第48話 知らない記憶
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
目を閉じても、雨の音が残っていた。
実際には、雨など降っていない。
窓の外で鳴っているのは、夜風に揺れる木の葉の音だけだ。
それなのに、真司の耳には、まだあの雨が降っていた。
小さな椅子。
濡れた園庭。
壁に貼られた子どもの絵。
母の迎えを待つ、小さな女の子。
そして、その隣に座る幼い自分。
「……知らない」
暗い部屋の中で、真司は小さく呟いた。
思い出せない、ではない。
忘れていた、でもない。
そもそも、自分の中にあるはずのない記憶だった。
雨の日に誰かの隣に座ったことぐらい、あったのかもしれない。
変身ヒーローの話をしたことも、あったのかもしれない。
けれど、あの心細さは自分のものではなかった。
母を待つ不安。
ひとり残されたような寂しさ。
隣に誰かが座ってくれた時の、胸の奥が少し温まる感じ。
あれは、自分の記憶ではない。
妻の記憶だ。
そう考えた瞬間、胸が苦しくなった。
知らなかった。
妻が、自分のことをそんなふうに見ていたことを。
そんな昔から、自分を覚えていたことを。
「なんでだよ」
問いかけても、答えはない。
黒沼に飲まれたからなのか。
仮界紋のせいなのか。
それとも、この世界の記録というものに触れたからなのか。
こちらに来てから聞いた言葉をいくつ並べても、納得には届かなかった。
ただ分かるのは、自分が知るはずのない妻の気持ちを、今、自分が見てしまったということだけだ。
夢を見た、ではない。
思い出した、でもない。
誰かの大事なものを、勝手に覗いてしまったような感覚があった。
「……悪いな」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
妻にか。
幼い妻にか。
それとも、何も知らずに隣でヒーローの話をしていた昔の自分にか。
真司は、ゆっくり息を吐いた。
眠れる気がしなかった。
けれど、体はまだ重い。
起き上がる力もなく、真司は暗い天井を見つめた。
ふと、視界の左端に淡い光が揺れた。
いつもの板だった。
【状態:睡眠中断】
【精神反応:高】
【記録照合:不安定】
「……お前、こういう時は静かにしててくれないかな」
真司は思わずぼやいた。
板は答えない。
ただ、文字だけが残る。
【照合対象:不明】
【記憶領域:未分類】
【警告:過負荷に注意】
「未分類ってなんだよ」
真司はため息をついた。
黒沼。
灰線。
白札。
灯文鳥。
仮界紋。
記録。
異邦人。
そして今度は、自分のものではない記憶。
異世界テンプレという言葉を、真司はもう軽く使えなくなっていた。
この世界には、制度があり、役割があり、人がいて、生活がある。
そこに自分は落ちてきた。
それだけでも手一杯なのに、自分の中に、自分ではない記憶まで入り込んでいる。
「勘弁してくれ」
声に出すと、少しだけ楽になった。
やがて、窓の外がわずかに明るくなり始めた。
雨の音に似ていた葉擦れも、朝の気配に紛れていく。
真司は結局、浅く眠ったのか、眠れなかったのか、自分でも分からないまま朝を迎えた。
◇
控えめなノックの音がした。
「はい」
返事をすると、少し間を置いて扉が開いた。
入ってきたのは、セレーナだった。
「おはようございます。お加減はいかがですか」
「おはよう。体は、昨日よりはましだと思う」
そう答えたところで、セレーナの視線が真司の顔に止まった。
「眠れませんでしたか」
早い。
真司は苦笑した。
巡回書記官の観察眼なのか、それとも単純に顔に出ているのか。
どちらにせよ、ごまかせる相手ではなかった。
「少し、変な夢を見た」
「夢ですか」
「たぶん、夢だと思う。いや、夢だと思いたい、かな」
セレーナは小さく眉を寄せた。
「黒沼接触後の精神反応として、悪夢や混乱した記憶を見る例はあります。内容によっては、記録した方がよい場合もあります」
記録。
その言葉に、真司は少しだけ身構えた。
妻の記憶。
それを、この世界の記録にしていいのか。
妻本人の許可もなく。
自分でさえ知らなかった大切なものを。
真司は、すぐには答えられなかった。
セレーナは、その沈黙を見て取ったのだろう。
記録板を出そうとはしなかった。
