第53話 あれで辺境伯令嬢
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
アリーシャが去った。
扉は閉まった。
足音も遠ざかった。
それなのに、食堂にはまだ何かが残っていた。
紅茶は冷めている。
椅子が一脚、妙な角度でずれている。
セレーナの前の皿は、ほとんど手つかずだった。
ノーラは茶器を持ったまま固まっている。
その隣で、ミアは運搬用のトレーを抱えたまま、目だけをぱちぱちさせていた。
マーサは壁際で静かに立っているが、目だけが遠い。
エドガーはいつもの姿勢を保っていた。
ただし、その沈黙には、年季の入ったあきらめがあった。
シンジは、ゆっくり扉を見た。
「……すごい人だったなあ」
誰も否定しなかった。
それが、逆に怖かった。
「今の、嵐だよな」
「アリーシャ様です」
エドガーが静かに答えた。
「いや、名前じゃなくて」
「アリーシャ様でございます」
「エドガーさん?」
「それ以外の表現は、私の立場では少々」
シンジは察した。
老執事の沈黙は、逃げ道だった。
セレーナは片手で額を押さえている。
珍しく、完全に疲れていた。
「セレーナ」
「はい」
「あれ、いつもああなのか?」
セレーナは少しだけ黙った。
答えるべきか。
答えないべきか。
その間だけで、十分に答えになっていた。
「……昔からです」
「昔からか」
シンジは椅子の背に体を預けた。
勢いが引くと、体の痛みも少し戻ってくる。
だが、今さら口に出すほどではなかった。
「本日は」
ノーラが小さく言った。
「まだ、お静かな方だったと思います」
シンジはノーラを見た。
「あれで!?」
ノーラは困った顔で笑った。
ミアは運搬用のトレーを抱えたまま、小さくうなずく。
マーサは何も言わなかった。
言わないことが、いちばん雄弁だった。
その時だった。
扉の外で、小さな物音がした。
こつん。
ほんの小さな音。
だが、食堂の全員が反応した。
セレーナの手が記録板に伸び、記録板を胸に抱きしめた。
ちなみに、
セレーナの持っている記録板は鉄より硬く、木板より軽い素材と、前に聞いたことがある。
表面は謎のファンタジー要素?で保護されいるらしく、剣で斬りつけても傷ひとつ付かないと。
つまり、セレーナが記録板で叩くと表現するぐらいは、丈夫らしい。
意外と理にかなった打撃武器であり、物理防御に優れた防具でもあるとのこと。
まあ、巡回書記官がそれで戦うわけではないですがと、説明されたのを思い出す。
その記録板で、謎の防御姿勢をとるセレーナ。
それを横目に、ノーラが茶器を下ろす。
ミアが銀色のトレーをセレーナと同じように抱きしめる。
マーサが扉を見る。
エドガーが一歩だけ動いた。
シンジも思わず身構えかけた。
「……戻ってきた?」
「やめてください!」
セレーナの声が、今朝一番まじめだった。
ノーラが扉に向かい、そっと開けた。
扉の前に、ルカが立っていた。
大きな目を少し泳がせ、両手を胸の前で握っている。
完全に、入っていいのか逃げていいのか分からない顔だった。
「……ルカ?」
セレーナの声が低くなる。
ルカは即座に両手を上げた。
「待って。怒る前に聞いて」
シンジは眉を寄せた。
「なんでここにいるんだ?」
「そこからだよね。うん、私もそこから説明したい」
ルカは一歩、食堂に入った。
そして全員の顔を見て、すぐに一歩下がった。
「……やっぱり怒ってる?」
「怒ってはいません」
セレーナが言う。
ルカは少し安心した顔をした。
「なぜここにいるのかを聞いています」
「はい!」
ルカは背筋を伸ばした。
その顔には、これから不可抗力を証明する商人の覚悟があった。
「私、今朝ここに来る途中だったの。門の前で、さっき帰っていったお姉さんに会ったの」
「アリーシャに?」
セレーナの額に、再び指が当たった。
「たぶん、その人。名前を聞こうとしたんだけど、全然話を聞いてくれなかった」
シンジは嫌な予感がした。
ルカは続ける。
「私が、セレーナさんに用があるって言ったの。そうしたら、あのお姉さんが、あらちょうどいいわ、一緒に行きましょう、って」
「それで?」
「馬車に乗せられた」
「乗ったんじゃなくて?」
「乗せられたの。腕を引っ張られてそのまま馬車の中に……」
シンジは同情を込めた声で言った。
「手口が人さらいだ……」
ルカはさらに続けた。
「気づいたら隣に座ってた。気づいたら屋敷に着いてた。気づいたらあのお姉さんがどんどん中に入ってた」
「気づくのが遅すぎないか」
シンジが言うと、ルカは真顔で返した。
「気づく暇というか、理解が追いつかなかったんだよ!」
その一言に、屋敷組が誰も反論しなかった。
シンジは小さくうなずいた。
「説得力がある」
「でしょ?」
「ですが」
セレーナが冷静に差し込む。
「食堂には入ってきていませんでしたね」
「そこは私の常識が勝ったの」
ルカは胸を張った。
「屋敷の食堂に勝手に入るのはさすがにまずいと思って、扉の前でおろおろしてた」
「おろおろ」
「うん。入るべきか、帰るべきか、壁の模様になってやり過ごすべきか考えてた」
「壁の模様」
シンジは思わずつぶやいた。
ルカは真剣だった。
「そうしたら、さっきのお姉さんが出てきて、私を見るなり言ったの。あら、まだいたの? もう入っていいわよ、って」
食堂が静かになった。
エドガーが目を閉じた。
ノーラが小さく息を吐いた。
ミアがトレーを抱えたまま固まった。
