第82話 帰ってきた宿場町
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
領都の門が遠ざかっていく。
幌馬車の隙間から外を眺めながら、シンジは小さく息を吐いた。
以前、この道を通った時とは、進む方向が逆だった。
あの時は、この世界の言葉も、文字も、常識も分からなかった。
どこへ連れていかれるのかも知らず、目の前で起きることへ必死についていくだけだった。
今は違う。
行き先を知っている。
ローデン卿から直接相談を受け、その話をするために向かっている。
胸元には、領都を出る前にハーヴェル商会から渡された、身分保証のプレートがある。
隣にはセレーナがいて、向かいにはルカがいる。
「どうしました?」
セレーナが尋ねた。
「同じ道なのに、前とは全然違って見えるなと思って」
「進む方向が反対だからでは?」
「間違ってないけど、そういう話じゃない」
「違いましたか」
「違います」
セレーナの口元が、わずかに緩む。
向かいに座っていたルカが、二人を見比べた。
「前は、シンジがずっと外を走ってたの」
「今回は、最初から座る場所がある。それだけでもありがたいよ」
シンジは座席へ深く腰を下ろした。
御者台から、バルトの声が飛んでくる。
「あの時だって、言えば乗せたぞ!」
「乗ったら小袋作りの邪魔になるし、馬車も重くなるでしょう!」
「シンジが自分で走るって言ったの」
「勝手に走り出したみたいに言うな。あれは合理的な判断だ」
「最後は、ふらふらだったけどな!」
バルトが笑う。
「合理性にも限界があることを、身をもって学びました」
「精も根も尽き果てていましたね」
セレーナが淡々と付け加えた。
「セレーナさん。そこは思い出さなくていいです」
「ですが、事実です」
「最近、事実という言葉を便利に使ってないか?」
「気のせいです」
ルカが声を上げて笑った。
あの時は、馬車の外をひたすら走っていた。
今は、馬車の中に自分の座る場所がある。
それだけでも、ずいぶん遠くまで来たような気がした。
◇
道中は驚くほど順調だった。
前を走る荷馬車には、アースとブラムがついている。
ミラはシンジたちが乗る荷馬車の後方を確認していた。
三人とも、屋敷の前で話していた時とは顔つきが違う。
すれ違う馬車。
街道脇の森。
遠くに見える丘。
絶えず周囲へ目を配り、馬車の周りを常に警戒している。
何度か馬を休ませながら街道を進み、やがて御者台からバルトの声が聞こえた。
「見えてきたぞ!」
シンジは幌の隙間から、前方をのぞいた。
二つの街道が交わる場所。
立ち並ぶ宿。
荷馬車が集まる広い馬車溜まり、人と馬と荷物が絶えず行き交う、町と見間違うほど大きな宿場。
ローデンだった。
「戻ってきた……」
思わず、声が漏れた。
初めて来た時には、ここがどれほど大きな場所なのかも分かっていなかった。
食事をして、商品を売って、湯場で盛大に詰んで、慌ただしいまま通り過ぎた場所。
今度は、ここを目的地として戻ってきた。
「少し、嬉しそうですね」
隣からセレーナが言った。
「知ってる場所があるって、結構うれしいもんだな」
自分の家でもない。
長く暮らしたわけでもない。
それでも、見覚えのある屋根や道、人の流れが、胸の奥を少しだけ軽くしてくれる。
「おかえり、という感じなの」
ルカが言った。
「そうだな」
シンジは小さく笑う。
「ただいま、でもいいかもしれない」
◇
馬車が宿の前へ入っていく。
すでに到着の知らせを受けていたのか、入口には大勢の従業員が集まっていた。
その先頭に立っている女性を見つけ、シンジは身を乗り出した。
「女将さん!」
マルタは腕を組んだまま、近づいてくる馬車を見ていた。
馬車が止まり、シンジが先に降りる。
マルタは、その顔をじっと見た。
「……あんた、誰だい?」
「やっぱり、そうなりますよね」
「その声……まさか、シンジかい?」
「はい。少し若返りました」
「少し?」
マルタはシンジの顔を上から下まで眺める。
「少しって言葉の意味から教え直した方がよさそうだね」
「俺も、そう思います」
「本当に、妙なことばかり起こす男だよ」
呆れた口調だったが、その目元は笑っていた。
「よく戻ってきたね、シンジ」
「はい。ただいま戻りました」
その言葉に、マルタはわずかに目を細めた。
続いてルカが降りる。