「無理に話さなくても構いません」
「いいのか」
「はい。今のシンジは、保護観察中です。観察は必要ですが、すべてをすぐに言葉にする義務があるわけではありません」
その言い方に、真司は少しだけ救われた気がした。
セレーナは職務の人だ。
けれど、職務だけの人ではない。
昨日、それを知ったばかりだった。
「一つだけ、聞いてもいいか」
「はい」
「自分の記憶じゃないものを見ることって、あるのか」
セレーナの表情が変わった。
驚きではない。
警戒に近い。
だが、真司を責めるものではなかった。
「普通ではありません」
「だよな」
「ただ、完全にあり得ない、とも言い切れません。黒沼、異邦人、仮界紋、記録照合。シンジには、通常の保護対象とは異なる要素が重なっています」
「重なりすぎだろ」
「はい」
真顔で頷かれて、真司は少しだけ笑いそうになった。
笑える状況ではない。
でも、笑わないとやっていられないこともある。
「その記憶は、危険なものでしたか」
「危険、ではないと思う」
「苦痛を伴うものですか」
「苦しい。けど、怖いものじゃない」
真司は言葉を探した。
雨の日。
小さな女の子。
ヒーローの話。
自分を見ていた妻。
「大事なものだったんだと思う」
セレーナは、静かに真司を見ていた。
「誰かの、かもしれない。俺の、かもしれない。まだ分からないけど」
「では、急いで記録しない方がよいかもしれません」
「そうなのか」
「記録は、形を与えます。形を与えることで守れるものもありますが、形にすることで変わってしまうものもあります」
真司は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
形にすることで変わってしまうもの。
たしかに、そうかもしれない。
あの記憶を今すぐ説明用の資料みたいに並べたら、何かが壊れる気がした。
「少し時間をくれないか」
「分かりました」
セレーナはすぐに頷いた。
「ただし、体調に影響が出る場合は教えてください。眠れない、食べられない、意識が混濁する、同じ夢を繰り返す。その場合は、私の判断で、記録板を通じて世界の記憶に照会します」
「世界の記憶?」
「記録板がつながっている先です」
「大層な名前だな。とりあえず、了解。任せた」
「任されました」
短い言葉だったが、真司にはそれがありがたかった。
全部を自分で判断しなくていい。
その事実は、思っていたより大きかった。
セレーナは少しだけ表情を緩めた。
「朝食の準備ができています。無理のない範囲で召し上がってください」
「今日もちゃんとした飯か」
「マーサが、昨日より少しだけ量を増やすと言っていました」
「それはありがたい」
真司は体を起こそうとして、少しだけ顔をしかめた。
すぐにセレーナが近づいてくる。
手を貸そうとしたところで、彼女は一瞬だけ迷った。
昨日までなら、職務として支えたのだろう。
だが今は、真司もそれを少し意識してしまった。
細い手。
白い指。
近づいた時に、かすかに香る石鹸のような匂い。
真司は内心で咳払いした。
違う。
今はそういう場面ではない。
お前は療養中のおっさんだ。
おっさん。
おっさん。
三回言ってもおっさんだ。
「大丈夫。ゆっくり起きる」
「分かりました。無理はしないでください」
セレーナは手を引いた。
その距離が戻ったことに、真司は少しだけほっとして、少しだけ残念に思った。
その残念さに気づいて、さらに自分で自分を殴りたくなった。
朝から忙しい心である。
「シンジ?」
「いや、なんでもない。体がまだ寝ぼけてるだけ」
「それなら、なおさら無理は禁物です」
「はい」
真司は素直に頷いた。
昨夜見た知らない記憶は、まだ胸の奥に残っている。
答えはまだ出ない。
けれど今は、朝食を食べるべきだと思った。
食べて、体を戻す。
分からないことを考えるのは、その後でいい。
真司はゆっくりと足を床に下ろした。
窓の外では、朝の光が木々の葉を照らしている。
もう雨の音はしなかった。
それでも胸の奥には、あの日の雨がまだ降っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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