マーサが、ほんの少しだけ肩を落とした。
セレーナは目を閉じた。
「アリーシャ……」
その声には、学院時代から積もった何かが含まれていた。
「つまり」
シンジは確認した。
「ルカも巻き込まれた側か」
「完全に巻き込まれた側だよ!」
「ようこそ」
「どこへ?」
「被害者同盟へ」
「やっぱり、そういう集まりだったの!?」
ルカはようやく食堂に入った。
◇
シンジは改めて、扉の方を見た。
そこにはもう誰もいない。
いないのに、まだいる気がする。
アリーシャという人は、存在感の置き土産が大きすぎる。
「あの人、何者?」
シンジが聞くと、セレーナは短く答えた。
「アリーシャ・エルドラン。辺境伯家の三女です」
「辺境伯家の三女!?」
「はい」
「……あれで?」
「失礼です」
セレーナの返事は早かった。
だが、否定の鋭さは少しだけ鈍い。
疲れが勝っている。
「辺境伯令嬢って、もっとこう、静かに笑って、扇子で口元を隠して、ほほほ、みたいな」
「偏見です」
「偏見なのは分かる。でも、あの人は『ほほほ』じゃなくて、『どけどけどけ』って感じだった」
ルカが口元を押さえた。
「シンジ、言い方」
「いや、本当に。扇子じゃなくて軍旗が似合う」
マーサが小さくうなずいた。
「分かります」
「マーサ」
「失礼いたしました」
やはり反省はしていない。
セレーナはため息をついた。
「学院時代の友人です」
「学院時代」
「はい」
「普通の友人?」
シンジが聞くと、セレーナは少しだけ視線を逸らした。
「……普通の友人です」
「その間は何だ」
「普通です」
「普通の範囲が広くない?」
「普通です」
「普通で全部押し通そうとするな!」
セレーナは何も言えなくなった。
「辺境伯家の三女で、学院時代の友人」
シンジは頭の中で情報を並べる。
「つまり、今も実家、えっと辺境伯邸にいるのか?」
セレーナは一瞬だけ黙った。
ルカが興味津々な目で見ている。
ノーラとミアは顔を見合わせた。
マーサは、そっと視線を外す。
エドガーは微動だにしない。
「……今は嫁いでいます」
「嫁いでる?」
シンジは言葉を繰り返した。
その瞬間、意味が頭に追いついた。
「人妻!?」
「言い方! それと、声が大きいです」
セレーナが即座にたしなめた。
シンジは口を押さえた。
だが、もう遅い。
ルカもシンジと同じように口を押さえている。
ノーラは肩を震わせ、ミアはトレーを抱えたまま口元を隠している。
マーサは笑いを堪えるように、ほんの少し上を向いていた。
屋敷組は驚いていない。
むしろ、その反応を何度か見たことがある顔だった。
「待ってくれ。あの勢いで、あの距離感で、あの恋バナの投石で、人妻?」
「何度も人妻と言わないでください。夫人です」
「そうだけど! でも、人づ……夫人、結婚しているのか!?」
「はい。成婚されて、二年目になります」
セレーナは淡々と言った。
事実が強い。
シンジの脳が追いつかない。
「ちなみに……旦那さんは、どんな人なんだ?」
「辺境伯軍第一騎士団団長のご子息です。アリーシャの幼馴染でもあります」
「ちゃんとした人だった!」
「当然です!」
「いや、アリーシャ……夫人なら、自分で決めて、周りを引きずって、最後に父親へ『決めたから』って事後承認を取りに行きそうだなと」
セレーナは少し黙った。
「……大きくは……間違っていません」
「間違ってないのか!?」
ルカは感心したように言った。
「シンジ、会ったばかりなのに分かるのすごい!」
「分からされたんだよ。あの圧で」
「それ……分かる」
ルカは深くうなずいた。
門前で捕獲された者の重みがあった。
「旦那さん、大変そうだな」
シンジがつぶやくと、ミアが小さく首を傾げた。
「でも、お慣れになっていると思います」
「慣れるんだ……」
「お子様も、たぶん」
ミアがそこまで言って、はっと口を押さえた。
セレーナがゆっくりミアを見る。
ミアはトレーを抱えたまま固まった。
「お子様?」
シンジが聞き返す。
ルカの目が、また輝いた。
セレーナは少しだけ息を吐いた。
「……去年、第一子が生まれています」
「母親なの!? 俺の知ってる母のイメージどこいった!?」
「シンジ! 思っていても言ってはいけません!」
今度こそ、ルカが声を出して笑った。
ノーラは、茶器を置いて後ろを向く。
ミアは銀色のトレーで顔を隠している。
マーサは真顔で下を向いているが、肩がわずかに揺れていた。
エドガーの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
シンジはそれを見逃さなかった。
「エドガーさん、今笑ったな?」
「気のせいでございます」
「笑った」
「職務上の表情でございます」
「便利だな、それ」
シンジは深く息を吐いた。
辺境伯令嬢。
奥方。
一児の母。
学院時代の普通の友人。
そして恋バナで人を刺して帰る人。
「属性が多い」
「何ですか、それは」
セレーナが眉をひそめる。
「説明しにくい。とにかく多い」
「アリーシャ様には、慣れが必要です」
ノーラがぽつりと言った。
全員がノーラを見た。
ノーラは慌てて口を押さえる。
「す、すみません」
「いや、分かりやすい」
シンジはうなずいた。
「アリーシャ夫人には慣れろ、か」
「まとめないでください」
セレーナが言う。
だが、やはり否定はしなかった。
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