第83話 すべてを差し出した人
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
「ちょっと、何で俺は張り倒されたんですか!?」
宿の奥にある小さな部屋へ入るなり、シンジは抗議した。
頬が熱い。口の中には、わずかに血の味がした。
「知らないと気づく機会があったのに、聞かずに済ませた罰だよ」
マルタは椅子へ腰を下ろした。
「無知だっただけなら、張り倒しやしない」
「無知だったことは認めます」
シンジも向かいの椅子へ座った。
「モリスさんに話すべきだと言われたのに、うやむやにしたことも」
「それなら、よく聞きな」
マルタの目から、先ほどまでの再会を喜ぶ色が消えた。
「私は、あんたがどうなるかを心配して怒ってるんじゃない」
「俺じゃない?」
「セレーナ様だよ」
マルタは机へ太い指を置いた。
「巡回書記官が、誰と一緒になるかを強制されないことは知ってるね?」
「はい」
「まあ、理解の程度にもよるが、平民の恋愛や結婚とは違う」
「……はい」
「貴族同等、もしくはそれ以上の立場になるセレーナ様が、貴族にも、領主にも、教会にも、機関にも決めさせない。誰にも口を出させず、自分で相手を選ぶ権利を持っている」
「貴族以上? 確かに敬われてるというのは理解してますが……」
「巡回書記官っていうのはね、この世界で生きている人からしたら、ありがたい存在で、怖い存在でもあるんだよ。生きた神様って言う人もいるぐらいだ」
「生きた神様!?じゃあ聖女様じゃん!」
「聖女?そんな遠い存在じゃないさ。ちゃんと我々の暮らしの中にいてくれる、身近でありがたい人さね」
セレーナのこと、本当に知らないことだらけだな。
「そっか。そういう目で見られているから、みんな様付けしてるんだな」
偉いというより、尊敬と畏怖、そういった意味なんだなと。
「真面目に生きてる人間からしたら、本当に神様みたいな存在さ」
神様か……ん?ちょっと待てよ。
「でも、悪いことひとつ許されない世界ってすっごく窮屈じゃない?」
そんな何でも分かってしまう世界って生きづらいよなあ。
それを聞いたマルタは呆れたように。
「そこも大馬鹿だねえ。何でも裁いてもらってたら、どれだけ巡回書記官がいると思ってんだい? 小事や当人同士で話し合って済むものは個人の責任だ。」
「確かに……すまん、極論過ぎた」
シンジはばつが悪そうに頭をかいた。
「それでも解決できない、許されないなら役場か支所へ訴える。 そして、そこでも解決しない悪事や、黒沼のような世界が許容出来ない問題の先にいるのが、巡回書記官さ」
なるほど。この世界ならではのシステムだな。
「おっと、話が逸れちまったね。あんたはそんなセレーナ様に選ばれたってことだ」
「あ、はい」
「そして、セレーナ様の血筋を世間が望んでいる」
ふと、前にアリーシャが話していたことを思い出した。
似たようなことを言ってたな。
「……すごく期待されていることはわかりました」
想像以上に大事なことだったとシンジは思い改めた。
「だがね。誰にも強制されないということは、選んだ結果も自分で背負うということだ」
「……」
「セレーナ様は、あんたを選んだ」
領都の大通りで、セレーナはシンジの隣を歩いた。
大勢に見られても、つないだ手を離さなかった。
そして、自分の口で言った。
私は、シンジを受け入れました。
「セレーナ様ほどの方が、男を受け入れたと公に口にする」
マルタの声は低い。
「それを聞いて、ただ気持ちを受け入れただけだと思う者はいない」
「では、どう受け取られるんですか?」
「婚約だよ」
シンジの喉が鳴った。
「いや、巡回書記官ほどの立場なら、普通の婚約よりも重い」
「婚約よりも?」
「あの方が、自分の立場も、心も、身体も、これから先の人生も、すべてその男へ預けたと見られる」
「ちょっと待ってください!」
シンジは思わず身を乗り出した。
「身体までって……俺たち、キス……く、口づけすらしてませんよ!」
「そんなことを、いちいち説明しながら歩くのかい?」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「それとも、どこかへ看板でも立てるかい?」
マルタが机を叩いた。
「シンジとセレーナ様は、まだ接吻すらしておりません、ってね!」
「だから、そういう意味じゃなくて!」
「だから大馬鹿だと言ったんだ!」
怒声が部屋へ響いた。
「あんたたちが、どこまで身体を許し合っているかなんて関係ない!」
「関係ない?」
「あんたを選び、さっきのように隣で手を握っていた。その時点で、世間からはすべてを許し合った男女として見られるんだよ」
「でも、順番ってあるじゃないですか」
「順番?」
「付き合って、互いを知って、婚約して、結婚して。そのあとに子供ができる」
マルタが眉を寄せた。
「それが、あんたの世界の流儀なのかい?」
「基本的には、そうです」
「面倒な世界だねえ」
「面倒?」
「こっちじゃ、子供が生まれることは慶事だ」
マルタは呆れたように鼻を鳴らした。
「男と女が一緒にいて、互いに望み合っていれば、できる時にはできる」
