第78話 そばから離れません
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
翌朝。
シンジが食堂へ入ると、すでにセレーナが席に着いていた。
「おはよう、セレーナ」
「おはようございます、シンジ」
目が合う。昨夜なら、どちらからともなく目を逸らしていたかもしれない。
だが、今朝のセレーナは違った。
頬を少し赤くしながらも、シンジをまっすぐ見ている。シンジも逃げなかった。
「よく眠れた?」
「……あまり」
「俺も」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。昨夜のことを思い出す。
重ねた手。
互いに伝えた言葉。
近づいた顔。
そして、廊下から聞こえた、お湯二人分。
「……」
「……」
さすがに最後まで思い出すと、二人とも同時に目を逸らした。
「おはようございます」
背後から聞こえた声に、シンジの肩が跳ねた。振り返ると、エドガーが立っていた。
「お、おはようございます」
「昨夜は、よくお休みになれましたでしょうか」
「その質問、今日だけ意味が違って聞こえるんですけど」
「気のせいでございましょう」
エドガーはいつもどおりの表情で、朝食を並べていく。
その後ろでは、ミアとノーラが果物や茶器を運んでいた。
二人とも、妙に機嫌がいい。いや、機嫌がいいというより、うっとりしている。
「ミア」
「はい、お嬢様」
「ノーラ」
「はい!」
「なぜ、二人ともこちらを見て笑っているのですか?」
「笑っておりません」
「笑ってないです!」
「では、その顔は何ですか」
「朝ですので」
「とても良い朝だなと思いまして」
「説明になっていません!」
ミアとノーラは口元を引き締めた。だが、目が笑っている。
「エドガー」
「はい」
「二人には、昨夜のことを口外しないように伝えたのでしょうね?」
「もちろんでございます」
「本当に?」
「根拠のない噂を広めてはならないと、厳しく申し聞かせました」
「そうです。それでいいのです」
「今後は、確認の取れた事実のみを扱うようにと」
「扱わなくていいのです!」
シンジは思わず吹き出した。
「笑い事ではありません!」
「悪い。でも、エドガーさん、強いな」
「恐れ入ります」
「褒めていません!」
朝食が並び終わる。いつもより少し豪華だった。
パンと卵、焼いた肉、野菜、果物。量も多い。
「エドガーさん」
「はい」
「今日、ずいぶん多くないですか?」
「本日は、少し多めにご用意いたしました」
厨房の方から声がした。
振り向くと、最後の皿を手にしたマーサが立っている。
「マーサさん」
「お二人とも、昨日はずいぶんお疲れになったようですから」
「マーサ!」
セレーナがすぐに反応した。
「はい、お嬢様」
「その言い方には、別の意味が含まれていませんか?」
「いいえ。私はただ、お疲れのお二人に、しっかり召し上がっていただきたいだけです」
マーサは穏やかに答えた。マーサは、焼いた肉の皿をシンジの前へ置いた。
「どうぞ、残さず召し上がってください」
「ありがとうございます」
「シンジさん」
「はい」
マーサは一度、セレーナへ目を向けた。
「お嬢様のことを、よろしくお願いしますね」
「マーサ!」
マーサは何事もなかったように一礼した。
「では、ごゆっくりお召し上がりください」
そう言って厨房へ戻っていく。
エドガーは、やり取りが落ち着くのを待ってから、一通の封書を差し出した。
「先ほど、ハーヴェル商会から使いの者が参りました」
封には、見覚えのある商会印が押されている。
シンジが開くと、中にはモリスからの簡潔な連絡が入っていた。
ローデンへ向かう準備が整ったこと。
ルカが集めていた利用客や旅人の情報が、ひとまずまとまったこと。
商会として正式に、マルタ・ローデン卿の依頼を受けること。
そして、出発日について相談したいこと。
「いよいよか」
シンジは手紙を読み終えた。
「マルタ卿の依頼を受けて、ローデンへ向かうことになりそうだ」
「はい」
セレーナは落ち着いて頷いた。
「今回は、前より長く滞在するかもしれない」
「その可能性は高いでしょうね」
「相談内容も、まだはっきりしてない。女将さんの勘で呼ばれただけだからな」
「マルタ卿が、理由もなく人を名指しすることはありません」
「セレーナもそう思う?」
「ええ」
シンジは手紙を畳んだ。
「まずは商会へ行って、モリスさんたちと話してくるよ」
「分かりました。私も支度をします」
「何の?」
「ローデンへ行く支度です」
シンジは瞬きをした。
「セレーナも行くのか?」
「はい」
迷いのない即答だった。
「でも、今回はハーヴェル商会の仕事だぞ」
「知っています」
「セレーナが巡回書記官として同行する必要は……」
「シンジ」
セレーナが言葉を遮った。
「私は、職務だから同行するのではありません」
シンジは黙った。
ミアとノーラの手も止まる。
マーサは驚いた表情で見守っている。
エドガーだけが、静かに茶を注ぎ続けている。
「私は、シンジと一緒にいたいから行くのです」
セレーナは頬を赤くしながらも、目を逸らさなかった。
