第59話 見えるはずのない板
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られてなかった?おっさんの物語をお楽しみください。
シンジの手の甲で、仮界紋が淡く脈打っていた。
白とも青ともつかない光が、皮膚の下をゆっくりと巡っている。
痛みはない。
だが、以前より線が細かくなり、紋の外側へ見覚えのない枝が二本伸びていた。
「動かさないでください」
セレーナがシンジの右手首をつかんだ。
「もう熱くないぞ」
「熱が引いたことと、安全であることは同じではありません」
「動くかどうかくらい、確認した方がいいだろ」
「私が確認します」
「俺の手なんだけどな」
「自分の身体だからといって、乱暴に扱ってよい理由にはなりません」
横に座っていたルカが、大きくうなずいた。
「シンジ、すぐ大丈夫って言うからね」
「二対一はずるくないか?」
「多数決なの」
「身体の状態を多数決で決めるなよ」
セレーナは抗議を聞き流し、空いた手で腰の革袋から記録板を取り出した。
黒に近い板の表面を親指でなぞる。
銀色の細い線が浮かび上がり、以前の仮界紋の形を描いた。
「比べるまでもなく違うな」
「はい。線が増えています」
「増えると、どうなる?」
「分かりません」
「また分からないことが増えた」
「嬉しそうに言わないでください」
「嬉しくはない。でも、分からないなら確かめるしかないだろ」
シンジは左手を寝台へついた。
「身体も、どこまで変わったのか確認したい」
「今する必要はありません」
「顔も手も若くなったんだ。怪我も治ってるかもしれない」
「それを確かめるために、怪我を悪化させるのですか?」
「少し起きるだけだ」
「待ってください」
セレーナが止めるより早く、シンジは左手へ力を入れた。
上半身が少しだけ持ち上がる。
右の脇腹に、鋭い痛みが走った。
「痛っ」
「シンジ!」
「やっぱり肋骨は、そのままらしい」
「だから動かないでくださいと」
「でも、昨日より痛みは軽い」
「軽くても痛いのでしょう」
「まあな」
シンジは身体を戻そうとした。
その時だった。
支えていた左腕から、突然力が抜けた。
「え?」
身体が後ろへ傾く。
寝台へ倒れるだけなら問題はない。
だが、頭の後ろには硬い木枠があった。
「危ない!」
セレーナがとっさに身を乗り出した。
シンジの手首を放し、片腕を頭の後ろへ差し入れる。
記録板を持ったままの手を、シンジの左肩の横へつき、身体を支えようとした。
だが、傾いた勢いまでは止められなかった。
二人まとめて寝台へ倒れ込む。
「うわっ」
「きゃっ!」
背中が寝具へ沈んだ。
身体をひねったことで、右の脇腹が引きつる。
一瞬、息が詰まった。
セレーナの身体はシンジの左肩側へ倒れ込み、折れた右の肋骨に直接重みはかからなかった。
頭も木枠にはぶつからなかった。
代わりに。
セレーナが、シンジの上へ覆いかぶさっていた。
彼女の腕はシンジの首の下へ回り、頭を抱えるように支えている。
シンジの左腕も、倒れた勢いでセレーナの背中へ回っていた。
顔が近い。
淡い髪が頬へ触れている。
息遣いまで聞こえそうな距離だった。
そして。
やわらかい。
セレーナは、やわらかい。
いや。
待て、真司。
意識するな。
ここは紳士だ。
女性に密着されて喜んでいるわけではない。
久しぶりに人のぬくもりへ触れて、安心しているだけだ。
そう。
ぬくもりだ。
やわらかい部分が、ではない。
優しい部分が近くにあるから、心が。
心が……。
やわらかい。
駄目だ。
何も考えるな。
五十二歳だろう。
落ち着いた大人の対応をしろ。
まずは怪我の確認だ。
肋骨。
そう、肋骨を意識しろ。
やわらかさではなく、肋骨だ。
だが、肋骨より近いところに、さらに意識を奪うものがある。
違う。
気になるのはセレーナの優しさだ。
優しさが、やわらかいだけだ。
何を言っているんだ、俺は。
「シンジ」
耳元で名前を呼ばれた。
「はい」
妙に素直な返事が出た。
「頭は打っていませんか?」
「大丈夫だ」
「脇腹は?」
「少し痛い。でも、今は別の意味で危ない」
「別の意味?」
「いや。何でもない」
セレーナは、まだ自分たちの体勢に気づいていないらしい。
真剣な表情で、シンジの頭や肩を確認している。
その動きに合わせ、やわらかな感触がわずかに変わる。
やめろ。
動くな。
いや、動かないと離れられない。
しかし今動かれると、こちらの精神が先に折れる。
