第19話:スパイスの香り
朝、ユリウス商会から通知が来た。
取引の一時停止ではなかった。そちらは問題ない。別の経路の話だった。公爵領外の中規模商人が二軒、王都からの圧力を理由に今月の納品を見合わせたいと申し出てきた。
リディアは通知を読んで、羊皮紙に書いた。
「予測通りですね」
「動いてきたか」とにゃん吉が言った。
「動いてきました。ただし規模が小さい。主要ルートは全部生きています」
「余裕だな」
「対策を先に打っていたので余裕です。それとは別に、今日ガルムに連絡します」
ガルムへの通信は短くした。
【隣国の食材ルートを紹介してもらえますか。スパイス系の素材が欲しいです。——リディア】
返信が来た。
【知り合いがいる。繋ぐ。——ガルム】
四時間後に別の通信が来た。差出人は「隣国商会・マリウス」となっていた。
【ガルム殿からご紹介いただきました。配信は以前から拝見しています。スパイス類をご希望とのことで、サンプルをお送りします。気に入っていただければ正式な取引をしましょう。——マリウス】
翌日、荷が届いた。
木箱を開けると、小瓶が十数本並んでいた。それぞれ色が違う。黄色、赤茶、暗褐色、鮮やかなオレンジ。蓋を開けると香りが来た。
一本目。鼻に抜ける土っぽい香り。クミンだと分かった。
二本目。鮮やかな黄色の粉。ターメリックに相当するものだと思った。口に少量つけると舌が黄色くなった。
三本目。複数の香りが混ざっている。温かみのある複雑な香り。ガラムマサラに近い。
四本目を開けた瞬間、にゃん吉の鼻がひくりと動いた。
「強い匂いだな」
「良い匂いですか」
「嫌いではない。刺激的だ」
「これで料理を作ります」
「何を」
「まだこの世界では誰も食べたことのないものです」
カレーの仕込みは前日から始めた。
魔牛の肩ロースを大きめに切った。香辛料と魔果汁で一晩漬け込む。肉に香りを入れる工程だった。
翌朝、玉ねぎに相当する球根系魔草を刻んだ。
魔導フライパンに魔物脂を引いた。球根を入れた。弱火で炒め始めた。
十分経った。まだ炒めた。
二十分経った。まだ炒めた。
色が変わってきた。白から透明になって、薄い黄金色になってきた。
「時間をかけますね」とレオンが横で見ながら言った。今日は開発の確認と試食を兼ねて来ていた。
「ここが全部の基礎になります。飴色になるまで炒めることで甘みが出ます。この甘みがないと後の工程で深みが出ない」
「三十分以上炒めるんですか」
「四十分くらいかかります」
「気が長い」
「美味いものには時間がかかります」
四十分後、球根が飴色になった。
スパイスを加えた。クミンから始めて、ターメリック、複合スパイスを順番に。油に溶け込ませるように炒める。香りが変わった。スパイスが熱を受けて、最初の生の香りから深い香りに変化していく。
食堂の中に匂いが広がった。
ギルドの冒険者が数人、扉から顔を覗かせた。
「何の匂いだ」と一人が言った。
「今夜の配信で出します。楽しみにしていてください」
漬けておいた肉を加えた。表面に焼き色をつけてから、水分を足して蓋をした。
煮込む。弱火で、時間をかけて。
ナンの生地は昼に仕込んだ。
発酵パン窯の技術を使うが、形が違う。薄く伸ばした生地を、窯の内側の側面に直接貼り付けて焼く。高温で一気に焼き上げる。
試作を一枚やった。
窯の側面に生地を貼り付けた。扉を閉めた。二分待った。
開けた。
膨らんでいた。表面に焦げ目がついて、端がパリッとしている。剥がして触ると、中がもちもちしていた。
「焼けました」
一口食べた。
表面のパリッとした食感と、中のもちもちした食感が来た。小麦系の甘みがある。シンプルだが、何かと合わせることを前提に作られた味だった。
「カレーに合わせます」
配信は夕方から始めた。
試食役はクラウス、ガルム、若手冒険者が三人、レオン。ガルムは自分のチャンネルでも告知を出したので、開始前から同時接続が増えていた。
「今夜は隣国のスパイスを使います」とリディアは水晶板に向かって言った。
「王都から仕入れルートに圧力をかけられたので、代わりに隣国のルートを開拓しました。結果として、今まで手に入らなかった素材が手に入りました」
