85.5話 閑話 あんたも我慢するのかい
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
本日は女将マルタのサイドストーリーになります。
女将のサクセス?物語をお楽しみください。
夜。
宿の厨房には、もう誰もいなかった。
火を落とした竈。
洗い終えた鍋。
明日の朝に使う野菜の籠。
昼間の騒がしさが嘘のように、静かだった。
マルタは一人、椅子に座っていた。
「……痛いね」
右手を開く。
掌が、まだ少し熱を持っている。
シンジを張り倒した手だった。
遠慮はしなかった。
歯を食いしばれと言ったくせに、食いしばる前に叩いた気もする。
「まあ、そこはいいか」
よくはない。
けれど、もう叩いた。
明日の朝になれば、あの男はきっと頬を押さえながら嫌味の一つも言うだろう。
そういう男だ。悪い男ではない。
それも分かっている。
だからこそ腹が立った。
『知らないと気づく機会があったのに、聞かずに済ませた罰だよ』
あれは本心だった。
だが、全部ではない。
マルタは自分の掌を見た。
「……ちょいと、重ねすぎたかねえ」
◇
昔。
マルタにも夫がいた。
大きな商人ではなかった。
荷車一台で町から町へ品を運ぶ、小さな行商人だった。
布。
塩。
干した果物。
針や糸。
時には薬草。
安く仕入れられたものを積み、必要としている土地へ運ぶ。
夫が商談をする。
マルタが帳面をつける。
荷車の後ろには、まだ小さな息子が座っていた。
「母ちゃん、おなかすいた」
「さっき食べただろ」
「もうすいた」
「じゃあ次の村まで我慢しな」
「長い?」
「すぐだよ」
「さっきも、すぐって言った」
「うるさいねえ」
そんなことを言いながら、パンの端をちぎって渡す。
決して楽な暮らしではなかった。
だが、悪い暮らしでもなかった。
三人で食べていけた。
雨の日には荷車の中で身を寄せ、晴れた日には道端で飯を食べた。
いつか荷車を二台にしよう。
いつか店を持とう。
夫はよく、そんなことを話していた。
だから夫が大きな商売へ手を出した時も、マルタは止めなかった。
「これがうまくいけば、一気に大きくできる」
「本当に大丈夫なのかい?」
「大丈夫だ。俺に任せろ」
その言葉をマルタは信じた。
「分かったよ」
それだけだった。
本当は不安だった。
仕入れの量が多すぎると思った。
借りる金も大きすぎると思った。
いつもの商売ではない。
夫自身も、どこか焦っているように見えた。
でも、夫が決めたことだから。
自分が水を差すものではない。男には男の商売がある。
妻は夫を信じて支えるものだ。そう言われて育った。
だから、何も言わなかった。
我慢した。
結果……商売は失敗した。
◇
朝起きると、夫はいなかった。
寝台の隣が冷たかった。
最初は、仕入れ先へ行ったのだと思った。
昼になっても戻らなかった。
夜になっても戻らなかった。
三日経っても。
十日経っても。
戻らなかった。
残ったのは。幼い息子。荷車一台。売れ残った商品。
そして、夫が残していった支払いだった。
「……父ちゃんは?」
息子に聞かれた。
マルタは答えられなかった。
「仕事だよ」
最初は、そう言った。
「いつ帰る?」
「そのうちさ」
「明日?」
「さあね」
「明後日?」
「寝な」
何度も聞かれた。
そのたびに答えを濁した。
やがて息子も、聞かなくなった。
その方がずっと堪えた。
◇
夫が逃げた。
悪いのは夫だった。
少なくとも、法の上では。
妻と子を置き去りにした。
子を養う責任から逃げた。
見つかれば、ただでは済まない。
けれど世間の口は、法ほど公平ではなかった。
「気の毒にねえ」
最初はそう言われた。
次は。
「亭主に逃げられたんだって?」
になった。
その次には。
「何かあったんじゃないのかい」
になった。
やがて。
「女房にも問題があったんだろう」
という話になった。
商売へ行けば、もっと露骨だった。
「旦那は?」
「いないよ」
「じゃあ話にならんな」
「金なら払える」
「女一人の商売に掛けでは卸せないよ」
「掛けはいらない。今払う」
「だったら、こっちはこの値だ」
「昨日より二割高いじゃないか」
「嫌なら他へ行きな」
他へ行った。
そこでも同じだった。
「女に街道商いなんかできるものか」
「子供まで連れて?」
「そのうち諦めるさ」
「若いうちに次の男を探した方がいい」
誰も荷車の値段を見なかった。
マルタが何年、夫の横で商売をしてきたかも見なかった。
見られたのは、夫に逃げられた女。
ただ、それだけだった。
◇
一度だけ荷車を手放そうと思った。
雨の日だった。
息子が熱を出していた。
商品は売れない。
宿代も惜しくて、街道脇の粗末な小屋で夜を越していた。
「母ちゃん……」
「何だい」
「ごめんね……」
マルタは顔を上げた。
「何がだい」
「ぼくがいるから、お仕事たいへんなんでしょ」
幼い息子が、毛布の中から言った。
熱で真っ赤になった顔で。
自分が母親の重荷なのだと。
本気で思っていた。
マルタの中で何かが切れた。
「誰がそんなこと言った」
「でも」
「あんたがいるから働いてるんだよ!」
息子がびくりとした。
怒鳴ってしまった。
マルタは息を呑んだ。
それから、息子を抱き寄せた。
「ごめんよ……」
「母ちゃん?」
「ごめん……」
小さな身体は熱かった。
「我慢しなくていいんだ」
自分へ言ったのか。
息子へ言ったのか。
分からなかった。
「あんたまで我慢するんじゃないよ」
夫が決めたから。
妻だから。
母親だから。
女だから。
仕方がないから。
そんな言葉を飲み込んで。
我慢して。
我慢して。
最後に何が残った?
