第54話 嵐のあとに残ったもの
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
「でも」
シンジは少しだけ声を落とした。
「セレーナにとっては、大事な友人だしな」
セレーナはすぐには答えなかった。
冷めた紅茶に視線を落とす。
それから、小さくうなずいた。
「はい」
その一言だけで、食堂の空気が少し変わった。
アリーシャの騒がしさの奥に、何か柔らかいものが見えた気がした。
「アリーシャは、私を辺境伯領へ推薦した人でもあります」
「推薦?」
シンジが聞き返す。
ルカも笑うのをやめた。
ノーラとミアも、手を止める。
マーサも静かになる。
「はい」
セレーナは短く答えた。
「私が巡回書記官としてここへ来るきっかけを作ったのは、アリーシャです」
「……あの人が?」
「はい」
シンジは扉を見る。
さっきまでそこにいた嵐。
その嵐が、セレーナの人生の進路を変えた。
そう思うと、少し見え方が変わる。
いや、騒がしいことに変わりはない。
だが、ただ騒がしいだけではないのだろう。
「うーん、アリーシャ夫人のこと、ちょっと興味が湧いてきたな」
全員が固まった。
珍しく、エドガーも固まっていた。
セレーナはあわあわしながら、みるみる怖い顔になる。
「夫も子どももいるんですよ!? なんで、シンジはアリーシャを、その、あの……とにかくダメです!」
シンジは自分の言った言葉を、頭の中で聞き直した。
そして、ようやく意味に気づいた。
「あっ! そういう興味じゃなくて、セレーナとアリーシャ夫人の関係についてって意味だって!」
「ほっ……そういう……って、もう! そういう誤解をされる言い方は謹んでください!」
今度は赤い顔で焦っているセレーナを見て、シンジは慌ててうなずいた。
「ご、ごめん。言葉が足りなかった。気を付ける」
ノーラとミアは顔を合わせながら、口元を押さえている。
ルカは、意味が分かっていない顔でキョロキョロしている。
マーサは頷きながら、セレーナを微笑ましく見つめていた。
エドガーは、相変わらず静かにその様子を見守っている。
朝の光は、少し高くなっていた。
アリーシャが来る前と後で、時間の進み方まで変わった気がする。
「ふう……その話は、おしまいにしましょう」
セレーナは疲れた様子でそう言った。
「今は、シンジの若返りの確認が先です」
「あ」
シンジは思い出した。
そうだった。
今朝の本題は、自分の若返り現象だった。
恋バナと辺境伯令嬢と奥方と母親に押し流されて、危うく忘れるところだった。
「忘れてた」
「忘れないでください」
「アリーシャ夫人の情報量が多すぎた」
「否定はしません」
「しないのか」
セレーナは深く息を吐いた。
「痛みは?」
「怪我は普通に痛い。若返りに伴う痛みは、たぶんない」
シンジは短く答えた。
食堂の空気が、少しだけ引き締まる。
セレーナの目も、さっきまでの疲れたものから、巡回書記官の目に戻った。
「発熱、吐き気、めまい、意識の混濁は?」
「ない」
「記憶の欠落は?」
「たぶんない。少なくとも、今朝のアリーシャ夫人は忘れたくても忘れられない」
「それは記録しなくて結構です」
「むしろ記録しておいた方がいいんじゃないか。災害記録として」
「災害ではありません」
マーサが、ほんの少しだけ首をかしげた。
「分類としては、来客でしょうか」
「マーサ」
「失礼いたしました」
また反省していない顔だった。
「若返りと感じた時、体の違和感は?」
セレーナが話を戻す。
「全体的に軽かった気はする。特に膝と腰は楽だった」
その瞬間、別の空気が少しだけ流れた。
ノーラが目を丸くした。
ミアもトレーを抱え直す。
マーサが小さく息を飲んだ。
エドガーの眉が、ほんのわずかに動いた。
「膝と腰が楽……」
エドガーが静かに繰り返した。
低い声だった。
重みがあった。
「エドガーさん?」
「失礼いたしました」
エドガーは背筋を正す。
「大変、興味深い現象でございます」
「今、個人的な願望が混じってなかったか?」
「職務上の関心でございます」
「便利だな、職務」
シンジは苦笑した。
マーサが静かに目を伏せた。
「……少しだけ、分かります」
「マーサ」
「少しだけでございます」
