第27話:居場所とまだ見ぬ道
朝、ギルド食堂の前に列ができていた。
開店一時間前だった。
クラウスが外を確認して「昨日より多いです」と言った。
「何人ですか」
「数えたら四十七人いました。増えています」
リディアは厨房に戻った。カレーパンの生地が発酵窯の中で膨らんでいる。昨夜のうちに仕込んでいた分だった。
「足りますか」とクラウスが聞いた。
「今日の分は七十個用意しています。足りなければ追加で揚げます。ただし追加は一回だけにします」
「なぜですか」
「行列が永遠に続く仕組みにすると、運営が回らなくなります。今日来た人に売り切れを経験させた方が、次来る時に早く来るようになります。需要のコントロールです」
クラウスが羊皮紙にメモした。
一時間後に開店した。
昼までに七十個が出た。
追加で三十個揚げたが、その三十個も一時間で出た。
列がまだあったが、今日はここまでにした。
「明日も来ますか」と列の最後尾にいた冒険者が聞いた。
「来てください。早い時間がいいです」
「何時から」
「開店一時間前に来ていただければ、おそらく買えます」
「分かりました」
列が解散した。
クラウスが「もったいなかったですね」と言った。
「もったいなくないです。完売した方が価値が伝わります。あと、ライセンスを持っている店が今日の様子を見ていたはずです。明日から近隣の店でも売り始めると思います」
「それはいいことですか」
「良いことです。私が全部作る必要はない。正しい方法で作れる人間が増えれば、それがブランドになります」
クラウスが「なるほど」と言いながらまたメモした。
夕方、混雑が落ち着いた頃に水晶板が鳴った。
差出人は「R_F_1」だった。
開いた。
【次は何を作る。期待している。——父より】
それだけだった。
リディアは文面を読んだ。読み返した。
「にゃん吉さん」
「なんだ」とにゃん吉がカウンターから言った。
「父からメッセージが来ました。次は何を作るかと聞いています」
「答えを持っているのか」
「いくつかあります」
「なら答えればいい」
返信を打った。
*今考えているものが三つあります。移動式厨房車で領内を巡る計画、新エリアへの食材の開拓、それから今まで作っていない系統の料理です。順番は状況に応じて決めます。——リディア*
送信した。
五分後に返信が来た。
【全部やれ。——父より】
「全部やれと言っています」とリディアはにゃん吉に言った。
「公爵らしい返事だな」
「そうですね」
夜、レオンが来た。
今日は羊皮紙を大量に抱えていた。
「昨日の配信の後から、注文が入っています」と言いながら台に広げた。
「真空保温容器が隣国から三十件、調理魔導具が他領地から二十件以上。量産ラインの拡大が必要です」
「商会の生産能力はどのくらいですか」
「今の設備で月五十個が限界です。拡大するには職人の追加採用と工房の増設が要ります」
「資金は」
「今回の注文分の前払いで賄えます。ただし決断を早くしないと機会を逃します」
「やってください」
「そう言うと思っていました」とレオンが言った。
もう驚いた顔をしなくなっていた。
「一点だけ確認です。品質管理の基準は誰が決めますか」
「私が出します。今週中に仕様書を作ります」
「ありがとうございます」
レオンが帰った。
クラウスも帰った。
若手冒険者たちも帰った。
食堂に残ったのはリディアとにゃん吉だけになった。
にゃん吉がカウンターの端で缶を開けた。
リディアは椅子に座った。
今日初めて座った気がした。
「疲れたか」とにゃん吉が言った。
「疲れました。でも悪い疲れ方ではないです」
「区別がつくのか」
「前世から区別していました。やり切った後の疲れと、消耗した後の疲れは感触が違います。今日は前者です」
にゃん吉が缶を傾けた。
リディアは自分の手を見た。
テーブルの上に置いた手だった。特別なことは何もない。ただの手だった。
追放されてダンジョンに入った最初の夜を思い出した。ハイヒールのかかとが石畳に挟まって、お腹が鳴って、暗がりの中で途方に暮れていた手だった。
今は違う。
