第63話 若い顔の扱い方
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの、
なぜか若返ってしまった物語をお楽しみください。
それから三日。
シンジの顔を覆っていた包帯は、すべて外されていた。
腫れはほとんど引いている。
頬には薄い痣と、治りかけの傷が残っていたが、それも日を追うごとに色を失っていた。
右の肋骨には、まだ鈍い痛みがある。
身体を強くひねる。
勢いよく立ち上がる。
笑ったり、咳をしたりする。
そういう時には痛むが、屋敷の中をゆっくり歩く程度なら、もう誰かの手を借りなくてもよかった。
食堂まで歩くのは、これが初めてではない。
アリーシャが屋敷へ乗り込んできた日にも、セレーナに支えられながら歩いている。
ただし、あの時とは違う。
今日は、自分の足だけで歩いている。
【歩行状態:安定】
【急な動作を避けてください】
「分かってる」
【過去の行動から、再表示が必要と判断しました】
「文章になると、注意まで嫌味に見えるな」
【内容は以前と同一です】
「それも分かってるよ」
ボードへ文句を言いながら廊下を進む。
以前より身体が軽い。
体力が完全に戻ったわけではないが、足取りは明らかに安定している。
寝台の上で過ごす時間も、少しずつ減っていた。
廊下の角を曲がりかけたところで、シンジは足を止めた。
少し先の配膳室から、ミアとノーラの声が聞こえてくる。
「……でも、普通にありだよね」
「何が?」
「シンジさん」
シンジは眉を上げた。
「そういう目で見たら駄目でしょ!」
「そういうノーラが、一番意識してるんじゃない?」
ミアの声が、明らかに笑っている。
何の話をしているのか分からないが、相変わらず騒がしい。
シンジが配膳室をのぞくと、二人が同時にこちらを向いた。
「ミア、ノーラ。何の話だ?」
「っ!」
ノーラの肩が跳ねた。
手にしていた盆を、慌てて胸元へ抱え込む。
「シ、シンジさんはお客様で、今は療養中です!」
「うん?」
「ですから、そんなふしだらな目で見たことなんてありません!」
「ふしだら?」
ミアが目を丸くした。
次の瞬間、口元へ笑みが広がる。
「ノーラってば、そんな目で見てたんだ?」
「違う!」
ノーラの顔が一気に赤くなった。
「おいおい。俺の話なのか?」
シンジは困って頭をかいた。
「それと、全部本人に聞こえてるんだが」
「ちがっ、違います!」
ノーラは盆を握り締めた。
「ちょっと、そばにいると安心する、優しそうな男の人だなって思っただけです! そこまで意識なんてしてません!」
「ほうほう」
ミアが深くうなずく。
「そばにいると安心できて、優しい男性が好み、と。つまり、シンジさんがす――」
「頼むから」
シンジは片手を上げて止めた。
「そういう話は、本人に聞こえないところでしてくれ。顔から変な汗が出る」
「ちがああああう!」
ノーラが盆を振り上げた。
「それ以上言ったら、この盆で叩くからね!」
ミアが笑いながら一歩下がる。
シンジは、ノーラの手にある盆と、その真っ赤な顔を交互に見た。
「この屋敷の人間は、物で人を叩く文化なのか?」
「違います!」
「ノーラだけです」
「ミア!」
盆を振り回すノーラから逃げるように、ミアが配膳室を飛び出した。
その先で、誰かとぶつかりそうになり、急停止する。
「何の騒ぎですか?」
立っていたのはセレーナだった。
支所から戻ってきたところらしく、まだ外套を身につけている。
「セレーナ様!」
ノーラの顔から血の気が引く。
セレーナは、盆を振り上げたままのノーラ、笑いを堪えているミア、壁際に避難しているシンジを順番に見た。
「状況を説明してください」
「俺にもよく分からない」
ボードに文字が浮かぶ。
【会話主題:シンジに対するノーラの異性的関心】
「要約しなくていい!」
「異性的……」
セレーナの視線が、ノーラへ向く。
「ち、違います!」
ノーラは盆を下ろし、何度も首を振った。
「少し優しそうで、安心できる人だと思っただけです!」
「そうですか」
セレーナの返事は静かだった。
いつもと変わらない声だった。
だが、ノーラを見ていた視線が、今度はシンジへ移る。
包帯の取れた顔を、改めて確かめるように見つめている。
「何だ?」
「いえ」
セレーナはすぐに視線を外した。
「廊下で長話をしていると疲れます。小客間へ移りましょう」
「俺より、ノーラの方が疲れてそうだけどな」
ノーラは耳まで真っ赤だった。
◇
小客間へ移ると、ノーラが先日持ってきた文字の本を卓へ置いた。
「今日は、こちらの続きを読む予定でした」
「そうだったな」
シンジが長椅子へ腰を下ろす。
ノーラも隣へ座ろうとした。
「発音の確認なら、私が行います」
セレーナが、先にシンジの左隣へ腰を下ろした。
ノーラの動きが止まる。
「ですが、セレーナ様はお仕事から戻られたばかりでは?」
「これも必要な確認です」
「療養中の文字練習まで、セレーナの仕事なのか?」
「読めるようになったばかりなのでしょう。間違って覚えると困ります」
セレーナは本を手に取り、当然のように頁を開いた。
向かい側へ座ったミアが、口元を隠している。