「結婚前でも?」
「結婚だの婚約だの、いちいち順番を待たなきゃ子供を作っちゃいけないなんて、ずいぶん窮屈な話だね」
「でも、婚姻前に子供ができたら、母親や子供の立場が悪くならないんですか?」
「どうして悪くなる?」
「男が父親になることを拒んで、女と子供の前から逃げたら?」
マルタは目を丸くした。次の瞬間、心底呆れた顔になった。
「そんなことをした男を、世間が許すわけないだろう」
「許さない?」
「支所へ訴えられれば、逃げた男は父親としての責任を負わされる」
「それでも拒んだら?」
「労働施設行きだよ」
「労働施設……」
「子供を捨てた親も同じだ。男だろうが女だろうが関係ない」
マルタは腕を組んだ。
「子供ができるような真似をするなら、それだけの覚悟が必要なのは常識だ」
「……」
「覚悟もなく、ただ欲を満たしたいだけなら、娼館へ行けという話だよ」
シンジの中で、覚えのある知識がつながった。
「あ……そっか。エルストリアの記憶か」
「その名を知ってるなら、話は早いさね」
子供を捨てることへの厳しい罰。
血筋や婚姻の有無よりも、子供を作った者が親として責任を負うという考え方。
「ファンタジー最強じゃないか……」
「ふぁんたじ? 何を言ってるか知らないけどね」
マルタはシンジを指した。
「あんたはセレーナ様に選ばれた」
「……はい」
「あんたも、あの方の隣に立つことを選んだ」
「はい」
「なら、世間から子供はまだですかと聞かれても、おかしなことじゃない」
「結婚もしてないのに?」
「だからこの時点で、もうすることが前提だ!」
マルタは言い切った。
「いや、それより重い」
「……」
「セレーナ様は、自分の立場も、心も、身体も、未来も、すべてあんたへ差し出した」
「……」
「そう見られることを知ったうえで、あんたを選んだんだ」
シンジは、何も言えなかった。
「では、もし俺がいなくなったら、セレーナは……」
「どうなると思う?」
「俺を選んだ判断を疑われる」
「それだけじゃない」
「巡回書記官としての信用も失うかもしれない」
「それだけでもない」
マルタの指が、机を一度叩いた。
「あの方は、あんたにすべてを与えたあとで、捨てられた女性として扱われる」
「捨てられた……」
「自分で選ぶ権利を持っていたくせに、ろくでもない男を選んだ」
マルタは、言葉を吐き捨てるように続けた。
「権限を使って誰にも口を出させなかったくせに、男を見る目がなかった」
「……」
「利用され、心を奪われ、身体まで奪われた。それなのに、何も残らなかった女だとね」
「だから、身体を奪ってはいません!」
「あんたが、それを叫びながら町中を歩くのかい?」
「……」
「セレーナ様ご本人に、私は何もされておりませんと、一人ずつ説明させるつもりかい?」
シンジの顔から血の気が引いた。
「そんなことは……」
「なら、分かるだろ」
マルタは唇を強く結んだ。
「この世界は、捨てられた女に優しくない」
その言葉には、怒りだけではないものがあった。
「次はもっといい男を探せばいい。そんな商品選びのような話じゃない」
「……」
「特に、セレーナ様ほどの立場にある未婚の女性はね」
マルタの声が、わずかに震えた。
「心も身体も、一度男へ差し出した女」
「……」
「口の悪い者なら、手垢がついたと言う」
シンジの眉が動いた。
「出がらしだと笑う者もいる」
「ふざけるな!」
低い声が、シンジの口から漏れた。
「セレーナは、そんな女じゃない!」
「私だって、そう思ってるよ!」
マルタの手が机を叩いた。
「だから怒ってるんだ!」
部屋へ声が響いた。
「セレーナ様は何も悪くない。でも、あんたのあの言葉で、そう受け取られる場合もあるんだよ!」
「……」
「自分で選んだ。それだけだと、あの方はおっしゃった」
マルタの目に、強い光が宿っていた。
「なのに、選んだ男が消えたというだけで、あの方が汚されたように扱われる」
「……」
「見る目がなかったと笑われ、もう子供だけ産んで責任果たせと言われるだろう」
「……」
「それだけの覚悟をしたうえで、あの方はあんたを選んだんだよ」
シンジの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
立場。心。身体。未来。
セレーナは、それらすべてをシンジへ捧げたと見られる覚悟をしていた。
口づけを交わすことも。
身体を重ねることも。
その先に子供が生まれることも。
初めから、すべてを受け入れる覚悟でシンジを選んだ。
先の見えない未来で、怖かっただろう。
自分の持っているすべてを失うことになるかもしれない。
それでも、彼女はシンジを選んだ。
「それを俺は……恋人になったばかりだと」
「そうだよ」
「まだ先のことは分からないと、セレーナの前で……」
「そうだ!」
シンジは両手で顔を覆った。
「大馬鹿だ……」
「ようやく分かったかい」
「はい」
しばらくして、シンジは顔を上げた。
「一つ、女将さんが知らないことがあります」
「何だい」
「俺には、元の世界に妻がいます」
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