第84話 怖くて言えなかった
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
「……何だって?」
マルタの表情が止まった。
「結婚しています」
「セレーナ様は、それを?」
「知っています」
「元の世界へ帰りたいことも?」
「それも知っています」
マルタは、しばらく何も言えなかった。
「それを知ったうえで、あの方はあんたを受け入れたのかい?」
「はい」
「……そうかい」
マルタは深く息を吐いた。
その声から怒りが消えたわけではない。
むしろ、先ほどより重くなった。
「あの方は、あんたがいつか帰るかもしれないことも知っている」
「はい」
「妻のところへ帰り、自分だけがここへ残されるかもしれないことも」
「……はい」
「そのうえで、立場も、心も、身体も、未来も、全部あんたへ差し出した」
シンジは、もう目をそらさなかった。
「女将さん」
「何だい」
「教えてください」
シンジは椅子から立ち、深く頭を下げた。
「俺が何をしたのか」
「……」
「セレーナが何を背負って、俺を選んでくれたのか」
「今、話しただろ」
「もっとです」
頭を下げたまま続ける。
「俺の言動や態度が、この世界でどんな意味を持つのか」
「……」
「セレーナに対して、俺がどんな立場になったのか」
「……」
「知らなかったでは済まないなら、今からでも全部知りたい」
しばらくの沈黙が落ちた。
やがて、マルタが息を吐く。
「最初から、それを誰かに聞けばよかったんだよ」
「はい」
「座りな」
「はい」
シンジはもう一度、椅子へ腰を下ろした。
マルタは、巡回書記官が伴侶を選ぶ意味を、最初から話した。
誰にも強制されないこと。
誰にも奪わせないこと。
その代わり、自分の選択を公に背負うこと。
選ばれた男は、ただ愛されるだけではない。
その女性の名誉も、立場も、これからの人生も預かる。
シンジは、一言も聞き漏らさなかった。
◇
「分かりました」
話が終わる頃には、窓から差す光の角度が変わっていた。
「本当に分かったのかい?」
「全部分かったとは言えません」
シンジは正直に答えた。
「でも、俺が分かっていなかったことは分かりました」
「それで?」
「セレーナに謝ります」
「謝るだけかい?」
「話します」
シンジは立ち上がった。
「俺が何を考えていたのか。これからどうしたいのか」
「そうしな」
「それから、本人に聞きます」
「何を?」
「セレーナが、本当は何を望んでいるのか」
マルタは、わずかに目を細めた。
「今度は逃げるんじゃないよ」
「はい。すみませんでした」
「私へ謝る必要はない」
シンジは腫れた頬へ触れた。
「謝る相手は……セレーナですね」
「行ってきな」
「ありがとうございました」
シンジが扉へ向かう。
「シンジ」
「はい?」
「次に同じことをやったら、反対側だからね」
シンジは反射的に、まだ無事な方の頬を押さえた。
「二度とやりません」
「頬の話じゃないよ!」
マルタの怒声に追われるように、シンジは部屋を出た。
◇
セレーナは、宿の奥に用意された客室で待っていた。
扉を開けたシンジの顔を見るなり、椅子から立ち上がる。
「シンジ……頬が腫れています!」
「ああ。これは天罰だな」
「天罰?」
「うん。天罰以外の何ものでもない」
「そういうわけにはいきません。見せてください」
セレーナが心配そうに手を伸ばす。
その指が頬へ触れる前に、シンジは優しく手をつかんだ。
「いいんだ」
「ですが、腫れています」
「せめて今日くらいは、この痛みを残しておきたい」
「なぜですか?」
「俺が忘れないために」
セレーナが眉を寄せる。
シンジは、その手を握ったまま、正面から彼女を見た。
「それより、セレーナ」
「はい?」
「すまなかった」
セレーナの瞳が揺れる。
「君との関係を軽く扱っているつもりはなかった」
「シンジ……」
「女将から聞いた」
シンジは一度、息を吸った。
「君が俺を選ぶことが、この世界でどういう意味を持つのか」
「……」
「君が、何を俺へ差し出したことになるのか」
セレーナの指が、わずかに震えた。
