第26話:揚げたての約束
朝、生地を確認した。
昨夜仕込んだカレーパンの生地が、発酵窯の中で膨らんでいた。押すと弾力があった。気泡が均一に入っている。
「良い状態です」
取り出して台に置いた。手のひら大に分けていく。均一な重さになるよう、少しずつ調整した。
カレーの具材は昨夜から煮込んでいた。農村でドウグからもらった魔豚の挽き肉と、隣国から仕入れたスパイスを合わせたものだった。一晩置いたので馴染んでいる。スプーンで一口確認した。
深みが出ていた。
具材を生地で包んだ。中央に置いて、端を引き寄せながら閉じる。継ぎ目を指で押さえて、完全に封じる。空気が入っていないことを確認する。
一個目。二個目。三個目。
「今日はお前、いつもよりミリ単位のズレに厳しいな」
にゃん吉がカウンターの端から言った。缶を持ったまま観察していた。
「……均一な揚げ上がりにするためです。形が揃っていないと、表面積の差で焼き色にばらつきが出ます」
「それだけか」
リディアは手を止めなかった。
「それだけです」
にゃん吉が缶を傾けた。何も言わなかった。
四個目。五個目。
粉をまぶした。溶き卵をくぐらせた。パン粉を全面に押しつけた。均一に。端まで。
外から音が届いた。
蹄の音と、車輪の音だった。石畳を踏む重い音だった。馬車だと分かった。公爵家の馬車は普通のものより重い。護衛が複数いれば尚更だった。
リディアは手を止めなかった。
パン粉を押さえた。六個目。七個目。
扉が開いた。
ヴィランが先に入ってきた。いつもの執事服が完璧に整っている。その後ろに、大きな人影が続いた。
ギルド食堂が静まり返った。
厨房で作業していたクラウスの手が止まった。若手冒険者が椅子から立ち上がった。レオンが羊皮紙を持ったまま固まった。
入ってきた人物を見て、全員が同じ反応をした。
威圧感があった。
背が高く、肩幅がある。白髪交じりの髪が整えられていて、服の仕立てが良い。表情が動かない。ただ食堂の内部を見渡す目が、全てを測っているようだった。
視線が動いた。
壁を見た。棚を見た。調理台を見た。整然とした配置を見た。魔石灯の位置を見た。清潔な床を見た。
それからリディアを見た。
リディアは手を拭いてから、一礼した。
「ローゼンベルク閣下。遠路はるばらのご到着、歓迎いたします」
食堂の中が、もう一段静かになった気がした。
父が目を細めた。何かを言いかけて、止めた。
「うむ」とだけ言った。
水晶板をセットした。
いつもの配信用の角度に固定した。今日は試食の様子を映すことより、調理の工程を映すことを優先した角度にした。
コメント欄がすでに動いていた。
「公爵本人が来た」「威厳がヤバい」「これがR_F_1か」「リディアの父上だ」「令嬢、緊張してないのか」「してないっぽい」「さすが」が高速で流れた。
同時接続数が跳ね上がっていた。
リディアは確認せずに調理に戻った。
「今日は事前にお伝えした通り、カレーパンを作ります」と水晶板に向かって言った。
「一度お約束していたので」
コメント欄に「約束の回収だ」「ずっと待ってた」「スパチャ投げます」が来た。
油鍋に油を張った。魔力を通して加熱を始めた。
待つ間に、父が厨房に近づいてきた。
距離を保ちながら、調理台を見ていた。道具の配置を見ていた。魔導フライパンを見た。発酵窯を見た。多重中継器を見た。
「魔導具を自分で揃えたのか」とヴィランを通さずに直接言った。
「商会に依頼しました。設計の条件は私が出しています」
「ユリウス商会か」
「はい。レオンさんが担当してくれています」
父がレオンを見た。レオンが気をつけをした。
「良い仕事をしているようだな」とだけ言った。
「ありがとうございます」とレオンが声を出した。少し裏返っていた。
油の温度を確認した。
木箸を入れた。細かい泡がゆっくり出た。
「適温です」
カレーパンを一個、油に入れた。
音が出た。
ジュワァァッ、という重厚な音だった。コロッケの時より低く、長かった。パン生地が油を受けて膨らみ始める音が続いた。
コメント欄に「音が違う」「カレーパンの音はこれだ」「腹が鳴った」が流れた。
父の眉が、わずかに動いた。
香りが広がった。スパイスと、揚げパンの香ばしい匂いが混ざった。農村のドウグの魔豚の脂が熱を受けて変化していく匂いだった。
一分経った。泡の状態を見た。表面の色を見た。
「返す時間です」
菜箸でゆっくり動かした。反対面を油に当てた。均一に色がついていく。
三十秒待ってから引き上げた。
網の上に置いた。
全面が均一なキツネ色だった。表面を軽く叩くとカリッと音がした。油が切れていく。湯気が立ち上った。
