第9話 封止の白札
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真司の異世界実務サバイバル、引き続きお楽しみください。
その瞬間、真司の視界の左隅にボードが浮かんだ。
【損害予見:急上昇】
【処置順序:不適合】
【警告:封止前切除】
【補足:ここで切れば、助ける形をした失敗になります】
「……だよな」
真司は小さく息を吐いた。
切れば助かる。
そう単純な話ではない。
あの黒い筋が、ただ皮膚の上を這っているだけならともかく、皮膚の下へ入り込むように広がっている。
切った瞬間に何が起きるか分からない。
血と一緒に散るのか。
傷口を増やすだけなのか。
黒沼がさらに奥へ入り込むのか。
分からない。
分からない以上、乱暴な一手は怖すぎる。
◇
セレーナは腰元の小瓶をひとつ手に取った。
瓶の中には、青白い光が揺れている。
彼女がそれをガレンの足へ向けると、瓶の中の光が細く伸びたように見えた。
黒い筋が、皮膚の下から浮かび上がる。
真司は息を止めた。
見間違いではない。
皮膚の下へ入り込んだ黒が、瓶の光に反応している。
セレーナの表情が変わる。
ほんの少しだけ。
眉が動き、唇が固く結ばれた。
重い。
たぶん、そういう反応だった。
セレーナは小瓶を三つ、戸板のそばに並べた。
青白い光。
薄い水色の光。
それから、ほとんど透明に近い光。
瓶の蓋を順に開けると、光は煙のように細く立ち上がる。
セレーナは細い筆を取り、銀色の粉を筆先に含ませた。
ガレンの足へ直接触れないよう、傷口から少し離れた皮膚の周囲に、小さな文字のような線を描いていく。
いや、文字なのか模様なのかも分からない。
だが、線がつながるたびに、黒い筋の動きが鈍くなった。
黒い筋は消えない。
戻りもしない。
ただ、広がる速度が落ちたように見えた。
ガレンの呼吸が、少しだけ深くなる。
ルカが両手を握りしめた。
セレーナの額にも、うっすら汗がにじんでいた。
涼しい顔でやっているわけではない。
失敗すれば、まずい。
そう分かっている顔だった。
【対象:ガレン】
【黒沼反応:進行中】
【処置:封止】
【効果:進行遅延】
【完治判定:不可】
「遅らせただけか」
真司の声は、誰にも届かないくらい小さかった。
完治ではない。
救命でもない。
時間を稼いだだけ。
だが、その時間がなければ、ガレンはここで終わっていたのかもしれない。
セレーナは筆を止めた。
次に、腰の小さな革袋から細い紐を取り出す。
その紐には、小さな白い札のようなものが結ばれていた。
セレーナは白い札を、ガレンの足首から少し上の位置へ置く。
直接、黒い筋には触れない。
札に描かれた線が淡く光った。
ガレンの足の周囲に、薄い輪が生まれる。
黒い筋が、その輪へ向かってじわりと伸びる。
ルカが息を呑んだ。
若い護衛が拳を握る。
真司も、知らないうちに奥歯を噛んでいた。
黒い筋は輪に触れる寸前で止まった。
止まった、ように見えた。
セレーナはそれを確認し、短く息を吐いた。
だが、そこで終わらなかった。
セレーナは灰と白い粉を混ぜたものを取り出し、黒い筋の周囲と札の外側へ薄く重ねていく。
粉は皮膚に触れると、乾いた膜のように固まった。
白い膜が、ガレンの足の一部を覆っていく。
包帯ではない。
薬でもない。
封じている。
真司には、そう見えた。
【対象:ガレン】
【追加処置:残滓漏出抑制】
【効果:周辺汚染の低減】
【移動判定:条件付き可】
「条件付き可……」
真司は、その表示を見てようやく理解した。
ガレンを運べるようになったのだ。
治ったからではない。
安全になったからでもない。
進行を遅らせ、さらに黒沼の何かが外へ漏れないように封じたからだ。
これで初めて、灰線の外へ出せる。
リーヴェの門が開かなかった理由も、領都へ向かう前にここで処置が必要だった理由も、少しだけ見えてきた。
何かを撒き散らしながら旅をするわけにはいかない。
そんなことをすれば、行商人でも旅人でもない。
黒沼を呼び歩く、災厄そのものだ。
◇
ルカが、震える声で何かを言った。
感謝か。
問いか。
懇願か。
セレーナは短く答える。
そして、首を横に振った。
ルカの表情が沈む。
真司にも分かった。
ここでは終わらない。
リーヴェでできることには限界がある。
ガレンは助かったのではない。
領都まで持たせる状態にされたのだ。
それでも、ルカは戸板のそばで深く頭を下げた。
若い護衛も、歯を食いしばったまま頭を下げる。
御者も同じように身を低くした。
セレーナは、それを当然のようには受け取らなかった。
ただ、短く頷いた。
必要なことをした。
その表情は、そう言っているようだった。
次に、セレーナは真司を見た。
真司は嫌な予感がした。
「……次、俺か」
通じるはずもない言葉に、セレーナは反応しない。
ただ、真司の黒く染まった両手を指した。
次に、灰線の内側を指す。
さらに、外側を指す。
最後に、首を横に振った。
このままでは出られない。
意味は、嫌というほど分かった。
真司は両手を見た。
黒い染みは、指の皺に残っている。
痛みはない。
だが、冷たさだけがしつこく残っていた。
ガレンほど悪くはない。
だが、無害ではない。
【対象:堺井真司】
【黒沼反応:微弱】
【侵食兆候:確認不能】
【残滓漏出:微量】
【推奨:封止処置】
「俺、漏らしてるのか?微量って、ちょこっと漏れてる……くっ」
真司は顔をしかめた。
漏れている。
それは非常に嫌な言葉だった。
しかも自分から。
俺は愚痴と微笑み以外、漏らした覚えはない!
