第8話 灰線の内側
お読みいただきありがとうございます。
真司の異世界実務サバイバル、続きです。
結局、村に着いても入ることが出来ない真司。
どこまでも、世知辛い異世界。
引き続きお付き合いくださいませ。
セレーナの一言で、止まっていた者たちが動き出した。
ただし、門はまだ開かない。
灰線も消えない。
先ほど灰線を引くために出された物資とは別に、
今度は処置のための戸板と厚手の布が用意された。
水袋、薬草らしき束、そして追加の灰の小袋も続く。
それらは門の下にある小さな受け口から、順に外へ押し出された。
直接手渡しではない。
誰も不用意に門の外へは出ない。
御者がそれらを受け取り、若い護衛が馬車の後ろへ運ぶ。
ルカは幌の内側から身を乗り出し、震える声でガレンの名を呼んでいた。
真司は、黒く染まった両手を身体から少し離して立っていた。
何もしない方がいい。
今のところ、それだけは分かる。
動けば警戒される。
触れば嫌がられる。
近づけば人が下がる。
自分が助けを求める側なのか、危険物として運ばれてきた側なのか、もう分からなくなっていた。
「……まあ、こんな手してりゃな」
真司は小さくつぶやいた。
【黒沼接触:継続観察】
【周囲反応:警戒】
【推奨:不用意な接近の回避】
「はいはい。大人しくしてますよ」
返したところで、女が真司を見た。
こちらの言葉は分からないらしい。
だが、真司が空中の何かに返事をしたことには気づいたようだった。
その視線は鋭い。
けれど、刺すようなものではなかった。
冷たい、とは違う。
濁りがない。
真司はなぜか、そんな印象を受けた。
◇
女は、門の内側で外套の裾を軽くまとめた。
腰元の小瓶を確認する。
革袋を開ける。
白い札の束を取り出す。
細い筆と、小さな銀粉の入った筒も取り出した。
村人の一人が慌てて何かを言う。
止めているのだと分かった。
女は相手を見た。
強くはない。
けれど、退く気のない目だった。
そして、自分の胸に手を当てる。
「セレーナ」
名乗ったのだと、真司は思った。
年配の男が深く息を吐き、門の脇にある小さな潜り戸へ手をかけた。
大きな門ではない。
人ひとりが通れるだけの、狭い戸だった。
潜り戸が開く。
セレーナは外へ出た。
出た瞬間、潜り戸はすぐに閉じられる。
村人たちは、門の内側に残ったままだ。
セレーナだけが、外にいる。
真司は思わず背筋を伸ばした。
この人は、今、自分から危険な側へ出てきた。
ただの親切心ではない。
覚悟だけでもない。
手順を知っている者の動きだった。
セレーナはまず、自分の足元に灰を少し撒いた。
靴の周りに、細い輪を作る。
さらに外套の裾にも、銀色の粉を軽く払う。
それから、馬車を囲う灰線の前で足を止めた。
線をそのまま踏み越えない。
持っていた小瓶を線へかざす。
中の青白い光が、かすかに揺れる。
セレーナは小さく頷き、灰線の一部に新しい灰を重ねた。
そこだけを短く切るように開き、自分が通れる分だけの口を作る。
線の中へ入る。
すぐに、背後の口へ灰を戻した。
開けたら閉じる。
まるで作業現場の安全柵だった。
真司は、その一連の動きを見て息を呑んだ。
この人は、感覚でやっていない。
決まった手順で危険区域へ入っている。
◇
ガレンを荷台から下ろす作業は、灰線の内側で行われた。
村人たちは門の内側から見守るだけだ。
手は出さない。
戸板の上に厚手の布を敷き、さらに乾いた布を重ねる。
若い護衛がガレンの肩を支え、御者が板の位置を合わせる。
ルカは震える手で布の端を押さえた。
セレーナは近づきすぎない距離から指示を出した。
真司は手を貸したくなった。
戸板に移す時は、人手が要る。
ガレンは大柄だ。
揺らせば足に響く。
けれど、真司の手には黒沼の染みが残っている。
いや、正確には、黒沼の何かを抱えているかもしれない。
近づけば、誰かが止めるだろう。
何より、真司自身が怖かった。
ガレンが戸板に移される。
呻き声が、灰線の内側に低く響いた。
戸板は、門の外側にある小さな屋根の下へ運ばれた。
雨除けか、荷受け用の場所かもしれない。
そこも灰で囲われた。
その中央に厚手の布が敷かれ、ガレンは横たえられた。
ここまで来ると、門の内側からもガレンの足が見えた。
裂けた布。
黒く浮いた筋。
皮膚の下を這うような、嫌な色。
村人たちが息を飲む。
その中の一人が、低い声で何かを言った。
言葉は分からない。
けれど、男はガレンの足を指した。
次に、自分の膝下を手で示す。
そして、手刀のように空を横へ払った。
真司の胃が冷たくなる。
「おい、まさか」
切る。
そういう意味に見えた。
ルカが鋭い声を上げた。
若い護衛も門へ向かって怒鳴る。
村人の男は、ガレンを憎んでいるわけではない。
怯えているのだ。
黒い筋が足から身体へ上がる前に、足を落とせばいい。
そう考えたのかもしれない。
乱暴だ。
だが、この世界の人間にとっては、それが生き残るための選択肢として存在しているのだろう。
男の視線が、真司へ向いた。
正確には、真司の両手へ。
黒く染まった指先。
さきほど小瓶に微かに反応した手。
男は今度、自分の手首を横に払うような仕草をした。
真司の背筋が冷えた。
「……俺もかよ」
その瞬間、初めてはっきり分かった。
彼らにとって危険なのは、ガレンだけではない。
黒沼に触れた自分も、同じ線の内側にいる。
ガレンの足。
真司の手。
どちらも、村へ入れていいものではない。
「冗談じゃないぞ。
異世界初日で両手なくなるイベントとか、ヘルモード過ぎるだろ」
真司は一歩、前へ出かけた。
だが、黒沼の染みがついた自分の手を見て止まる。
今、自分が動けば混乱を増やすだけだ。
その時、セレーナが動いた。
速くはない。
けれど、迷いがなかった。
セレーナは門の方へ顔を向け、短く何かを告げた。
大声ではない。
怒鳴りもしない。
ただ、短く、はっきりと。
刃物を示していた村人が口を閉じた。
セレーナは首を横に振る。
そして、ガレンの足を指した。
次に真司の両手を指した。
最後に、自分の持つ白い札を示す。
切らない。
封じる。
言葉は分からない。
それでも、真司にはそう見えた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
真司の異世界生活は、まだまだ手探りです。
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