「昨日、そう決めました」
「セレーナ……」
「もちろん、巡回書記官として必要な記録や確認は行います。でも、それを同行する理由にするつもりはありません」
セレーナは一度息を整えた。
「私は、私の意思で、シンジのそばにいます」
ノーラが胸の前で両手を組んだ。
ミアも、何か尊いものを見るような顔をしている。
シンジの心臓が、朝から全力疾走を始めた。
「いや、その……嬉しいけど」
「はい」
「巡回書記官として、大丈夫なのか?」
「問題ありません」
「本当に?」
「制度上も、権利の上でも、何も問題のない行動です。安心してください」
セレーナは堂々と答えた。
「巡回書記官の婚姻も、交友も、本人の意思が尊重されます。誰かに相手を決められることもありませんし、わ、私が選んだ相手との関係を禁じられることもありません」
「つまり……」
シンジは言いにくそうに口を開いた。
「巡回書記官に、こ、恋人ができると、そういう同行も許されるんだな」
「は、はい」
セレーナの堂々とした表情が、一瞬で崩れた。
「そのあたりは、昨日、アリーシャが言っていたことを思い出していただければ……」
二人の脳裏に、昨日の言葉が蘇る。
『身分がないなら、セレーナと結婚すればいいじゃない』
『巡回書記官の相手としては、下手な貴族よりよほど安全だわ』
『だから国も機関も教会も、その血筋が絶えないよう、特権と保護を与えているのよ』
『幸せになりなさい。私の願いは……それだけよ』
「……」
「……」
二人の顔が、同時に赤くなった。
ミアとノーラが、さらにうっとりした顔になる。
エドガーは穏やかな眼差しで、二人を見守っている。
「と、とにかく!」
セレーナは椅子から立ち上がった。
「私は、シンジのそばから離れませんから!」
食堂に声が響いた。
ミアが小さく息を呑む。
ノーラは今にも拍手しそうになり、隣のミアに腕を押さえられた。
マーサとエドガーは満足そうに頷いた。
シンジは額を押さえた。
「セレーナさん」
「な、何ですか!」
「もう少し、周りを見て発言してください……」
セレーナがゆっくりと周囲を見回す。
ミア、ノーラ、マーサ、エドガー、四人とも、温かい眼差しをこちらへ向けていた。
「……」
セレーナの顔が、耳まで真っ赤になる。
「皆、仕事へ戻りなさい!」
「「はい、お嬢様」」
「はい」
「承知いたしました」
四人は素直に返事をした。
だが、その場を離れる足取りは、妙にゆっくりだった。
「早く行ってください!」
四人が食堂を出る。扉が閉まった。
セレーナは、そのまま椅子へ崩れ落ちるように座った。
「……消えてしまいたいです」
「そこまで言わなくても」
「シンジのせいです」
「俺、何もしてないぞ」
「恋人などと言うからです!」
「だって、間違ってないだろ?」
「間違ってはいませんが!」
セレーナは言葉を止めた。
間違っていない。
自分でそう認めてしまったことに気づいたらしい。
シンジは少し笑った。
「俺は嬉しかったよ」
「何がですか」
「一緒にいたいから行くって言ってくれたこと」
セレーナは俯いた。
「昨日、自分の気持ちをなかったことにしないと決めました」
「ああ」
「ですから、もう職務を理由に隠すつもりはありません」
セレーナは少しだけ顔を上げる。
「シンジが行くなら、私も行きます」
「うん」
「他領でも、他国でも」
「ずいぶん先まで決めてるな」
「嫌ですか?」
「まさか」
シンジは首を横へ振った。
「セレーナにそばにいてほしいって言ったのは俺だからな」
「はい」
「ただ、屋敷やエドガーさんたちは?」
「ここは、帰ってくる場所です。シンジと一緒に」
セレーナは迷わず答えた。
「旅へ出ることと、帰る場所を失うことは同じではありません」
シンジは食堂の扉を見る。
その向こうでは、エドガーたちが働いている。
自分にとって、この屋敷は借り物の寝床だったはずだ。
それがいつの間にか、帰ってくる場所になり始めている。
「そうだな」
シンジはモリスからの手紙を手に取った。
「帰ってくればいいんだ」
「はい」
セレーナが柔らかく笑う。
「では、商会へ行きましょう」
「朝食を食べてからな」
「もちろんです」
二人は食事へ戻った。だが、少しすると、扉の隙間から視線を感じた。
ミアとノーラが、顔を半分だけ出してこちらを見ている。
その後ろには、マーサとエドガーまでいた。
「……見えてますよ」
四つの顔が、さっと引っ込んだ。シンジはため息をついた。
「完全に見守られてるな」
「あとで、もう一度きちんと話をします」
「やめた方がいいと思う」
「なぜですか」
「話せば話すほど、喜ばせるだけだから」
セレーナは否定しようとした。
だが、扉の向こうから小さな歓声が聞こえ、口を閉じた。
「……そのようですね」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
ローデンへ向かう。
商会の依頼を受けるために、マルタ卿の相談に応えるために。
そして何より、二人で一緒に行くために。
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