだ残っている。