コメント欄に「妨害が逆効果になってて草」「令嬢に圧力かけた奴がアホ」「隣国ルート開拓するの早すぎる」が流れた。
「では料理を出します」
カレーの鍋の蓋を開けた。
香りが来た。
スパイスの複雑な香りと、肉の旨味と、煮詰まった野菜の甘みが混ざった匂いが食堂に広がった。前日から仕込んでいた分、香りが深くなっている。
コメント欄が「匂いが画面から来てる」「食欲を刺激する匂いだ」「なんだこれ見たことない料理だ」に変わった。
ナンを窯で焼いた。一枚ずつ、注文に合わせて焼く。
「熱いうちに出します。冷めると食感が変わります」
皿にカレーを盛った。ナンを添えた。
ガルムが受け取った。
ナンをちぎってカレーにつけた。かぶりついた。
噛んだ瞬間、顔が変わった。
「辛い」
「スパイスです」
「でも」
「でも?」
「止まらない」
もう一口つけた。食べた。汗が出てきた。それでも手が動いた。
「熱さが体の中から来てる気がする」
「スパイスの効果です。体が温まります」
「こんな感覚の食い物は初めてだ」
コメント欄に「ガルムが汗かいてる」「辛いのに止まらないやつだ」「スパイスカレーというのか」「身体の底から力が湧いてくる感じがするのか」「投げ銭連打」が流れた。
クラウスが食べた。最初の一口で目が見開いた。
「辛い、ですが」
「手が止まりませんか」
「止まりません」
「それがカレーです」
若手冒険者の一人が「パンとこのソースを一緒に食べると全部変わる」と言った。
「ナンはカレーに合わせるために作っています」
「合ってるってこういうことか」と別の冒険者が言った。
「そうです」
レオンが黙って食べ続けた。汗をかきながら、手が止まらなかった。
にゃん吉がカレーを一口食べた。
しばらく動かなかった。
「強い」
「スパイスが多いですから」
「でも奥に甘みがある」
「炒めた球根の甘みです。四十分かけた分です」
「……四十分の甘みか」と渋い声で言った。
「それは出るはずだ」
コメント欄に「神獣の食レポが毎回的確」「四十分の甘み」「詩みたいだ」「スパチャ投げます」が流れた。
配信が終わった後、クラウスが言った。
「食堂の予約が入り始めています。今夜の配信を見てギルドに問い合わせが来ている」
「どのくらいですか」
「今夜だけで三十件以上。半分が王都からです」
リディアは少し止まった。
「王都から」
「ええ。下級貴族や商人の名前が多いです。公爵領まで来て食べたいと。中には移住を考えていると書いてきた者もいます」
「妨害した側から人が来ますね」
「皮肉な話です」とクラウスは言った。どこか楽しそうな顔だった。
「ヴィランに連絡します。公爵領への流入が増えるなら、受け入れ体制を整えた方がいい」
「もう動いておられますか」
「動いていると思います。父は先を読む人です」
夜、ヴィランから通信が来た。
【王都からの問い合わせを受けて、公爵閣下が公爵領への移住支援制度の検討を始めました。閣下より一言。「娘のおかげで領地が活気づいている。礼を言う」とのことです。——ヴィラン】
末尾に一行あった。
【閣下は本日のカレーの配信を二回見返しておられました。ナンの焼ける場面だけ四回見ておられました。——ヴィラン】
リディアは通信を閉じた。
「父がナンの焼ける場面を四回見ています」
「執着するな、親父さんも」とにゃん吉が言った。
「送ってあげたいですね」
「ダンジョンから王都まで保温できるか」
「魔導保温器があります。試してみましょう」
羊皮紙を取り出した。
父への荷物の準備リストを書いた。カレーとナン、保温の手順、温め直し方の説明。実用的な内容だった。
少し考えてから、一番下に一行だけ余計なことを書いた。
【ナンは焼き立てが一番美味いです。ご自分で焼けるよう、窯の発注先も同封します。——リディア】
送ることにした。
スパイスの香りがまだ食堂に残っていた。
魔石灯の光の中で、にゃん吉がマタタビ酒を開けた。
「今夜も悪くなかったな」
「悪くなかったです」
缶が差し出された。
リディアは今夜も匂いだけ嗅いだ。甘い、発酵の匂い。それからスパイスの余韻が混ざった。
変な組み合わせだったが、悪くなかった。