また何か笑っているらしい。
ボードにも文字が浮かぶ。
【セレーナ、本日の介入回数が増加しています】
「介入?」
シンジが読む。
セレーナの視線が、素早くボードへ向いた。
「必要のない表示です」
【事実を表示しました】
「何に介入してるんだ?」
「文字の練習です」
「さっきまで支所にいたのに?」
「戻ってきましたので」
「そうか」
シンジはそれ以上考えず、開かれた本へ目を落とした。
ノーラとミアが、同時にセレーナを見る。
セレーナは気づかないふりをして、頁を指した。
「読んでください」
「椅子、机、窓……」
「そこは、音を少し長くします」
「こうか?」
セレーナが発音する。
シンジが同じ音を繰り返す。
ノーラが、反対側から身を乗り出した。
「その次は寝台です」
「これは分かる。何日も世話になってるからな」
シンジが笑う。
目元が柔らかくなり、頬に残る痣さえ気にならないほど、穏やかな表情になる。
ノーラの視線が止まった。
すぐに、本へ戻る。
その顔が、また少し赤くなっていた。
セレーナもシンジの横顔を見る。
整った顔立ちというわけではない。
目を引くほど華やかでもない。
けれど、人の話を聞く時には、自然と目元が柔らかくなる。
笑えば、相手の肩から力を抜く。
そばにいても警戒しなくていいと思わせる、妙な安心感がある。
年齢を重ねた顔では、疲れや皺の奥に隠れていたものが、若くなったことで前へ出てきたのかもしれない。
ノーラが意識した理由を、セレーナは理解してしまった。
そして、それを理解できた自分のことが、少しだけ面白くなかった。
「セレーナ?」
シンジがこちらを見ている。
「どうした?」
「何でもありません」
【セレーナ、回答までに間がありました】
「ボード」
セレーナの声が低くなる。
「最近、セレーナにも厳しくなったな」
「シンジの影響ではありませんか?」
【関連性は確認できません】
「即座に否定されたぞ」
ノーラとミアが笑う。
セレーナだけが、少し不満そうにボードを見ていた。
◇
その夜。
客室へ戻ったシンジは、銀縁の鏡の前に立っていた。
包帯が外れてから、まともに顔を見るのは初めてだった。
「……若いな」
鏡の中にいるのは、二十歳前後にしか見えない男だった。
少年ではない。
若者と呼ぶには、少し落ち着いている。
だが、五十二歳だった頃の面影は、目元や笑った時の形にわずかに残るだけだ。
「これ、まだ変わるのか?」
左側へボードが浮かぶ。
【身体再構成:完了】
【外形安定:完了】
シンジは表示を見つめた。
「終わったのか?」
【肯定】
「これ以上、若くならない?」
【今後の外形変化は、通常の成長及び加齢の範囲です】
「よかった……」
思わず、深く息を吐いた。
「このまま少年になったら、どうしようかと思ったぞ」
「少年には見えませんよ」
扉の方から声がした。
振り返ると、薬を持ったセレーナが立っていた。
「入るなら声をかけてくれ」
「二度、叩きました」
「鏡を見てた」
「そのようですね」
セレーナはシンジの横へ立ち、鏡の中の姿を見る。
以前より若いシンジ。
その隣に、自分がいる。
「変じゃないか?」
「何がですか?」
「若すぎるだろ。中身は五十二歳なのに」
「話していれば、すぐに分かります」
「何が?」
「若いだけの男性ではないことがです」
「老けてるって意味か?」
「そういうところです」
セレーナがわずかに笑った。
「顔が変わっても、シンジはシンジです」
「ノーラには、少し違って見えるらしいけどな」
「それは……別の問題です」
「別の問題?」
「気にしなくて構いません」
セレーナは薬を差し出した。
シンジが受け取り、水で飲む。
ボードへ新しい表示が浮かぶ。
【回復進行:予測を上回っています】
【日常動作への支障:軽度】
「やっぱり、治りも早いのか?」
【肯定】
「若返った影響か?」
【身体再構成及び体調管理による影響が考えられます】
「明日、治療師が来る予定でしたね」
「ああ」
セレーナは表示を見ながら、少し考える。
「驚くかもしれません」
「俺も毎朝驚いてたけどな」
「もう外見は安定したのでしょう?」
「そうらしい」
シンジは、もう一度鏡を見る。
見慣れない若い顔。
けれど、今日一日、この顔を見て笑い、怒り、赤くなった人たちがいた。
誰かにとっては戸惑う顔で。
誰かにとっては、少し意識してしまう顔で。
それでも、中にいる自分は変わっていない。
「慣れるしかないか」
「皆も、そのうち慣れます」
「ノーラも?」
セレーナの返事が、ほんの少し遅れた。
「……慣れなくても、仕事に支障がなければ問題ありません」
【セレーナ、回答までに間がありました】
「ボード」
セレーナの低い声が、客室へ響く。
シンジは笑いかけ、右の脇腹を押さえた。
「痛っ」
「笑わないでください!」
【安静を推奨します】
「今度は息が合ったな」
セレーナは呆れた顔をしながらも、シンジが寝台へ戻るまで、すぐそばを離れなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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