「二人とも」
少し離れた場所から、ルカの声がした。
「大丈夫?」
「ああ。頭は打ってない」
「そうじゃなくて」
ルカが首を傾げる。
「そのままなの?」
セレーナの動きが止まった。
視線がゆっくりと下がる。
シンジの左腕が、自分の背中へ回っている。
自分の腕はシンジの首へ回り、身体は完全に密着していた。
互いの顔は、わずかに動けば触れそうな距離にある。
「……」
「……セレーナ?」
セレーナが息を止めた。
頬が赤くなる。
次いで耳まで赤くなり、動かしてよいのか分からないように身体を固めた。
「少し、待ってください」
「何を?」
「い、いま、状況を理解しています」
「分かった」
「返事をしないでください……」
「はい」
「それも返事です」
セレーナは離れようと、わずかに身体を起こしかけた。
だが、シンジの右脇腹へ視線を落とし、すぐに止まる。
「どうした?」
「急に動けば、右の肋骨へ負担がかかります」
「じゃあ、このまま?」
「安全に離れる方法を考えています」
「なるほど」
「落ち着いていますね」
「落ち着いて見えるだけだ」
「何か問題が?」
「それは聞かない方がいい」
セレーナの顔が、さらに赤くなった。
自分の身体がシンジへ触れていることを、今度こそ意識したらしい。
呼吸さえ控えようとするように、動かなくなる。
「シンジ」
「はい」
「左腕を、少し緩めてください」
「あ」
自分がセレーナの背中を抱いていることに、ようやく気づく。
「悪い」
「謝らなくて結構です。事故ですから」
「そうだな。事故だ」
「事故です」
「分かってる」
「強調しないでください」
二人が慎重に腕を外そうとした、その時。
セレーナが持っていた記録板が、指の間から滑り落ちた。
黒い板が寝台へ落ちる。
その角が、シンジの左肩のすぐ横にある、何もないはずの空間へ触れた。
澄んだ音が響いた。
金属でも、木でも、ガラスでもない。
遠くで大きな鐘が鳴ったような、細く長い音だった。
「何だ?」
シンジの視界の左側へ、ボードが現れた。
呼び出していない。
半透明の板が、記録板と重なるように浮かんでいる。
記録板の銀文字が一斉に揺れた。
線が板の表面から浮き上がり、細い光の帯となってボードへ流れ込んでいく。
「セレーナ?」
セレーナは、シンジの上へ覆いかぶさったまま動かなかった。
赤かった顔から、今度は血の気が引いている。
視線はシンジではなく、その左側へ向いていた。
「……板が」
「え?」
「半透明の板が、浮いています」
シンジは目を見開いた。
「見えるのか?」
「はい」
「何が?」
ルカが二人を見比べる。
「何が見えてるの?」
ボードへ文字が浮かんだ。
【外部参照を検知】
【参照元:エルストリアの記憶】
【深層領域へのアクセスを拒否】
【一部接続を確認】
【既存機能との最適構成を開始】
「エルストリアの記憶……?」
シンジが読み上げるより先に、セレーナがつぶやいた。
本当に見えている。
これまで、ボードを見ることができたのはシンジだけだった。
セレーナは、シンジが何もない空間へ視線を向けるたび、その内容を読み上げるよう求めていた。
その彼女が今、ボードの文字を読んでいる。
「ちょっと待て」
シンジは混乱しながら言った。
「ボードが見えるようになったのも驚きだけど、エルストリアの記憶って何だ?」
セレーナは答えない。
記録板の銀文字が激しく乱れていた。
文字が重なり、崩れ、読めない形へ変わっていく。
やがて、板の表面が真っ白に輝いた。
ボードへ流れ込もうとしていた銀の光が弾かれる。
強い光が客室を満たした。
「まぶしい!」
ルカが両手で顔を覆う。
シンジも目を閉じた。
耳の奥で、鐘の音がもう一度響く。
光は一瞬で消えた。
記録板の表面から、すべての文字が消えていた。
何も書かれていない、ただの黒い板へ戻っていた。
ボードには文字が残っていた。
【深層領域へのアクセスを拒否】
【一部接続を確認】
【最適構成中】
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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真司の異世界生活にファンタジーらしさが出てきた……のかもしれません。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




