第30話:散歩とハーブ
夜明け前、にゃん吉は音を立てずに扉を開けた。
リディアはまだ寝ていた。石棚の端に羊皮紙を広げたまま、その横で頭を傾けて眠っている。昨夜も遅くまで書いていた。ペンが羊皮紙の上に転がったままになっている。
にゃん吉はそれを見てから、外に出た。
神獣の時間感覚からすれば、人間は瞬きのような存在だった。
長く生きてきた。何百年か、何千年かは数えていない。数える必要がなかった。
王朝が変わるのを見た。街が生まれて消えるのを見た。英雄と呼ばれた人間が生まれ、老いて、土に還るのを繰り返し見た。
だから人間に深く関わることをやめていた。
瞬きのような存在に感情を使うのは、神獣として効率が悪い。そう思っていた時期が長かった。
一ヶ月半前、あの女がダンジョンに入ってきた時のことを思い出した。
画角に入り込んでいた。
ドレスのまま、腹を減らして、それでも背筋だけは伸ばしていた。婚約破棄と追放を同日に食らっておいて、泣きもせず怒りもせず「承知しました」と言った女だった。
一ヶ月半経った今もまだ、次のことを考える顔をしている。
不思議な人間だった。
中層への入り口は浅層の最奥にある。
にゃん吉は久しぶりに一人でそこを通り抜けた。
中層の空気が変わった。湿度が上がり、壁から鉱物の光が滲んでいる。魔物の気配があちこちにある。
大蛇が出た。
全長がにゃん吉の三倍はある、鱗が黒光りする魔物だった。
にゃん吉はちらりと見た。
大蛇が動きを止めた。尻尾を縮めた。壁際に寄った。
「邪魔をするなよ」とにゃん吉は渋い声で言った。
大蛇が頭を下げた。正確には頭部を石床に擦りつけた。
先を進んだ。
魔狼の群れと行き合った。五匹いた。先頭の一匹と目が合った。群れ全員が膝を折った。膝がない体型なので地面に伏せた。
「お前たちの肉も、あいつの手にかかれば美味いタレ焼きになるんだがな」
誰も返事をしなかった。全員が伏せたままだった。
にゃん吉は通り過ぎた。
東の方角への道を確認した。
中層の深部を抜ける経路がある。ダンジョンの構造は人間の地図には載っていない部分がある。神獣はそれを本能的に把握している。
エルダ鉱山都市へ向かうには、山越えのルートが最短だった。ただし難所がある。途中に魔力の濃い地帯があって、人間が通ると体に影響が出る可能性がある。
にゃん吉は手を当てた。
魔力の流れを確認した。濃度は高いが、毒性ではない。ただ長時間いると感覚が鈍る種類だった。
(移動中は通過するだけなら問題ない)
羊皮紙に書き留めておくことにした。リディアが後で必要にする情報だと分かった。
帰り道、高地に通じる岩棚を通った。
草が生えていた。
地面に張り付くように生える、細い葉の草だった。折ると刺激の強い香りが出た。舌先に当てた。辛い。後から甘みが来た。
にゃん吉は首の巾着袋を開けた。
押し込んだ。
リディアがスタミナ丼の薬味について悩んでいたのを見ていた。昨夜の羊皮紙に「口直し用の薬味候補・検討中」と書かれていた。チラリと見えた。見るつもりはなかったが、見えた。
関係ないことだった。
ただ、あった。だから摘んだ。それだけのことだった。
食堂に戻ったのは朝だった。
リディアが起きていた。羊皮紙を新しいものに替えて、また書いていた。ペンの動きが速い。朝から集中している顔だった。
にゃん吉は黙ってカウンターに上がった。
「おはようございます」とリディアが言った。顔を上げずに言った。
「ああ」
「どこかに行っていましたか」
「散歩だ」
「そうですか」
また羊皮紙に戻った。
しばらくして、リディアがペンを止めた。
「スタミナ丼に合う薬味をどうするか悩んでいます。エルダの料理は濃い味になるはずなので、口直しになるものが欲しいのですが」
にゃん吉は巾着袋を開けた。
ハーブを取り出してテーブルに置いた。
リディアが手を伸ばした。触った。折った。香りを嗅いだ。
「……これは、高地の辛味ハーブですか。どこで」
「散歩のついでだ。使えそうなら使え」
リディアがしばらくハーブを見た。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
「言います」
にゃん吉は返事をしなかった。
リディアがハーブを刻み始めた。包丁の動きが均一だった。まな板に当たる音が一定だった。
