第76話 つかんだ手
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
アリーシャの馬車を見送ったあと、シンジとセレーナは客間へ戻った。
先ほどまで三人で座っていた部屋は、嵐が通り過ぎたあとのように静まり返っている。
壊れた家具はない。割れた茶器もない。
それなのに、二人の心を隔てていた壁だけが、跡形もなく吹き飛ばされていた。
ほどなくして、エドガーが新しい茶を運んできた。
「お疲れさまでございました。どうぞ、お召し上がりください」
「ありがとうございます」
シンジが礼を言う。エドガーは二人の前へ茶器を並べると、深々と頭を下げた。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
「ちょ、ちょっと待ってください」
セレーナが呼び止める。
「なぜ、エドガーが部屋から出ていくのですか?」
「まだ仕事が残っておりますので、少し席を外させていただきます」
「仕事って、何の仕事ですか?」
「いろいろでございます」
「いろいろとは?」
「いろいろは、いろいろでございます」
エドガーの表情は、いつもと変わらない。
だが、何が何でもこの部屋から出ていこうという強い意志だけは伝わってきた。
「えっと……うん。エドガーさん、ありがとうございます」
「シンジ!?」
「いえ。お嬢様のこと、よろしくお願いいたします」
セレーナの顔が、見る間に赤くなった。
「エドガー!」
「では、失礼いたします」
エドガーはもう一度深く頭を下げ、静かに扉を閉めた。
客間に残されたのは、シンジとセレーナだけだった。
「……行ってしまいました」
「ああ」
「なぜ、止めなかったのですか?」
「いや、エドガーさんにも仕事があるみたいだし」
「いろいろと言っていただけでしょう!」
「いろいろあるんだろ。きっと」
「絶対にありません!」
セレーナの声が客間へ響く。
その声が消えると、再び静けさが戻ってきた。
二人は先ほどの位置に並んで座っている。
今までなら、気まずい沈黙ではなかった。
話すことがなくても、互いがそこにいるだけで落ち着けた。
だが、今は違う。相手が自分をどう思っているのか。
自分が相手をどう思っているのか。知ってしまった。
アリーシャの暴風雨は、余計な迷いも、言い訳も、見ないふりも、すべて吹き飛ばしていった。
「と、とりあえず」
シンジはテーブルの上へ目を向けた。
「エドガーさんが淹れてくれた茶を飲もうか」
「はい」
シンジが茶器へ手を伸ばす。
その手の上へ、何かが触れた。
柔らかく、白い手。セレーナの手だった。
ためらいながら、遠慮がちに、シンジの手へ重ねられている。
「セレーナ?」
「アリーシャの言いなりになるのは、癪ですが……」
セレーナは俯いたまま、重ねた手へ少しだけ力を込めた。
「つかんでみました」
「え?」
「自分の意志で、つかみたいと思った手を」
セレーナの声は小さい。
けれど、はっきりと聞こえた。
いつものシンジなら、ここで軽口を言っていたかもしれない。
何か別の話へ逸らしたかもしれない。
妻がいる。帰る場所がある。
自分は異邦人で、いついなくなるか分からない。
そんな自分が、セレーナの手を握っていいのか。
いつものように考え始めれば、いくらでも逃げる理由は見つかった。
だが、もう分からないふりはしたくなかった。
シンジは空いている左手を持ち上げ、セレーナの手の上へ、そっと重ねた。
「俺も、アリーシャ夫人の言いなりになるのは悔しいけど」
手が重なった瞬間、セレーナが顔を上げる。
「この手を離さないように、努力するよ」
「……はい」
セレーナの手を、シンジの両手が包んでいた。
互いに相手の顔を見つめる。何か言わなければならない。
だが、何を言えばいいのか分からない。
急に、どうしようもなく恥ずかしくなってきた。
「えっと……」
「はい」
「とりあえず、今日は疲れたな」
「は、はい。とても疲れました」
「アリーシャ夫人、すごかったな」
「すごいという言葉だけでは足りません」
「俺、一日で結婚式直前まで運ばれたの初めてだよ」
「私もです!」
「でも、セレーナの白いベール姿、絵になっていた」
「シンジ!」
二人とも、また黙った。
アリーシャに言われた言葉が、次々と浮かんでは消えていく。
結婚。家族。子供。
一緒に生きた証。死ぬまで大切にしなさい。
絶対に幸せにしなさい。
この手を取りなさい。
重ねた手の温度を意識した途端、今の状況が急に恥ずかしくなった。
「と、とりあえず」
シンジはわずかに手を緩めた。
「この手、いったん離そうか?」
「……離すのですか?」
セレーナがシンジを見上げる。どこか寂しそうな目だった。
「い、いや。離さなくてもいいんだけど」
「では、どうして?」
「これから、どうしようかなと思って」
「もう少し、このままでもいいのですが……」
セレーナは、重なった手へ視線を落とした。
「でも、お茶が冷めてしまいますね。いったん、離しましょうか」
「そ、そうだな」
シンジは名残惜しさを誤魔化すように頷いた。
「いつでも、手はつなげるんだから」
セレーナの指がわずかに動く。
「……また、つないでくれますか?」
「もちろん。セレーナさえ嫌じゃなければ」
「嫌じゃ……ないです」
なんだ、この可愛いセレーナは!と、シンジは心の中で叫んだ。
アリーシャ旋風で、いろいろなものが吹き飛ばされた。
そして嵐のあとに残ったのが、この素直で可愛いセレーナなのか。
二人は、ゆっくりと手を離した。
同時に、ふう、と息を吐く。
目が合い、どちらからともなく笑った。
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