「女将さん!」
「ルカもよく来たね。少しは商人らしい顔になったじゃないか」
「本当?」
「少しだけだよ」
「少しなんだ……」
アース、ブラム、ミラも順に馬車の周囲へ集まる。
最後に、セレーナが幌馬車の出口へ姿を見せた。
シンジは自然に手を差し出した。
セレーナなら、一人で降りられる。
そんなことは分かっている。
それでもセレーナは、差し出された手を取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
セレーナが地面へ降りても、二人の手は離れなかった。
「セレーナ様も、よくお越しくださいました」
「お招きいただき、ありがとうございます。ローデン卿」
「ここでは女将で結構ですよ」
マルタはそう答えたあと、二人のつないだ手へ目を落とした。
「……シンジ」
「はい?」
「あんた、セレーナ様とそういう関係になったのかい?」
「そういう関係と言われると、照れますけど……」
シンジはセレーナと顔を見合わせた。
「お互い、一緒にいようって決めて。なんていうか……今に至る、みたいな感じです」
「そうかい」
マルタはセレーナへ向き直った。
「セレーナ様、おめでとうございます」
「い、いえ……ありがとうございます」
セレーナは頬を赤くしながら、わずかに頭を下げた。
「それで、いつご成婚に? 時期はもう決まったんですかい?」
「いやいや、待て待て」
シンジは慌てて口を挟んだ。
「この世界の人って、なんでそんなに俺とセレーナを結婚させたがるんですか?」
「じゃあ何かい?」
マルタの目が細くなる。
「あんた、結婚する気もないのに、セレーナ様の隣にいるのかい?」
「もちろん、そういう未来もあるとは思いますよ」
シンジは、つないだ手へ視線を落とした。
「でも、今は付き合い始めて間もないというか。こうして手をつなぎ始めたばかりというか……」
「つまり、先のことはまだ分からない。知らない。決めていないってことかい?」
「そうですね」
シンジは正直に頷いた。
「今は、こうして一緒にいる。そこからだと思っています」
「……あんた、本気で言ってるみたいだね」
「本気というか、それが俺の正直な気持ちです」
マルタは何も言わなくなった。
この世界の人は、どうしてこうもすぐに結婚へ話を進めたがるのか。
アリーシャといい、モリスといい。
互いの気持ちを確かめたばかりなのだから、もう少しゆっくり進んでもいいはずだ。
「この大馬鹿男!」
「はい!?」
マルタの怒声が、宿の前へ響き渡った。
「あんた、セレーナ様の前で、よくそんなことが言えるね!」
「女将!」
セレーナが一歩前へ出る。
「シンジを受け入れたのは私です。落ち着いてください」
「セレーナ様。少し、シンジをお借りしますよ」
「待ってください!」
セレーナはシンジの手を離さない。
「シンジは異邦人です。こちらの世界の都合を押しつけるつもりはありません」
「いいや」
マルタは首を横へ振った。
「知らないで済む話じゃありません」
「ですが」
「知らないままで、あとから後悔するくらいなら、ここで張り倒してでも教えた方がマシです」
「え?」
シンジは目を瞬いた。
「ちょっと待ってください。俺、張り倒されるんですか?」
「シンジ」
マルタが低い声で呼ぶ。
「今のような話を、ほかの誰かにもしてないだろうね?」
「えっと……モリスさんにも、似たような話はしたような」
「それで、何と言われた?」
「二人で、ちゃんと話すべきだと……」
「で、話したのかい?」
「いや、その時はセレーナから聞けるような雰囲気じゃなくて」
「話したのかと聞いているんだ!」
「い、いえ。話してません」
「歯ぁ、食いしばりな!」
「え?」
乾いた音が、宿の前へ響いた。
マルタの平手をまともに受け、シンジの体が横へよろめく。
「シンジ!」
セレーナが駆け寄ろうとする。
だが、マルタが片手を上げて制した。
「最初の一発だよ」
頬を押さえたシンジを、マルタがまっすぐ睨む。
「この先を知りたいなら、中へ入りな」
「……何を、ですか?」
「あんたが、セレーナ様に選ばれたことが、この世界で何を意味するのかだよ」
シンジは、何も答えられなかった。
叩かれた頬よりも、その言葉の方が、ずっと重く胸へ響いていた。
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