第58話 鏡の中の昔
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界で若返ったおっさん?の物語をお楽しみください。
話が終わっても、セレーナはすぐには顔を上げなかった。
窓から差し込む光が、椅子に座る彼女の足元まで伸びている。
遠い学院で鳴っていた鐘の音だけが、まだ部屋のどこかに残っているようだった。
シンジも、すぐには何も言えなかった。
アリーシャのことを知りたかった。
それは本当だ。
だが、知ったのはアリーシャのことだけではない。
学院の廊下を一人で歩いていたセレーナ。
噂されても、遠巻きにされても、黙って前を向いていた少女。
その隣へ、何の遠慮もなく座ったアリーシャ。
「……普通の友人だったんだな」
ようやくシンジが言うと、セレーナは小さくうなずいた。
「はい」
「ずいぶん、普通じゃない人だけど」
「そこは否定しません」
ルカが、こらえきれないように笑った。
「セレーナさんでも否定しないんだ」
「事実ですので」
「でも、大事な友達なんだね」
セレーナは少しだけ目を伏せた。
「はい。とても」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
「結婚式には行ったのか?」
シンジが尋ねると、セレーナは目を瞬かせた。
「なぜ、それを?」
「最後に、アリーシャ夫人が結婚の話をしてただろ。セレーナを呼びたがってたんじゃないかと思って」
「……行きました」
「やっぱり」
「アリーシャは式が始まる前から泣いていました」
「早いな」
「式が始まると笑い、途中でまた泣き、終わる頃には、なぜか私を参列者全員に紹介していました」
「何て?」
セレーナは少しだけ眉を寄せた。
「自慢の友人です、と」
「それは……」
シンジは思わず笑った。
「アリーシャ夫人らしいな」
「私は、やめてほしかったのですが」
「嬉しくなかったの?」
ルカが尋ねる。
セレーナは答えなかった。
けれど、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
「嬉しかったんだ」
「ルカ」
「顔に書いてあるよ」
「書いてありません」
「ある」
シンジも言うと、セレーナがこちらを見た。
「シンジまで」
「五十二年も人の顔を見てるとな」
「また年齢を便利に使っています」
「使えるものは使う主義なんだ」
セレーナは困ったように息を吐いた。
だが、怒ってはいなかった。
昔話を始める前よりも、ずっと柔らかい顔をしている。
「話してくれて、ありがとう」
シンジは静かに言った。
セレーナの表情が、わずかに止まる。
「アリーシャのことを知りたいと言ったのは、シンジです」
「それでもだよ」
「……少し、重い話になりました」
「そうだな」
シンジは否定しなかった。
「でも、聞けてよかった」
セレーナは、膝の上で組んでいた指をゆっくりほどいた。
「アリーシャが、ただ騒がしいだけの人だと思われるのは、少し嫌でした」
「ただ騒がしい人じゃないってことは分かった」
「そうですか」
「騒がしくて、強引で、人の話を聞かなくて、勝手に家へ入ってくるけど」
「シンジ」
「でも、友達のことを誰よりよく見てる人なんだな」
セレーナの口が閉じた。
「セレーナが何を目指してるのか。何ができて、何をしない人なのか。ちゃんと見てた」
シンジは、窓の外へ目を向けた。
薄い雲がゆっくり流れている。
「噂じゃなくて、自分の目で見てたんだ」
「……はい」
「セレーナも、そういう人なんだろうな」
セレーナが顔を上げた。
「私も?」
「人が何者なのかを、周りの声だけでは決めない」
シンジは少し考え、言葉を続けた。
「少なくとも、そうしようとしてる」
「そうありたいとは思っています」
「だから、巡回書記官になったのかもしれないな」
セレーナは、すぐには答えなかった。
シンジも、それ以上は聞かなかった。
全部分かったような顔をするつもりはない。
家族を奪われ、後から真実だけを返された人間の気持ちなど、簡単に分かるはずがない。
けれど、セレーナが何を見ようとしているのか。
その一端には、触れられた気がした。
「シンジは」
セレーナが口を開いた。
「私のことを、どう思いましたか」
「どうって?」
「今の話を聞いて」
ルカが、ぴくりと反応した。
さっきまで椅子に深く座っていたのに、少しだけ前のめりになる。
シンジは天井を見た。
「昔から、あまり変わってないんだなと思った」
「変わっていませんか?」
「自分で決めたことは曲げない。できることを、できるまでやる。人のことはよく見る」
そこで一度、セレーナを見る。
「でも、自分のことになると、かなり鈍い」
「それは、アリーシャの言い分です」
「俺もそう思う」
「シンジ」
「ほら、今も怒るところが違う」
「違いません」
ルカが笑いをこらえながら言った。