「立場も」
「……」
「心も」
「……」
「身体も」
セレーナの頬が赤くなる。だが、シンジは目をそらさなかった。
「未来も」
「……はい」
「全部だったんだな」
セレーナは答えなかった。その沈黙が答えだった。
「俺は、何も分かっていなかった」
「私が言わなかったのです」
「それでもだ」
シンジは首を横へ振る。
「モリスさんに促された時、ちゃんと君と話し合うべきだった」
「……」
「君に聞けないと思ったなら、ほかの誰かへ聞くべきだった」
「ですが、シンジは異邦人です」
「異邦人だから、知らなくていいことにはならない」
「私は、そうは思っていません」
「俺は思う」
セレーナが顔を上げた。
「君が覚悟してくれたことを、俺だけが知らずに受け取っていいはずがない」
「私は、私の意思でシンジを受け入れました」
「うん」
「それを後悔していません」
「分かってる」
「なら、シンジが謝ることではありません」
「謝ることだよ」
シンジは静かに答えた。
「君の覚悟を知らないまま、君の愛情だけを受け取っていた」
「……」
「俺は、自分がいた世界の常識に縛られていた」
この世界の常識を軽視していたつもりはない。
だが、セレーナとのことだけは、自分の知る恋愛の始まり方へ当てはめていた。
気持ちを確かめる。付き合う。互いを知る。その先で、結婚を考える。
「君との関係が叶って、浮かれていた」
「シンジ」
「いや、甘えていたんだと思う」
「何に、ですか?」
「君の言葉に」
シンジはセレーナの手を両手で包んだ。
「君が、受け入れたことだから、それでいいと言ってくれた」
「はい」
「だから、それ以上聞かないことが、君の意思を尊重することだと思った」
「……」
「でも、本当は違った。俺は、答えを知るのが怖かっただけだ」
「怖かった?」
「妻がいる」
「……」
「帰りたいと思っている」
「はい」
「それなのに君を好きになった」
シンジは、自分の言葉から逃げなかった。
「その三つをどうすればいいか、答えが出なかった」
「……」
「だから、始まったばかりだという言葉の中へ逃げ込んだ」
セレーナの瞳へ、涙が浮かぶ。
「俺は、君を愛してる。だが、そればかり優先して、常識も、その先にある責任も飛ばしてしまった」
「もう……それだけで十分です」
「最後まで聞いて」
「……はい」
「君という女性と、こういう関係になれたことがうれしかった」
シンジは小さく笑った。
「君との関係を望んで、それが叶って、浮かれていた。それは否定できない」
「……」
「でも、大切な部分を知ろうとしなかった」
モリスの忠告。アリーシャの言葉。領都の人々の反応。答えは何度も目の前にあった。
「君が俺を選んだら、君がどうなるのか」
「……」
「それを知ろうとしなかった」
「私が隠したのです」
「どうして?」
セレーナは視線を落とした。
「シンジが意味を知ったら……」
声が、かすかに震える。
「自分の気持ちではなく、責任で私を選び直すと思いました」
「……」
「私は、そんな答えが欲しくなかった……」
つないだ指が震えている。
「シンジが私を好きだと言ってくれた」
「うん」
「それだけで、十分でした」
「セレーナ」
「でも……」
セレーナの声が途切れた。
「本当は、怖かったのです」
「何が?」
「意味を知ったシンジに、やっぱり私を受け入れるべきではなかったと思われることが」
涙が、セレーナの頬を伝った。
「私のことを重いと思われることが」
「……」
「それ以上を望んだら、嫌われてしまうのではないかと」
セレーナは顔を覆った。
「だから、言えませんでした」
押し殺していた声が震える。
「シンジが、私を受け入れたことを後悔するのが怖くて……怖くて……」
シンジは、震えるセレーナの肩を抱き寄せた。
「……やっぱり、俺は大馬鹿男だ」
「シンジ……」
セレーナの体が一瞬強張り、それからゆっくりと力を抜いた。
「このまま、最後まで俺の話を聞いてほしい」
「……はい」
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