……たぶん。
いや、今はそういう話ではない。
セレーナが、真司の前へ来る。
ただし、すぐそばには立たなかった。
小さな板を地面に置き、その上へ両手を出すよう仕草で示す。
真司は従った。
黒く染まった両手を、板の上へ置く。
セレーナは小瓶をかざした。
薄い水色の光が揺れる。
ガレンほどではない。
けれど、瓶の中に細い黒が走った。
セレーナの目がわずかに細くなる。
驚き。
疑問。
そして、記録する目。
真司は、だんだんその目に慣れてきた。
慣れたくはないが。
セレーナは、白い粉を取り出した。
そこへ銀色の粉を少し混ぜる。
さらに、瓶の中の光を一滴落とす。
粉は、濡れた石膏のように柔らかくなった。
セレーナは筆でそれをすくい、真司の手の甲、指の間、手首の近くへ薄く塗っていく。
冷たい。
だが、黒沼の冷たさとは違う。
熱を奪われる冷たさではなく、火照りを押さえられるような冷たさだった。
白い粉はすぐに乾き、薄い膜になる。
その上から、細い布が巻かれた。
布にも同じ白い粉が染み込ませてあるようだった。
右手。
左手。
指はほとんど動かせない。
最後に手首のあたりを結ばれると、真司の両手は完全に布で包まれた。
手袋、というには雑だった。
治療、というには動かしにくすぎた。
だが、何かを封じているのだということだけは分かった。
【処置:両手封止】
【効果:残滓漏出抑制】
【移動判定:条件付き可】
「俺の手、完全に危険物梱包じゃねえか」
真司がぼやくと、セレーナが少しだけ首を傾げた。
たぶん、意味は分からない。
だが、真司の表情から不満だけは読み取ったのだろう。
セレーナは真司の包まれた両手を指した。
次に灰線の外を指す。
そして小さく頷いた。
これで外へ出られる。
そういう意味だと分かった。
真司は口を閉じた。
文句はある。
山ほどある。
だが、この処置がなければ、自分は灰線の中から出られない。
村にも入れない。
宿場町にも行けない。
領都にも向かえない。
布で包まれた手は、自由を奪う拘束具であり、同時に外へ出るための許可証だった。
◇
セレーナは、ガレンと真司の処置を終えると、すぐに書き板を取った。
細い筆が走るたびに光の粒子が舞う。
真司には文字は読めない。
だが、名前らしきものや、繰り返し出ている記号は何となく分かる。
彼女は治療師というより、淡々と部下に指示をする管理職みたいだった。
いや、自ら治療もする。
魔法らしきものを使って処置もする。
そして周りの人々へ指示もして、判断もする。
益々わからなくなった。
特に気になるのは、行動後、何かを書き記していることに、どんな意味があるのか。
真司があれこれ考え込んでいると、ボードが左端に現れた。
【対象:セレーナ】
【行動傾向:検分/処置/封止/記録/指示】
【推定職名:周辺情報より巡回書記官】
【詳細:情報不足】
「巡回書記官?」
周辺情報とは、おそらく周りがそう言っていたのか、それに付随することを言っていたのだろう。
真司はその文字を読んで、眉を寄せた。
書記官。
魔法使いでも、聖女でも、治療師でもない。
少なくとも、ボードはそう見ている。
ここで聖女ですって告げられた方が、
「この世界の聖女様は、文学タイプなんだな」
と、納得したんだが、書記官とは?
謎が謎を呼ぶとはこのことか。
セレーナは書き板から顔を上げた。
ガレンを見る。
ルカを見る。
若い護衛を見る。
御者を見る。
門の内側の村人たちを見る。
そして最後に、真司を見る。
黒沼に触れたのに、まだ立っている男を。
両手を布で包まれ、情けなく腕を浮かせている男を。
真司は視線に耐えきれず、自分の両手を少し下げた。
助かったわけではない。
疑われなくなったわけでもない。
この村に歓迎されたわけでもない。
ただ、ひとつだけ分かった。
この女性は、ここにいる全員を守った。
門を開けずに村を守り。
ガレンを見捨てず。
真司を危険物のまま放置せず。
灰線の内側にあった問題を、外へ運べる形へ変えた。
そして今、そのすべてを記録している。
「……書記官って、そういう仕事だったか?」
答える者はいなかった。
セレーナの筆だけが、淡い光を受けて静かに動いていた。
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