第3話:スライムゼリーポンチ
スライムモドキの残骸を前に、リディアはしゃがみ込んだ。
半透明のゼリー状の身が、石畳の上でぷるぷると揺れている。中心にあった赤い核は弾けて、欠片がいくつか散らばっていた。欠片のひとつを指先でつまむと、ほのかに温かく、甘い香りがした。
嗅いだ。
もう一度、深く嗅いだ。
「……フルーツだ」
「は?」
にゃん吉が木箱の上から首を伸ばした。
「これ、フルーツのゼリーですよ。魔物じゃなくて、高級食材に近い。身の部分は寒天質で無味無臭。核のエキスが甘みと香りの正体だと思います」
「魔物の死骸を嗅いで何を言ってんだ」
「下処理が必要なのは間違いないですが、毒性は低いはずです。あの消化液は壁を焼いたけど、核の香りはそれとまったく別物だった。消化器官と本体は別の成分を持ってる可能性が高い」
にゃん吉は目を細めた。信じているのか疑っているのか、猫の顔は読みにくい。
「食って死んでも俺は知らんぞ」
「死にません。ていうか、お腹が空きすぎて判断力が上がってます。追い詰められた人間の嗅覚は案外馬鹿にできない」
「……理屈になってない」
なっていないのは分かっていた。でも感覚として確信があった。前世で怪しいサプリの成分表を何十本も読んできた経験が、今妙な形で役立っている。
「カメラ、回しますよ。今夜は夜食テロ企画です」
「夜食テロ」
「深夜に美味そうな飯を見せて視聴者の腹を鳴らす。今何時ですか」
「夜の三つ半といったところだ」
「最高です。貴族の夜更かし組と、夜勤明けの冒険者が画面を開いてる時間帯。胃袋が一番正直になってる時間を狙う」
にゃん吉の耳がぴくりと前に向いた。興味を持った時の動きだと、数時間の観察でもう分かった。
「企画の説明は?」
「廃ダンジョンで採れた素材だけで作る、深夜のご褒美スイーツ。追放された令嬢と謎の神獣猫による、世界初の魔物グルメ配信。タイトルは——」
リディアは一拍置いた。
「『深夜ダンジョン飯テロ スライム、食べてみた』」
にゃん吉が盛大にため息をついた。
「……下品なタイトルだな」
「刺さるタイトルです。『食べてみた』は視聴者の好奇心と不安を同時に引っ張れる。行きますよ」
水晶板が起動した。
下処理は意外と単純だった。
ゼリーの身を薄く切って魔石灯の微熱にかざし、表面の消化液成分を飛ばす。切り口から透明な汁が出てくるので、それを三回ほど繰り返した。匂いが甘くなっていく。
次は柑橘系の魔果実。祭壇の裏の壁際に、にゃん吉が「ただそのへんに生えてた」と言いながら置いていた小さな赤い実が数個あった。見た目は金柑に似ているが、切ると内側が深紅で、果汁は蜜のように透き通っている。
「ルビークリスタルですね」
「名前を知ってるのか」
「学園の魔物学の授業で出てきました。酸味と甘みのバランスが特殊で、生食は舌が痺れるけど加熱か希釈すると無害になる。ダンジョン内に自生するのは珍しいけど、スライムモドキが好む環境と一致するらしい」
「……お前、魔力はないくせに知識だけはあるな」
「試験の点数は学年二位でした」
にゃん吉が何か言いたそうな顔をしたが、黙った。
果汁を搾って水で薄め、核の欠片を溶かしてシロップを作る。核が溶けるにつれ、液体がルビー色に染まっていった。甘い香りが石の部屋に広がる。
にゃん吉の鼻がひくひくした。
ゼリーを角切りにして器に並べ、ルビークリスタルのシロップをかける。最後に、にゃん吉が「氷の魔石ならそこにある」と渋々教えてくれた小石を器の下に敷き、全体を冷やした。
五分後。
木の器の上に、涼しげなルビー色のゼリーポンチが完成した。
ぷるぷると揺れている。シロップが底に溜まって、ゼリーの角切りが宝石みたいに光っている。
「……綺麗だな」
にゃん吉が素の声で言った。
「美味いかどうかは食べてみないと分からないですけど」
「見た目は文句ない」
コメント欄がすでに動き始めていた。リディアには文字は読めないが、流れる速度が段々と上がっている。