「シンジ、セレーナさんのこと、よく見てるね」
「え?」
不意を突かれ、シンジは言葉に詰まった。
セレーナも動きを止める。
ルカだけが、何の含みもない顔で二人を見比べていた。
「一緒にいた時間、そんなに長くないのに」
「いや、それは……」
「シンジは人を見るのが仕事だったのでしょう」
セレーナが先に答えた。
少し早口だった。
「そういうことです」
「そうなの?」
「そういうことにしておいてくれ」
シンジが言うと、ルカは納得したような、していないような顔でうなずいた。
セレーナは視線を落とした。
耳が少し赤い。
アリーシャがいれば、ここぞとばかりに何か言っただろう。
いなくてよかった。
いや、いないのに、まだあの人の影響が残っている。
シンジは小さく息を吐いた。
「どうしました?」
「アリーシャ夫人の恐ろしさを、改めて感じてた」
「なぜですか」
「いなくなったあとまで、妙な空気を残していくから」
「……否定できません」
セレーナが小さく笑った。
その笑みを見て、シンジも笑う。
それから、少しだけ姿勢を直そうとした。
「痛っ」
脇腹に痛みが走る。
「シンジ」
「大丈夫。ちょっと動いただけだ」
「動く時は声をかけてください」
「これくらいで?」
「怪我人です」
「はいはい」
セレーナが手を伸ばし、背中の枕を直した。
顔が近づく。
淡い髪が肩から流れ、シンジの視界をかすめた。
シンジは妙に意識しそうになり、窓へ視線を逃がした。
だが、セレーナは枕を直し終えても離れなかった。
「……セレーナ?」
返事がない。
セレーナは、シンジの顔をじっと見ていた。
「何だよ」
「動かないでください」
「もう動いてない」
「そのままで」
声が変わっていた。
先ほどまでの柔らかさが消えたわけではない。
だが、その奥に明らかな緊張が混じっている。
セレーナの目が、シンジの額から頬、目元へと動いた。
ルカも椅子から立ち上がる。
「どうしたの?」
「ルカ。シンジの顔を見てください」
「顔?」
ルカが反対側からのぞき込んだ。
近い。
今度は左右から近い。
「ちょっと待て。何だ、この状況」
「シンジ」
「はい」
「今朝より、若くなっています」
部屋が静まった。
「……また?」
シンジは思わず、自分の頬を触った。
触っただけでは分からない。
「ルカ、鏡を」
「う、うん」
ルカが部屋の隅にある小さな鏡台へ走った。
銀色の縁がついた鏡を持ち上げ、シンジの前まで運んでくる。
映った顔を見て、シンジは言葉を失った。
見慣れた顔ではある。
だが、今朝見た顔とも違っていた。
目の下にあった重さが消えている。
口元に刻まれていた線も薄い。
頬の皮膚は張りを取り戻し、輪郭まで少し引き締まっていた。
三十代に見える、どころではない。
「これ……」
鏡の中にいたのは、二十代の終わりか、せいぜい三十歳を少し過ぎた頃の自分だった。
知らない男ではない。
昔、何度も写真で見た顔だ。
妻と並んで笑っていた頃の、自分の顔。
「今朝から、こんなだったか?」
「違います」
セレーナが即座に答えた。
「先ほど、話を始めた時とも違います」
「話してる間に?」
「分かりません」
セレーナの指が、シンジの頬へ伸びかけて止まった。
「触れても?」
「ああ」
指先が、目元の近くへそっと触れる。
冷たくはない。
それなのに、その場所から身体の奥へ細い震えが走った。
セレーナが、はっと手を引いた。
「どうした?」
「今、何か感じましたか」
「少し、ぞくっとした」
「私もです」
その瞬間だった。
シンジの右手が、かすかに熱を持った。
「熱い」
手の甲を見る。
薄く肌になじんでいた仮界紋が、淡い光を放っていた。
白とも青ともつかない光。
細い線が、心臓の鼓動に合わせるように明滅している。
一度。
二度。
そして、紋の外側へ、今までなかった細い線が伸びた。
「セレーナ」
「触らないでください」
セレーナがシンジの手首を取った。
その顔に、先ほどまでの照れはもうない。
けれど、冷たい巡回書記官の顔でもなかった。
目の前で起きていることから、シンジを守ろうとする顔だった。
「仮界紋は、こんなふうに変わるものなのか?」
「いいえ」
セレーナの答えは、はっきりしていた。
「少なくとも、私は見たことがありません」
鏡の中には、若い頃のシンジがいる。
手の甲には、あの頃にはなかった紋が光っている。
若返っている。
そう思っていた。
けれど、本当に時間が巻き戻っているだけなのだろうか。
淡い光が、もう一度だけ脈打った。
まるでシンジという人間そのものが、身体の内側から、新しい形へ組み直されているように。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
やっぱり魔法と剣のファンタジーだった?中年の物語。
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