揚げ物の熱を知っている手だった。生地を捏ねた手だった。魔力を流した手だった。何十種類もの食材を切って、焼いて、煮込んだ手だった。
震えていない。
震えていないだけではなく、動き方を知っている。
「父親にも言った通り、ここが居場所になったな」とにゃん吉が言った。
「ええ」
「不満はないか」
「ありません」とリディアは言った。
「ただ」
「ただ?」
「現状維持で終わるつもりはありません」
にゃん吉の耳が前を向いた。
「届ける仕組みをもっと広げます。ギルド食堂だけでは届かない人たちがいます。農村のハンスさんみたいな生産者も、もっと遠い場所にいます。移動できる厨房車があれば、こちらから行けます」
「厨房車か」
「レオンに相談します。設計から始めれば半年かかるかもしれないですが、それでも始めた方が早い」
「半年後に新たな幕開けだな」とにゃん吉が言った。
「お前の話を聞いていると、区切りが見える気がする。最初の段階がここで終わって、次が始まる感じがする」
リディアは少し考えた。
「終わりではないです。ここからです」
「どう違う」
「最初は立ち上げでした。何もない場所から始めて、ものを作って、仕組みを作った。次は広げる話になります。動かし方が変わります」
にゃん吉が缶を置いた。
「お前は追放されてからずっとそういう顔をしているな」
「どういう顔ですか」
「次のことを考えている顔だ」
リディアは少し止まった。
「追放された時は、正直一晩だけ呆然としました」
「一晩だけか」
「翌朝には次のことを考えていました。お腹が空いていたので」
にゃん吉が「そうだったな」と言った。
「ダンジョンの中でうろついていたお前に、画角の邪魔をするなと言ったのは俺だった」
「そうでした」
「あれからどのくらい経った」
「一ヶ月半ほどだと思います」
一ヶ月半。
前世のスケジュール感覚で言えば、企画の立ち上げから初回納品くらいの時間だった。その間にやったことを数えると、数え切れなかった。
「長かったですか」とリディアは聞いた。
「短かった」とにゃん吉が答えた。
「神獣の時間感覚では一瞬に近い。だが内容は濃かった」
「それは同感です」
水晶板に通知が来た。
ヴィランからだった。
【本日の公爵領の経済状況に関する報告です。先月比で来訪者が三倍になりました。移住届の申請が増加しています。王都からも調査の人間が来ているとの情報があります。閣下は「予想より早かった」と仰っておられます。——ヴィラン】
続きがあった。
【なお、セドリック殿下の側近より、本状況についての「対応策を検討している」との情報が別ルートから入っています。詳細は不明ですが、ご留意ください。——ヴィラン】
「王都が動きそうですね」とリディアはにゃん吉に言った。
「また来るか」
「来ると思います。でも」
「でも?」
「前と同じ手は使ってこないはずです。直接的な妨害は全部跳ね返してきました。次は別の手で来ます」
「警戒するか」
「警戒はします」とリディアは言った。
「ただ警戒しながら仕込みもします。明日の食堂の分と、仕様書の下書きと、厨房車の設計の構想を今夜中に始めます」
「今夜中にか」
「書くだけです。完成させるつもりはないです。頭の中にあるものを紙に出しておかないと忘れるので」
羊皮紙を広げた。
一枚目に「移動式厨房車・設計要件」と書いた。
二枚目に「品質管理仕様書・骨子」と書いた。
三枚目に「次章への課題一覧」と書いた。
「三枚同時にやるのか」とにゃん吉が言った。
「頭の中が三つ動いているので」
「器用だな」
「前世から癖があります」
にゃん吉がカウンターから降りてきた。リディアの横に座った。正確には、台の上に乗って横に来た。
「手伝えることはないか」
「仕様書の品目を読み上げます。確認してください。神獣は味覚が鋭いので、品質基準の感覚的な部分を教えてもらえると助かります」
「それなら出来る」
「ありがとうございます」
魔石灯の光が、石の部屋を照らしていた。
一ヶ月半前と同じ光だった。変わっていないのはそこだけで、他は全部変わっていた。
羊皮紙にペンを走らせた。
書くことが、まだたくさんあった。
仕事は、まだ始まったばかりだった。




