第56話 好きなもの(学院編2/3)
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
セレーナ学院編の物語をお楽しみください。
アリーシャにも、学院の噂はあった。
辺境伯家の三女。
明るく、人懐こく、誰にでも遠慮なく踏み込む令嬢。
そして、少しばかり父を困らせる娘。
その噂については、アリーシャも否定しなかった。
事実だからだ。
「あなた、本当にその方と結婚するつもりなの?」
ある日の昼休み、セレーナが何気なく尋ねた。
アリーシャは焼き菓子を半分に割りながら、当然のようにうなずいた。
「するわよ」
「まだ正式に婚約が整ったわけではないのでしょう?」
「整えるのよ」
「誰が?」
「わたしが」
セレーナは少し黙った。
それから、真面目な顔で言った。
「婚約とは、当人だけで決めるものではないと聞いたけれど」
「だから外堀を埋めているの」
「外堀」
「お父様に手紙を書いたわ。彼がどれだけ誠実で、どれだけ努力家で、どれだけ将来有望か。あと、わたしが彼以外と結婚したら一生不機嫌でいる可能性があることも」
「それは交渉なの?」
「お願いよ」
「脅しに近い気がするわ」
「気のせいよ」
アリーシャは悪びれずに笑った。
相手は、辺境伯軍第一騎士団団長の息子。
アリーシャの幼馴染で、昔から何かとそばにいた少年だった。
身分として悪くない。
家としても、決して悪い話ではない。
けれど、辺境伯家の三女の婚姻となれば、本人同士が好きだから、だけで決まるものでもない。
それでもアリーシャは、もう決めていた。
「好きなの?」
セレーナが尋ねる。
「好きよ」
「ずいぶんはっきり言うのね」
「だって、はっきりしているもの」
「そういうものなの?」
「そういうものよ」
アリーシャは胸を張った。
「セレーナは、好きなものを好きと言う練習をした方がいいわ」
「好きなもの」
「そう」
「紙の匂いは好きよ」
「そこから離れなさい」
アリーシャは即座に言った。
セレーナは首を傾げた。
「難しいわね」
「難しくしているのはあなたよ」
アリーシャはため息をついたが、その顔は楽しそうだった。
「じゃあ、紙の匂い以外では?」
「紙の匂い以外」
「あなたは、何が欲しいの?」
セレーナは少し考えた。
焼き菓子を持つ指先に、わずかに油が残っている。
中庭では、学生たちが笑っていた。
試験にも、報告書にも、成績にもならない時間が、目の前にあった。
「私は、巡回書記官になりたいわ」
アリーシャは目を瞬かせた。
「普通の書記官ではなく?」
「ええ」
「どうして?」
セレーナは、すぐには答えなかった。
けれど、迷っているわけではなかった。
言葉を選んでいるだけだった。
「普通の書記官は、書類に残された記録に触れるわ」
「ええ」
「でも巡回書記官は、世界の記憶に触れることができる」
アリーシャは、少しだけ目を細めた。
「世界の記憶」
「本や書類に残らなかったもの。誰かが隠したもの。間違って記されたもの。見えなくなった真実。そういうものに、巡回書記官は触れることができる」
セレーナの声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、確かな熱があった。
「私は、文章を正したいだけではないの」
「じゃあ、何を正したいの?」
「世の中の……」
アリーシャは黙った。
セレーナは、自分の言葉が少し大きすぎたと思ったのか、わずかに視線を落とした。
「……人の営みの中で、間違ったまま残されるものを、少しでも減らしたい。見えないまま潰される人や事実を、そのままにしたくない」
「人のために?」
「ええ、私の両親がそうだったから……」
その声は、小さかった。
アリーシャは、何も言わなかった。
セレーナが幼い頃、両親は冤罪と謀略により、この世を去った。
すぐに冤罪は晴れた。
けれど、晴れた時にはもう、戻るものはなかった。
行き場をなくしたセレーナは、貴族の義務として、寄り親であった子爵家に引き取られた。
その時、両親の冤罪を晴らしてくれたのが、巡回書記官だった。
セレーナは、その人の名を忘れたことがない。
埋もれていた嘘を見つけ、世界の記憶に触れ、間違った記録を正した人。
けれど、セレーナはそれ以上を口にしなかった。
その話は、まだ言葉にするには重すぎた。
セレーナは静かにうなずいた。
「知ることが、誰かの役に立つのなら。記録することが、誰かを守るのなら。私は、世界の記憶に触れて、世の中の間違いを正したい」
アリーシャは、しばらくセレーナを見ていた。
いつものように茶化すことはできなかった。
この友人は、ただ知りたいだけではない。
ただ優秀でいたいわけでもない。
幼い自分のように、見えないまま潰される誰かを、そのままにしたくないのだ。
アリーシャは、小さく笑った。
「やっぱり、あなたは巡回書記官になるべきね」
「そう思う?」
「ええ。わたしの勘は、あてにしていいからね」
その時のアリーシャは、まだ具体的な手段を持っていたわけではなかった。
けれど、はっきりと思った。
この友人には、紙の山だけでは足りない。
この友人は、書類の奥にあるものを見に行くべきだ。
そしてもし、いつか自分の手がその背中を押せるなら。
その時は、迷わず押そうと。
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