第79話 その手を取ったまま
朝食を終えたシンジとセレーナは、ハーヴェル商会へ向かうため屋敷を出た。
今日は街並みを見ながら行きたいとシンジの希望で、
馬車ではなく歩いて行くことになった。
玄関先では、エドガーたちが並んで見送っている。
「それでは、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様。シンジ様」
エドガーが深く頭を下げる。
その隣では、マーサが穏やかに微笑んでいた。
「お気をつけて行ってきてください」
「ありがとうございます」
ミアとノーラは、朝からそわそわと落ち着かない様子で二人を見ている。
視線は、はっきりとシンジとセレーナへ向けられていた。
「……行きましょう、シンジ」
「ああ」
セレーナが一歩踏み出す。
その瞬間、シンジは自然に手を差し出した。
セレーナは一瞬だけ目を見開き、それから静かにその手を取る。
指が絡み、しっかりと結ばれる。
「きゃっ……!」
「まあっ!」
ミアとノーラが同時に声を上げた。
「お嬢様……!」
「ついに……!」
「ミア、ノーラ!」
セレーナが慌てて声を上げようとする。
だが、その前に、
「お嬢様」
エドガーの落ち着いた声が割って入った。
「お見送りの場でございます」
「……」
「どうか、そのままで」
穏やかながらも、はっきりとした制止だった。
マーサも柔らかく続ける。
「とてもお似合いですよ」
「……っ」
セレーナの頬が赤く染まる。
言い返す言葉を失い、結局そのまま手を離さなかった。
ミアとノーラは、口元を押さえながらも嬉しそうに見守っている。
エドガーは静かに目を細め、マーサは優しく微笑んでいた。
「……行ってきます」
セレーナは小さく言った。
「行ってらっしゃいませ」
四人の声が重なる。
シンジとセレーナは、そのまま手をつないだまま門を出た。
背後からは、温かな視線がいつまでも続いていた。
◇
領都の大通りは、朝から多くの人で賑わっていた。
道を行き交う町の人たち。
店先へ品物を並べる店主。
支所や役所へ向かう職員。
いつもなら、セレーナの姿を見つけた人々が道を空け、敬意を込めて頭を下げる。
今日も、最初はそうだった。
「おはようございます、セレーナ様」
「おはようございます」
セレーナがいつものように挨拶を返す。
挨拶をした商人の視線が、ゆっくりと下へ移動した。
シンジとセレーナのつないだ手で止まる。
「……」
商人は口を開いたまま固まった。
その横を通り過ぎた若い書記官も、セレーナへ頭を下げようとして動きを止めた。
「セ、セレーナ様……?」
「おはようございます」
「お、おはようございます」
若い書記官の顔から血の気が引いていく。
その隣にいた同僚が、倒れそうになった肩を慌てて支えた。
「しっかりしろ!」
「いや、だって、手が……」
「見るな!」
「見えるだろ!」
背後で小さな騒ぎが起きる。
道の反対側では、果物を並べていた女性が隣の店主の腕を叩いていた。
「ちょっと、見て!」
「何だよ」
「セレーナ様が男の人と手をつないでる!」
「まさか」
「本当だって!」
声は次々と広がった。
振り返る人。
二度見する人。
立ち止まる人。
こちらを見たあと、近くの者へ耳打ちする人。
シンジとセレーナが数歩進むたび、背後のざわめきが大きくなっていく。
「セレーナ」
「はい」
「思っていたより、大事になってないか?」
「……少し、予想以上ですね」
「少し?」
「かなり、予想以上です」
セレーナの頬は赤い。
だが、その歩調は緩まなかった。
手も離さない。
「本当に、このままでいいのか?」
「はい」
セレーナはまっすぐ前を見た。
「隠すことではありませんから」
その声には迷いがなかった。
シンジはつないだ手へ、少しだけ力を込めた。
「そうだな」
セレーナも握り返す。
その瞬間、道端から小さな悲鳴が上がった。
「握り返した!」
「見れば分かる!」
「相手は誰だ?」
「屋敷に滞在している異邦人らしいぞ」
「異邦人!?」