にゃん吉が水晶板に向かって何かを言った。渋い声ではなく、少しだけ柔らかいトーンだった。配信用の声に切り替えたのだと分かった。
「食レポ、やってください」
「分かってる。スプーンをよこせ」
「食べさせます。カメラ目線で」
「……は?」
「視聴者は猫が食べる顔が見たいんです。木スプーンでゼリーをすくって口元に持っていくので、そのまま食べてください。両前足でスプーンを挟んで」
「何故そんな面倒な」
「可愛いからです」
にゃん吉の耳が横に倒れた。嫌そうだった。
でも断らなかった。
リディアは木スプーンにゼリーをたっぷりすくった。ルビー色のシロップがとろりと垂れる。それをにゃん吉の顔の前に差し出した。
にゃん吉はカメラを見た。
目がきゅっと細くなった。前足が、そっとスプーンの柄を包んだ。ふわふわの肉球がスプーンに添えられる。
「あーん」
口を開けた。ゼリーが消えた。
もぐもぐと動く口。それから——
にゃん吉の目が、見開かれた。
演技ではなかった。リディアには分かった。今この瞬間、この猫は完全に素になっている。琥珀色の瞳に光が灯って、耳がぴんと前を向いて、尻尾の先がぱたぱたと揺れ始めた。
「……っ」
「美味しいですか」
「……ぷるぷるしてる」
「してますね」
「甘い。酸っぱい。冷たい。なんだこれ」
「スライムゼリーポンチです」
「名前が台無しだ」
でも前足はスプーンを離さなかった。
コメント欄が、爆発した。
文字の流れる速度が視認できないレベルになった。水晶板の端で数字が跳ね上がり続けている。魔石のアイコンが画面を舞い始めた。高額の投げ銭に使われるやつだと、にゃん吉が以前言っていた。
スパチャが降り積もるように画面を埋めた。
と同時に。
部屋が光った。
水晶板から青白い光が溢れ出した。壁に、天井に、石畳に、光の粒が広がっていく。それは聖魔力の放出だとリディアでも分かるくらい、濃密な気配を持っていた。
そしてそれが、リディアの体に入ってきた。
温かかった。
温かい、というより、熱いに近かった。胸の奥から、何かが動く感覚。今まで一度も反応したことのない場所が、ゆっくりと動き始める。
音を立てているような気がした。軋む音ではなく、錆びた蝶番がほぐれていくような、静かで確実な音。
数分後、配信終了の光が消えた。
室内が暗くなる。
リディアはぼんやりと自分の手を見た。何も変わっていない。見た目には。でも指先が、かすかに、熱い。
「……にゃん吉さん」
「なんだ」
にゃん吉は器に顔を突っ込んで、残ったシロップをチュールでも舐めるような勢いで処理していた。
「今、同時接続は何人でしたか」
「さあな」
「数字を見てなかったんですか」
「見てなかった。飯に集中してた」
リディアは水晶板を覗き込んだ。配信後の記録が薄く残っている。数字を確認した。
十三万と、少し。
深呼吸をした。
「十万超えてました」
「……ふーん」
にゃん吉は器から顔を上げた。口元にシロップがついていた。舌でなめた。
「悪くないな」
「悪くないで済む数字じゃないですよ」
「初回でそれだけ出たなら上出来だ。ゼリーの残りはあるか」
「ないです。全部食べました」
「チッ」
にゃん吉はまた器に顔を戻した。
リディアは自分の手のひらをもう一度見た。熱い。確かに熱い。何かが満ちている。今まで空のまま何年も動かなかった場所に、確かに何かが入ってきている。
魔力ゼロ。そう言われ続けた。
でも今、確かに動いている。
(なんだ、これ)
にゃん吉が器を舐めながら、素の声で言った。
「お前の体から聖魔力の気配がする。さっきまでなかったやつだ」
「……気づいてたんですか」
「神獣だからな。鼻が利く」
尻尾をぴんと立てて、にゃん吉は器から離れた。
「まあ、続きは明日考えろ。今夜は寝ろ。俺も寝る」
それだけ言って、にゃん吉は寝床に丸くなった。五秒で動かなくなった。
リディアは石棚にもたれて、手のひらをじっと見続けた。
熱は引かなかった。




