第74話 なら、結婚すればいいじゃない
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
「選ぶも何も、まだ……」
「ほら、また『まだ』と言ったわ」
アリーシャは指を立てた。
「分からない。決められない。まだ早い。あなたたちは、そればかり」
「慎重に考えるのは悪いことではないでしょう」
「ええ。悪くないわ」
意外にも、アリーシャはあっさり認めた。
「でも、慎重という言葉を使って、気持ちから逃げ続けるのは違う」
客間が静かになった。シンジは膝の上で手を組んだ。
セレーナも俯いている。
アリーシャは、まずシンジを見た。
「あなたは、セレーナを大切に思っている」
次に、セレーナを見る。
「あなたは、シンジを異性として意識している」
「そこまで言っていません!」
「否定する?」
「それは……」
「しないのね」
アリーシャは一つうなずいた。
「なら、話は早いわ」
「ちょ、ちょっと、待ってください!」
シンジは身を乗り出した。
「俺はこの世界では仮の身分なんですよ。得体の知れない異邦人相手に何を……」
「身分がないなら、セレーナと結婚すればいいじゃない」
客間が静まり返った。あまりにも迷いのない一言だった。
「恋愛版マリー・アントワネットか!」
「誰、それ?」
「説明すると長くなる人です!」
アリーシャは構わず続けた。
「セレーナには家名と、国から認められた立場がある。夫になれば、あなたも、どこの誰とも分からない異邦人ではなくなるわ」
「結婚を身分証明に使うな!」
「結婚には、相手の立場と暮らしを支える役割もあるのよ」
アリーシャは、今度はセレーナへ向き直った。
「それに、セレーナにとっても悪い話ではないわ」
「私にも?」
「巡回書記官は、貴族や権力者と結婚すれば中立を疑われる。でも、シンジにはこの世界の家も派閥もない」
「何もないことを、そこまで堂々と長所にされると傷つくんですが」
「何者にも取り込まれていないということよ。巡回書記官の相手としては、下手な貴族よりよほど安全だわ」
「下手な貴族代表みたいな人に言われても」
「私は上手な貴族よ」
「自分で言うんですか」
アリーシャは胸を張ったまま、二人を交互に指した。
「シンジは、身分と居場所を得られる。セレーナは、中立を守ったまま、自分で選んだ相手と生きられる」
「自分で選んだ相手って……」
「違うの?」
「それは……」
セレーナの返事が止まった。シンジが目を見開く。
「セレーナ?」
「今すぐ結婚するかどうかを聞かれて、すぐに答えられる人はいません!」
「普通は先に断らないか!?」
「なぜ私が断る前提なのですか!」
「え?」
「あっ……」
セレーナが口元を押さえる。アリーシャは満足そうにうなずいた。
「気持ちだけではなく、立場の上でも案外釣り合っている。これなら、ますます問題がないわね」
「問題しかありません!」
シンジは反論しようとして、口を閉じた。
胸の奥に、妻の顔が浮かんだ。
雨の日。家の中、飲みかけの朝。
あの世界に残してきた妻。
「俺には……妻がいます」
先ほどまで浮かれていた空気が、少しだけ静まった。
セレーナが目を伏せる。
アリーシャは、シンジをまっすぐ見た。
「知っているわ」
「なら、簡単に結婚しろなんて言わないでください」
「簡単ではないから、二人ともいつまでも同じところで立ち止まっているのでしょう?」
「それは……」
「分からない。決められない。今はまだ早い。あなたたち、さっきからそればかりね」
アリーシャは腕を組んだ。
「仕方がないわ。では、私が決めてあげる」
「何を!?」
「二人のこれからよ」
「勝手に決めないでくれ!」
シンジの抗議を無視し、アリーシャは指を一本立てた。
「帰るなら、帰ればいいわ」
「え?」
「奥様のところへ帰りたいのでしょう? なら、帰れる時が来たら帰ればいい」
あまりにもあっさりと言われ、シンジは言葉を失った。
「その時、セレーナを連れていけるなら、連れていけばいいわ」
「いやいや、そんな簡単に異世界間を……」
「できるかどうかは、その時に調べなさい。今は誰にも分からないのでしょう?」
「そうですけど……」
アリーシャは二本目の指を立てた。
「でもね、セレーナをこの世界に残して帰るのなら、子供を残してあげなさい」