噂が、二人の歩く速度を追い越していく。
ハーヴェル商会が見えてきた頃には、店先にいた商会員たちが、すでにこちらを待ち構えるように並んでいた。
「来たぞ」
「本当に手をつないでる」
「静かにしろ。聞こえるぞ」
「もう聞こえてますよ」
シンジが声をかけると、商会員たちは一斉に仕事へ戻るふりをした。
誰一人として、手元を見ていなかった。
「すごいな、セレーナ」
「何がですか?」
「手をつないで歩くだけで、領都全体が止まりそうだ」
「私も、ここまでとは思いませんでした」
「やめる?」
「やめません」
即答だった。
シンジの心臓が大きく鳴る。
セレーナは耳まで赤くしながら、それでも堂々と商会の扉をくぐった。
◇
「シンジ!」
店の奥から、ルカが駆けてきた。
「待ってたの! モリスさんが、ローデンから正式な返事が来たって――」
途中で声が止まった。
ルカの視線が、シンジの顔を見る。
次にセレーナを見る。
そして、二人のつないだ手へ落ちた。
「……何してるの?」
「見てのとおりだよ」
「見れば分かるの! そうじゃなくて、どうして手をつないでるの?」
ルカは二人の顔を何度も見比べる。
シンジはセレーナを見た。
セレーナもシンジを見返す。
先に口を開いたのは、セレーナだった。
「昨日、いろいろありまして」
「いろいろ?」
「はい」
セレーナは、つないだ手へ静かに視線を落とした。
「私は、シンジを受け入れました」
その指が、シンジの手を少し強く握る。
「そして、これからもシンジのそばにいると決めました」
「……受け入れた?」
ルカは意味を確かめるように繰り返した。
「それって、どういうことなの?」
「つまりだな……」
シンジは頬を掻いた。
言葉にしようとすると、急に恥ずかしくなってくる。
「俺たちは、その……こ、恋人になったんだ」
「……恋人?」
「ああ」
ルカは、しばらく二人を見つめた。
驚いている。
だが、それだけではないようだった。
「そう、なんだ……」
いつものルカより、少しだけ弱い声だった。
「ルカ?」
「なんか……」
ルカは視線を落とした。
「シンジが、もっと遠くへ行っちゃった気がするの」
「遠くへ?」
「自分でも、よく分からないの。セレーナさんなら嫌じゃないし、二人が仲良くなるのも、悪いことじゃないって思うけど……」
ルカは、うまく言葉にならない気持ちを探すように、何度か口を動かした。
「でも、なんか、ちょっと複雑なの」
セレーナが、ふっと小さく笑った。
「何がおかしいの?」
「以前、ルカが言ったことを思い出しただけです」
「私が?」
「お父さん、返して、と」
「わ、笑い事じゃないの!」
ルカが頬を膨らませる。
セレーナは笑みを残したまま、穏やかに答えた。
「安心してください。ルカのお父さんを取ったわけではありません」
「お父さんじゃないの!」
ルカはシンジを見る。
「でも、本当に今までと変わらないの?」
「ああ」
シンジは迷わず頷いた。
「俺とルカの関係は、今までと何も変わらないよ」
「本当に?」
「もちろんだ。これからも仲良くしてほしい」
シンジはルカの頭へ、つないでいない方の手を置いた。
「お父さんは、ルカの花嫁姿を見るまでは――」
言いかけて、シンジは固まった。
「……まるっきりお父さんじゃねえか!」
一瞬の沈黙。
ルカが堪えきれずに吹き出した。
「ぷっ……あははっ!」
「いつの間にかお父さんの気持ちになってた……ルカ、恐ろしい子!」
「本当にお父さんになったみたいなの!」
先ほどまで曇っていたルカの表情が、ようやく明るくなる。
「じゃあ、セレーナさんはお母さんって呼べばいいのかな?」
「お、お母さん!?」
今度はセレーナが固まった。
顔が見る間に赤くなっていく。
「お母さんは、その……まだ早いので、少し待って、というか……今までどおりでお願いします」
「まだ早いんだ?」
「待てばいい問題か!?」
「ルカ! シンジ!」
ルカは楽しそうに笑った。
セレーナは真っ赤な顔で言い返そうとしている。
だが、シンジとつないだ手だけは離さなかった。