刻んだものを小鉢に取った。発酵調味料と酢に相当する魔果実の液体を合わせた。混ぜた。一口味見した。
顔が変わった。
「これです」
「そうか」
「辛みが後から来て、酸味が流してくれます。スタミナ丼の濃い味の後にちょうど良い」
「役に立てたなら良かった」と言うつもりだったが、言わなかった。
代わりに缶を開けた。
リディアが手を伸ばしてきた。頭を撫でようとした。
身をかわした。
リディアが笑った。
にゃん吉は尻尾を動かさないようにした。動いた。動いてしまった。
その夜、レオンから通信が来た。
リディアが読んで「にゃん吉さん」と呼んだ。
「来ました」
「厨房車が完成したようです」
読んだ。
【移動式厨房車、試作一号機が完成しました。職人たちが最後の二日間、ほぼ不眠で仕上げました。明朝、ギルド前に持参します。——レオン】
「三週間と言っていましたが、二週間と五日でした」
「早かったな」
「エルダ鉱山ギルドのコメントを職人全員が見ていたようです。待っている人間の顔が見えると、手が速くなると言っていました」
「人間は面白い生き物だ」
「そうですね」
翌朝、ギルド前に人が集まっていた。
クラウスとギルドの冒険者たち。レオンと商会の職人数人。それからいつの間にか来ていた農村のハンスと妻。掲示板で知ったらしかった。
荷車に乗せられてきた厨房車を見た。
思ったより大きかった。荷車の荷台全体を使った構造で、側面が開く扉になっている。開くと調理スペースが出てきた。魔導フライパンと油鍋が固定されている。保温容器の置き場がある。発酵窯のコンパクト版が組み込まれている。
魔法陣が随所に刻まれていた。
「触っていいですか」とリディアはレオンに聞いた。
「どうぞ」
魔力を通した。
全体が均等に反応した。魔導炉が起動した。温度が上がり始めた。揺れがない。停車状態での安定性は据え置きとほぼ変わらない。
「良い仕事です」
「ありがとうございます」とレオンが言った。
目が赤かった。眠れていない目だった。
「職人を代表して、ご報告できて光栄です」
「皆さんに伝えてください。エルダから戻ったら、報告配信をします」
「必ず見ます」
冒険者の一人が「気をつけて行ってきてください」と言った。
別の一人が「飯配信、現地からよろしく」と言った。
ハンスが「うちの魔豚を積んでいってください」と言って、荷台に肉の包みを乗せた。
ヴィランから通信が来た。
【出発の前に、閣下よりひと言。「道中、気をつけろ。カレーパン以外も期待している」とのことです。——ヴィラン】
リディアが読んで、少し笑った。
「父らしいですね」
「相変わらず素直でないな」とにゃん吉が言った。
「そういう人です」
返信を打った。
【承知しました。カレーパン以外も作ります。——リディア】
送信した。
荷台の準備が終わった。
水晶板を固定した。多重中継器を取り付けた。移動中でも配信できる構造になっている。
「行きますよ」とリディアはにゃん吉に言った。
にゃん吉が荷台に飛び乗った。端に座った。尻尾を垂らした。
「行くぞ、リディア。鉱山の奴らに本物を食わせてやれ」
「そのつもりです」
荷車が動き出した。
ギルド前の人たちが見送った。声をかけてくれた。
コメント欄にも「行ってらっしゃい」「現地配信楽しみ」「エルダの鉱夫に届け」が流れた。
公爵領が後ろに遠ざかっていった。
道が変わった。石畳から土の道になった。木が増えた。空が広くなった。
一ヶ月半前、初めてダンジョンを出た時に見た空と同じ空だった。
でも今日は違った。
向かう場所がある。待っている人間がいる。作るものが決まっている。
荷台の上で、リディアは羊皮紙を開いた。
移動中にできることをする。エルダまでの道のりは四日ある。その間に献立を固めて、素材のリストを確認して、配信の構成を組む。
「また書くのか」とにゃん吉が言った。
「書きます。時間があります」
「移動中くらい休め」
「書きながら休んでいます」
にゃん吉が「意味が分からん」と言った。
風が来た。
草原の匂いがした。
拠点を固める時間は終わり、道を開く時間が始まった、とリディアは思った。ただし大げさな感覚ではなかった。仕事の区切りの感覚だった。次の案件が始まった、という。
羊皮紙の一番上に書いた。
「エルダ鉱山都市・第一回訪問計画」
道がまだ続いていた。