ノーラとミアは、笑っていいのか迷う顔をしていた。
セレーナは何か言おうとして、やめた。
正直な感想ではある。
シンジ自身も、体が楽なのはありがたい。
ありがたいが、自分の身に勝手に起きているとなると話は別だ。
「まあ、若返りたくて若返ったわけじゃないんだけどな」
「分かっています」
セレーナは真面目にうなずく。
「だからこそ、慎重に見ます」
セレーナはそこで、冷めた紅茶を見た。
そして、珍しく少しだけ顔をしかめた。
「午後の仕事も、明日に回します」
シンジは目を瞬かせた。
「いいのか?」
「はい」
「セレーナが?」
「はい」
「本当に?」
「何度も確認しないでください」
セレーナは静かに言った。
だが、その声にはいつもの硬さがない。
「今日は、私も疲れました」
食堂が止まった。
ノーラが瞬きをする。
ミアがトレーを落としそうになって、慌てて抱え直す。
マーサがわずかに目を開く。
エドガーが、ゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
その返事は、どこか優しかった。
シンジも少し黙った。
セレーナが、自分の疲れを認めた。
それだけで、アリーシャの破壊力は十分に伝わった。
「なら、休むか」
「はい。シンジも休んでください」
「昼間に寝ると夜眠れなくなりそうなんだが」
「寝なくても結構です。横になって、体だけ休めてください」
「それ、考え事が増えるやつだな」
「では、考え事の内容をこちらで指定します」
「休息とは」
ルカが吹き出した。
セレーナは少しだけ口元を緩めた。
「ちょうどいいかもしれません」
「何が?」
シンジが聞く。
セレーナは、扉の方を見た。
アリーシャが嵐のように入ってきて、嵐のように去っていった扉。
その向こうには、今よりずっと前の記憶がある。
「アリーシャとは、学院で出会いました」
セレーナの声は静かだった。
食堂の空気が、少しだけ変わる。
さっきまでの笑いが、やわらかく奥へ引いていく。
「普通の友人でした」
ルカがすぐに反応した。
「そこ、普通なの?」
「普通です」
「今度こそ?」
「普通です」
シンジは軽く息を吐いた。
「聞いてもいいのか?」
セレーナは少し考えた。
いつものように即答しなかった。
そして、珍しく穏やかにうなずいた。
「先ほど、アリーシャのことを気になると言っていましたので」
「結構、根に持ってる!?」
「私もやることが無くなりましたので、よかったら昔話に付き合ってください」
◇
食堂を出る時、ミアがまだトレーを抱えていたことに気づき、ノーラが引き留める。
「ミア、それでもう顔隠さなくていいから、本来の使い方をして」
「あ、はい」
ミアは少し赤くなった。
マーサは何も言わず、冷めた紅茶を片づけ始める。
エドガーは廊下に出て、客室へ向かう道を静かに示した。
シンジが立ち上がろうとすると、すぐにエドガーがそばについた。
「お手を」
「悪い」
「当然の務めでございます」
シンジはエドガーの手を借り、ゆっくりと立ち上がった。
食堂を出る前に、ふと扉を振り返る。
アリーシャはもういない。
けれど、彼女が残していったものは、まだ食堂の空気に混ざっていた。
笑い。
疲労。
驚き。
そして、セレーナの昔話へつながる小さな鍵。
客室に着くと、シンジは素直にベッドへ横になった。
思っていたより、疲れているようだ。
ノーラとミアは茶を用意してから静かに下がった。
マーサは入口近くで一礼し、扉を半分だけ開けておいた。
セレーナはベッドのそばへ持ってきた椅子に腰を下ろした。
ルカは遠慮なく近くの椅子に座った。
「話しても?」
セレーナが尋ねる。
シンジはベッドに横になったまま、軽くうなずいた。
「ぜひ」
セレーナは小さく息を吐いた。
それはため息ではなかった。
記録を開く前の、静かな呼吸だった。
「では、学院の頃の話から」
セレーナはそう言って、少しだけ視線を落とした。
そこにあるのは、書類に残された記録ではない。
成績表にも、推薦状にも、巡回書記官の任命記録にも残らない。
ただ、彼女の中にだけ残っている、古い学院の記憶だった。
話は、石造りの廊下から始まった。
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