「十個揚げます」
続けて入れた。二個目、三個目。音が重なった。
全部揚げ終えた。
油を切った。
皿に並べた。熱いうちに出した方がいい。
「閣下」
父が近づいてきた。
皿を差し出した。
「火傷にご注意ください」
父が皿を見た。
カレーパンが並んでいた。表面が揃っている。全部同じ色。同じ大きさ。
父が一個取った。
大きな手だった。リディアの手より、一回り以上大きい。
かじった。
音が出た。
サクッ、という乾いた音。続けて、生地のもっちりとした感触が伝わるような音が続いた。中からカレーが出てくる時の、じわりとした音。
父が噛んだ。
止まった。
食堂の全員が、父を見ていた。冒険者もクラウスもレオンも、全員が同じ方向を向いていた。
父が飲み込んだ。
それからしばらく、何も言わなかった。
「……外は恐ろしく芳醇だ」
静かな声だった。威厳のある声だったが、小さかった。
「中は熱く、力強い。スパイスの奥に、農村の豚の旨味が生きている」
もう一口食べた。
「……これが、お前の作った料理か」
「はい」とリディアは言った。
「データと正確な手順で作られた、私の仕事です」
父が皿を持ったまま、リディアを見た。
長い沈黙だった。
コメント欄が流れていたが、読まなかった。
「ヴィラン」と父が言った。
「はい」
「お前が最初にダンジョンのギルドに話を通したのは、誰の指示だったか」
ヴィランが一拍置いた。
「……閣下のご指示です」
食堂の空気が変わった。
リディアは少し止まった。
「廃ダンジョンへの追放は、王家の指示でした」と父が続けた。
「しかし行き先については、こちらで手を入れる余地があった。あの場所には主夜神が長年いると、古い記録に残っていた」
「……神獣の聖域に誘導したのですか」とリディアは言った。
「誘導という言葉は正確ではないが、否定もしない」
にゃん吉がカウンターの端から父を見た。
「それで俺がいる場所を知っていたのか、人間は」と渋い声で言った。
「記録があった。それだけだ」と父が答えた。
沈黙。
リディアは父を見た。厳格な顔だった。表情が動かない顔だった。ただ目だけが、少し違う色をしていた。
「教えてくれればよかったです」とリディアは言った。
「お前が心配するかと思った」
「心配します」
「だから言わなかった」
リディアは少し考えた。前世も含めて四十年近く生きてきた。親というものの動き方は、どの世界でも似ている。
「今の私の居場所はここです」とリディアは言った。
父が聞いていた。
「追放されたから仕方なくここにいるのではありません。ここで自分の仕事を見つけました。誰かに戻れと言われても戻りません。これは報告です」
父が目を細めた。
「知っている」
「では」
「知っているから、視察に来た」と父が言った。
「戻れとは言いに来ていない」
それだけだった。
父はカレーパンをもう一個取った。今度は黙って食べた。
コメント欄に「父上デレた」「カレーパン二個目いった」「神回確定」「スパチャ連打」が流れた。
視察は二時間で終わった。
父は食堂の隅々を見て、ヴィランにメモを取らせた。クラウスに質問をいくつかした。レオンの開発した道具を手に取って確認した。
帰り際、馬車の前でヴィランがリディアに近づいた。
「閣下、昨夜は明日ついに本物が食べられると興奮されて、一睡もされておられませんでした」と小声で言った。
リディアは少し止まった。
「そうですか」
「はい。夜中に二度、私の部屋に来て『カレーパンとはどんな食感か』とご質問されました」
「……それをお伝えになっても良かったんですか」
「閣下は今頃、馬車の中で聞かれなかったふりをしていると思います」
馬車が動き始めた。
にゃん吉が横に来た。
「スパチャの主が素直じゃねえな」
「昔からそういう人です」
「似てるな、お前と」
「似ていません」
「似てる」とにゃん吉は言った。
それ以上は言わなかった。
コメント欄がまだ動いていた。
「神回だった」「父上がデレてるのが最高」「カレーパン食いたすぎる」「公爵領に行けばカレーパン食えるのか」「移住します」が画面を流れた。
リディアは水晶板を手に取った。
「今日の配信はここで終わります」と言った。
「ありがとうございました」
視聴者の声が、画面の向こうからまだ来ていた。
リディアはそれを一拍だけ受け取ってから、水晶板を閉じた。
厨房に戻り、片付けをした。
油鍋を洗いながら、父の手の大きさを思い出した。カレーパンを持った時の、大きな手。
言葉にはならなかったが、伝わったものがあった気がした。
それで十分だった。