客間から、音が消えた。シンジは口を開けたまま固まった。
セレーナは何を言われたのか理解できないように、アリーシャを見つめている。
「……今、なんて?」
「聞こえなかった?」
「聞こえたから聞き返してるんです!」
「セレーナも、シンジについていけなくても、シンジとの子がいれば安心でしょう?」
「アリーシャ!」
セレーナの顔が、一気に赤くなる。
「そ、そのようなことを、本人の前で……!」
「本人がいないところで決める方が失礼でしょう?」
「いるところでも決めないでください!」
「それに、二人の子がいれば、セレーナとシンジがこの世界で一緒に生きた証が残るわ」
「子供を置き土産みたいに言うな!」
「置き土産ではないわ。家族よ? それとも、セレーナを独りぼっちにして帰るつもり? ひどい男ね」
「ぐぬぬ……何も言い返せない……」
「二人の子供……それなら、独りでは……」
「セレーナ! 正気に戻るんだ! 論点はそこじゃない!」
アリーシャは三本目の指を立てた。
「帰らない。あるいは、帰れない。どちらでもいいわ」
「よくないでしょう」
「重要なのは、そこじゃないもの」
アリーシャの目から、先ほどまでの笑いが消えた。
「この世界に残るのなら、セレーナを死ぬまで大切にしなさい」
シンジは息を呑んだ。
「絶対に幸せにしなさい」
「絶対って……」
「できないの?」
「そんな簡単に約束できることじゃない」
「なら、簡単ではないと分かったうえで考えなさい! セレーナのことを本気で考えなさい!」
アリーシャは、今度はセレーナへ向き直った。
「セレーナ」
「……はい」
アリーシャは、シンジを指した。
「シンジは、あなたが初めて心を揺らしている相手でしょう?」
セレーナの視線が、わずかにシンジへ向く。目が合う前に逸らされた。
「もっと素直になりなさい」
「私は……」
「もっとわがままでいいのよ」
アリーシャの声は強かった。だが、セレーナを責めている声ではなかった。
「結婚は、一緒にいるための一つの形でしかないわ。でも、お互いの立場や、これからの生き方を安定させる方法でもある」
「だからといって、気持ちを置き去りにはできません」
「置き去りにしろとは言っていないわ」
アリーシャは、二人を交互に見る。
「少なくとも、二人には、結婚という手段を考えるだけの価値があると言っているの」
「価値?」
「シンジの身分。これからの生き方。そして、セレーナの立場」
セレーナの表情が硬くなる。
「巡回書記官のあなたに、どんな権力者も婚姻を強制することはできない」
「……ええ」
「でも、結婚や子供を期待する目があることは知っているでしょう?」
セレーナは否定しなかった。
「巡回書記官の資質は子に受け継がれやすい。だから国も機関も教会も、その血筋が絶えないよう、特権と保護を与えているのよ」
シンジは衝撃を受けた。そんな重いものを、セレーナは背負っていたのか。
「特に優秀な資質を持つあなたが、どれだけ期待されているのか。あなたが一番知っているでしょう?」
セレーナは苦い顔をした。
「いつまで、その期待を一人で受け流し続けるの?」
「それでも……私が決めることです」
「そうよ。あなたが決めること」
アリーシャは迷わず認めた。
「だから、決めずに逃げ続けるのではなく、自分で選びなさいと言っているの」
セレーナが、わずかに顔を上げた。
「その環境で、この先もずっと一人で抱えていくつもり?」
「私は……」
「仕事なら、どれほど難しいことでも決められるのに、自分のことになると何一つ選べないのね」
「アリーシャ……」
「私は、結婚を押し付けているわけでも、無理やりさせようとしているわけでもないわ」
シンジが眉を寄せる。
「あの……さっきから、ずっと結婚させようとしているのでは……」
「あなたは口を挟まないでちょうだい!」
「やっぱり俺の扱いが雑だ!」
アリーシャは無視した。
「私が言っているのは、今、つかみたいその手をつかみなさいということよ」
セレーナの目が、シンジの手へ落ちた。
「本当に好きなのか。結婚してもいいのか。これは愛なのか、恋なのか。そんな名前は後から付いてくるし、二人で考えればいいわ」
「後からでいいんですか?」
「大切なのは、その手を取りたいかどうかよ」
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