第55話 大切な友人(学院編1/3)
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
セレーナ学院編の物語をお楽しみください。
廊下を歩くたび、声が聞こえる。
「あの人が、例の?」
「そうそう、あの……」
声を潜めているつもりなのだろう。
けれど、学院の廊下はよく響く。
石造りの壁も、高い天井も、秘密を守るには向いていない。
セレーナは足を止めずに歩いた。
何をしたというのだろう。
課題を出されたから解いた。
試験があったから受けた。
覚えるべきものがあったから覚えた。
調べるべきものがあったから調べた。
ただ、それだけだ。
「普通に勉強して、普通に過ごしているだけなのに」
そう、小さくこぼしたつもりだった。
「セレーナ」
背後から声が飛んできた。
振り返ると、アリーシャが頬をふくらませて立っていた。
淡い金の髪を揺らし、きちんと結ばれた制服のリボンまで、なぜか怒っているように見える。
「あなたがそれを普通にって言うと、わたしまでひそひそ言いたくなるんだけど?」
「どうして?」
「どうして、じゃないわよ」
アリーシャは大きく息を吐いた。
辺境伯家の三女。
本来なら、セレーナのような身分の低い者が気軽に言葉を交わせる相手ではない。
学院の中でさえ、彼女に声をかける時は、誰もが少しだけ背筋を伸ばす。
けれど、アリーシャは違った。
最初から、セレーナを同じ高さで見た。
貴族の娘としてではなく。
才女としてでもなく。
珍しいものを見る目でもなく。
ただ、友人として。
「いい? セレーナ」
アリーシャは人差し指を立てた。
「あなたは入学してから一度も、学業で誰にも負けていないの」
「勝ち負けのために勉強しているわけではないわ」
「そういうところよ!」
アリーシャの声が少し大きくなり、近くにいた学生がちらりとこちらを見る。
セレーナは首を傾げた。
「知りたいことを知るために勉強しているだけなのだけれど」
「おだまりなさい、セレーナ」
「怒るところかしら」
「怒るところよ。もう、この子の感情のネジ、どこに落としたのかしら」
アリーシャは額に手を当てた。
「本気で言っているから、余計にたちが悪いのよ」
セレーナは少し考えた。
どうやら、自分はまた何かを間違えたらしい。
試験問題なら、誤答には理由がある。
文書なら、誤字も脱落も見つけられる。
法文なら、解釈の揺れも追える。
けれど、人の反応は難しい。
「もういいわ」
アリーシャは肩をすくめた。
「とりあえず、今は何も言わずに勉強しましょう」
「ええ」
「そこで素直なのも腹が立つわね」
「どちらなの?」
「どちらでもあるの」
アリーシャはそう言って笑った。
その笑い方が、セレーナは好きだった。
◇
学院の書庫は、昼でも少し薄暗い。
古い紙と革表紙の匂いがする。
セレーナは、その匂いも嫌いではなかった。
アリーシャは机に肘をつき、退屈そうに羽根ペンを回していた。
「そういえば、セレーナ」
「なに?」
「あなた、あと二年で卒業でしょう。卒業後は、やっぱり書記官?」
「ええ」
セレーナは手元の資料から目を離さずに答えた。
「本試験は終えているから、今は教育課程の一部を受けているところよ」
羽根ペンが、ぽとりと机に落ちた。
「本試験って、書記官本試験?」
「ええ」
「在学中に?」
「ええ」
「合格したの?」
「ええ」
アリーシャはしばらく黙った。
それから、ゆっくりと顔を覆った。
「それが事実なら前代未聞よ、それ」
「そうなの?」
「そうなの、じゃないの」
「普通は卒業後に受けるものだとは聞いたわ」
「聞いた上で受けたのね」
「受験資格は満たしていたから」
「この子、ほんとに……」
アリーシャはため息をついた。
けれど、その声には呆れだけではないものが混じっていた。
「セレーナを見ていると、本当にこの子が噂の主席なのかしらって思うわ」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
アリーシャは頬杖をついた。
「みんなが噂しているセレーナは、冷静で、無口で、何でも知っていて、魔法実地も試験も一度も負けない人。手の届かない場所にいる人」
「私はそこまで立派ではないわ」
「知っているわよ」
アリーシャは当然のように言った。
「だから友達なの」
セレーナは、そこで初めて手を止めた。
友達。
それはアリーシャが何度も使う言葉だった。
それでも、聞くたびに少しだけ胸の奥が落ち着かなくなる。
「普通って言うと、また怒られそうだけれど」
「怒る準備はしているわ」
「こうして普通に接してくれるアリーシャには、これからも普通に接してほしいと思っているの」
アリーシャは、少しだけ目を大きく開いた。
それから、眉を八の字に下げる。
「何を言ってるの」
「変だったかしら」
「変ではないわ」
アリーシャはペンを置いた。
「友達でしょ。遠慮なんていらないの。あなたがどこの誰でも、どれだけ試験で勝っても、あなたは普通の友人セレーナよ」
アリーシャは胸に手を当てた。
「そして、わたしはあなたの友人アリーシャ」
少し芝居がかった口調だった。
けれど、セレーナは笑わなかった。
笑えなかった。
その言葉は、からかいよりもずっと深く、心に落ちたからだ。
◇
「はい、終わり」
アリーシャが突然立ち上がった。
「まだ三章分残っているわ」
「残っているわ、じゃないの。人間は昼食を食べる生き物なのよ」
「水は飲んだわ」
「それは生存最低条件!」
アリーシャはセレーナの手元から資料を取り上げた。
「あ」
「あ、じゃない。あなた、放っておくと紙と一緒に乾いていくのよ」
「乾く?」
「心がよ」
「心は乾燥するの?」
「今、比喩を解剖しないで」
アリーシャは資料を閉じ、セレーナの腕を取った。
中庭へ出ると、昼の光がまぶしかった。
学生たちが芝生の端や石段に腰かけ、弁当や焼き菓子を広げている。
笑い声。
噂話。
誰かの失敗談。
試験への愚痴。
セレーナには、そういう時間の使い方が少し分からなかった。
無駄ではないのだろう。
けれど、何のための時間なのか、うまく言葉にできない。
「はい」
アリーシャが小さな包みを差し出した。
中には焼き菓子が二つ入っていた。
「これは?」
「ひとつはわたしの。ひとつはあなたの」
「私は頼んでいないわ」
「頼まれる前に渡すのが友達よ」
「そういうものなの?」
「そういうものにするの」
アリーシャは勝手に決めたようにうなずいた。
セレーナは焼き菓子を受け取った。
温かくはない。
けれど、指先に少しだけ油がついた。
紙や革とは違う感触だった。
「おいしい」
「でしょう?」
アリーシャは得意げに笑った。
「あなたはね、セレーナ。少しは答案用紙以外も見た方がいいの」
「見ているわ。法文も地図も報告例も」
「そういう意味じゃない」
「難しいわね」
「だからわたしが教えてあげる」
アリーシャは胸を張った。
「友達なので」
その言い方があまりにも当然だったので、セレーナは少しだけ困った。
そして、困ったまま、ほんの少し笑った。
「それなら、よろしくお願いするわ」
「任せなさい」
アリーシャは満足そうにうなずく。
中庭の風が、二人の髪を揺らした。
この時間は、試験には出ない。
報告書にも残らない。
成績にもならない。
けれど、セレーナはその日の焼き菓子の味を、ずっと覚えていた。
その時のセレーナは、まだ知らない。
その焼き菓子を差し出した友人が、いつか自分の進む道に、そっと手を添えることを。
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