逃げた夫の背中と、自分が邪魔なのだと思い込んだ、幼い息子だった。
「腹が減ったら言いな」
「うん」
「苦しかったら言いな」
「うん」
「嫌なことがあったら、嫌だって言いな」
「うん」
「母ちゃんにも言うんだよ」
「うん」
マルタは息子を強く抱いた。
「言わなきゃ分からないことだって、あるんだからね」
◇
やがて夫は見つかり、妻子を捨てた責任と残した債務を負わされた。
だが、マルタはその金には手を付けず、荷車に残った商品を見直すことにした。
売れない商品を闇雲に売るのではなく、必要とされる場所を探すことにした。
街道を見た。
人を見た。
荷馬車を見た。
何が足りない。
何なら金を払う。
何に困っている。
何を欲しがっている。
見慣れた街道も、商う側の目で見直せば、見えてくるものがあった。
ある街道の分かれ道で、御者が馬へ水を飲ませていた。
「この辺り、宿はないのかい?」
「次まで半日だ」
「飯は?」
「ない」
「馬の餌は?」
「持ってなきゃ終わりだ」
「……なるほどね」
マルタは、そこへ荷車を止めた。
売れない商品を売るのではなく、必要な商品と交換することから始めた。
そして最初に売ったのは、温かい汁物だった。
次にパンを焼く炉を置いてパンを売った。
小麦粉と一緒に、馬の餌も仕入れた。
当然、水も売り物だ。
稼いだ金で建材を買い、大工を雇って簡単な建物を建てた。
雨を避ける屋根。
荷物を置ける場所。
寝床。
そして、荷車を修理する職人を雇った。
荷馬車の中継地として認知され始めた。
客が増えた。
商人が増えた。
店を出したい者が現れた。
宿が一軒増えた。
二軒になった。
道が踏み固められた。
井戸が増えた。
倉が建った。
人が住み始めた。
いつしか、ただの街道の分かれ道には、名前がついた。
ローデン。
辺境伯から、一代限りの女男爵位を授けられた日。
昔、仕入れを断った商人が頭を下げた。
「ローデン卿」
マルタは、その頭をしばらく眺めた。
「顔を上げな」
「は」
「商売の話をしに来たんだろ」
「はい」
「だったら、私が女か男かじゃなくて、帳面を見な」
男は顔を赤くした。
マルタは笑った。
仕返しをする気はなかった。
そんなものより、自分の前に積み上がった帳面の方が、ずっと気分がよかった。
◇
そして今日、セレーナを見た。
巡回書記官。
そこらの領主でさえ軽く扱えない女。
若く。
美しく。
賢く。
世界の記憶へ触れる力まで持っている。
昔の自分とは、何もかも違う。
なのに。
『シンジは異邦人です。こちらの世界の都合を押しつけるつもりはありません』
そう言ってシンジを庇った。
自分のことではなく、あの男の事情ばかり考えていた。
自分が何を背負うことになるのか。
世間からどう見られるのか。
もし置いていかれたら、自分がどうなるのか。
分かっているはずなのに。
何も言わない。
それでもいいと。
自分で選んだことだからと飲み込もうとする。
その顔を見た時、マルタには昔の自分が見えた。
夫が決めたことだから。
妻だから。
仕方がないから。
大丈夫だから。
そうやって、何も言わずにいた女がそこにいた。
「……馬鹿だねえ」
マルタは厨房で、一人呟いた。
誰に言ったのか。
シンジか。
セレーナか。
昔の自分か。
たぶん、全部だった。
シンジが知らなかったことまで責めるつもりはない。
異邦人なのだ。
この世界の男女のことなど、知らなくて当然だ。
セレーナが言わなかったことを、分かれというのも無茶な話だ。
そんなことは、マルタにも分かっている。
ただ、知らないと気づく機会はあった。
モリスから、話せと言われた。
それでも、聞ける雰囲気ではなかったと引いた。
そして今日。
何も知らないまま、セレーナの隣で先のことはまだ分からないと言った。
その瞬間、昔の傷が痛んだ。
「だからって、張り倒すことはなかったかねえ」
右手を眺める。
少し考える。
「……ふん」
マルタは鼻を鳴らした。
詫びじゃないが、ちょっと手助けしてやろうじゃないか。
二人の仲を。
その計画を考えながら、マルタは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
◇
厨房を出ようとしてマルタは足を止めた。
昼間のセレーナの顔が浮かんだ。
シンジを庇う時の顔。
自分のことを後へ回した顔。
「セレーナ様」
誰もいない厨房でマルタは静かに呟いた。
「あんたも我慢するのかい」
返事はない。
当然だった。
それでも、続けた。
「好きなら好きと言いな」
「怖いなら怖いと言いな」
そして。
「欲しいなら欲しいと言いな」
言葉にしなければ、どれほど優しい相手でも、分からないことがある。
そして言葉にしてもなお、踏みにじる男なら。
「その時は、私がもう一発張り倒してやるよ」
今度は少しだけ笑った。
夫に捨てられた女は荷車一台から町を作った。
息子も成人して、今はいっぱしの行商人として、各国を忙しく飛び回っている。
そして自分は……もう、我慢するだけの女ではない。
だからこそ、遠慮なく私の手が届く範囲なら手を貸そう。いや、出そう。
どこか憎めない鈍感男と、自分の気持ちにはとことん不器用な堅物女。
二人の将来が幸せに満ちたものになることを心から願った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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