第47.5話 閑話 妻との時間・雨の日
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
真司は、暗い水の底から浮かび上がるように、夢を見ていた。
知らないはずの景色だった。
小さな机。
低い椅子。
雨の匂い。
濡れた園庭。
壁に貼られた、子どもの絵。
そこにいるのは、真司ではなかった。
小さな女の子だった。
母の迎えが遅れて、彼女はひとりで座っていた。
外では雨が降っていた。
園庭は濡れていて、いつものように外では遊べない。
先生は忙しそうで、他の子たちはそれぞれ迎えが来て帰っていく。
ひとり残されているような気がして、彼女は膝の上で手を握っていた。
その時、男の子が隣に来た。
名前も知らなかった。
同じ組でもなかった。
ただ、いつも誰かと話していて、よく笑っていて、時々先生に注意されている男の子だった。
「雨の日って、外で遊べないからつまらないよね」
男の子は、勝手に話し始めた。
「でも、帰ったらテレビ見れるからいいんだ。今日、宇宙紳士セ・バスチャンやるんだよ。見てる?」
彼女は首を横に振った。
「知らない」
「そっか。すごいんだよ。主人公がね、こうやって」
男の子は立ち上がって、変身するようなポーズを取った。
彼女は驚いて、それから笑った。
男の子はそれに気をよくしたのか、また話し続けた。
敵がどうとか。
必殺技がどうとか。
仲間がどうとか。
途中から何を言っているのか、よく分からなかった。
でも、不思議と怖くなくなった。
雨の音はまだしていた。
母はまだ来なかった。
でも、ひとりではなくなった。
やがて、男の子の母が迎えに来た。
彼は鞄を持って立ち上がりかけて、彼女の顔を見た。
彼女は、たぶん寂しそうな顔をしていたのだと思う。
男の子は、自分の母に向かって言った。
「もう少しだけここにいたい」
母は困った顔をした。
けれど、男の子はお願い、と何度も言った。
それから彼は、彼女の母が迎えに来るまで、隣に座って話し続けた。
彼女の母が来ると、男の子は笑った。
「お母さん来てよかったね。じゃあね」
それだけ言って、自分の母と帰っていった。
名前も知らなかった。
でも、彼女は思った。
この子は、私が寂しかったことに気づいてくれたのかもしれない。
子どもの好きは、いつもそんな単純なところから始まる。
彼女は後で、その男の子の名前を知った。
真司君。
◇
小学校二年生になって、彼女は真司君と同じクラスになった。
その頃には、彼女の髪は腰のあたりまで伸びていた。
幼稚園の頃は、肩までの短い髪だった。
ズボンの方が好きだったし、走り回る方が性に合っていた。
けれど、彼女は知っていた。
真司君が、うさぎ組のミホちゃんみたいな、黒くて長い髪の女の子を見ていたことを。
だから髪を伸ばした。
スカートも履くようにした。
猫をかぶるつもりはなかった。
けれど、女の子として見てほしいという気持ちは、たしかにあった。
その努力は、小学二年生の春、思ったより早く実った。
新しい席替えで、真司君は彼女の斜め後ろになった。
授業中、何度か視線を感じた。
振り返ると、真司君は慌てて黒板を見る。
分かりやすかった。
休み時間、彼女が髪を結び直していると、真司君がぼそっと言った。
「髪、長いんだね」
彼女は、心の中で勝利の旗を立てた。
やった。
見た。
今、ちゃんと見た。
けれど、顔には出さない。
「うん。伸ばしてるの」
「ふうん」
「変?」
「変じゃない」
「じゃあ、どう?」
真司君は困った顔をした。
耳が少し赤くなった。
「……いいと思う」
彼女は、その日の帰り道、何度もその言葉を思い出した。
いいと思う。
それだけで十分だった。
その日から、彼女はひそかに作戦を始めた。
名づけて、真司君告白大作戦。
もちろん、紙に書いたわけではない。
作戦会議を開いたわけでもない。
けれど、彼女の中ではかなり真剣だった。
まず、真司君に女の子として見てもらう。
次に、話しかけやすい距離にいる。
でも、近づきすぎない。
最後は、真司君の方からちゃんと言わせる。
自分から好きと言うのは、嫌ではなかった。
でも、あの雨の日に寂しい自分を見つけてくれた男の子に、今度は自分の気持ちもちゃんと見つけてほしかった。
だから彼女は待った。
ただし、何もしないで待つ気はなかった。
給食当番の日、彼女が重い給食の鍋を持とうとすると、真司君は何も言わずに反対側を持ってくれた。
掃除の時間、机を運ぶ時もそうだった。
運動会の練習で彼女が転びそうになった時も、先に手を伸ばした。
鉛筆を忘れた日には、自分の短くなった鉛筆を一本貸してくれた。
大げさなことは何もない。
けれど、そのたびに彼女は嬉しかった。
真司君がこっちを見てくれた。
真司君が手伝ってくれた。
真司君が、私に気づいてくれた。
それだけで、その日の帰り道が少し明るくなった。
だから彼女は、もっと見てほしいと思った。
もっと話したいと思った。
そして、いつか真司君の方から、ちゃんと言ってほしいと思うようになった。
そこで、景色が揺れた。
雨の音が遠くなる。
教室の匂いが薄れていく。
彼女の胸の奥にあった小さな嬉しさだけが、妙にはっきりと残った。
◇
真司は目を覚ました。
見慣れない天井があった。
いや、見慣れないわけではない。
セレーナの家で与えられた、仮住まいの部屋だ。
異世界の夜は静かだった。
「……なんだ、今の」
真司は額に手を当てた。
夢だ。
そう思おうとした。
けれど、ただの夢にしては、あまりにも細かすぎた。
雨の日の教室。
幼稚園の椅子。
母を待つ女の子の心細さ。
自分に似た男の子が、変身のポーズを取る姿。
真司は覚えていない。
そんな雨の日のことも。
子供のころの妻が母を待っていたことも。
自分が隣に座っていたことも。
聞いたこともない。
なのに、夢の中では、それが確かなものとして胸に残っていた。
「俺の記憶じゃない」
真司は小さく呟いた。
では、誰の記憶なのか。
考えるまでもなかった。
あれは、妻の記憶だ。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
会いたい。
その気持ちは、ずっとあった。
けれど、今の夢は、それだけでは片づけられなかった。
恋しいから見た夢。
寂しいから作った願望。
そう言ってしまえば、簡単だった。
でも、違う。
あれは、妄想にしては静かすぎた。
願望にしては、自分に都合がよすぎなかった。
記憶にしては、自分の中になさすぎた。
「なんで、俺が知らない妻の記憶を見るんだ」
部屋の隅で、夜が沈黙していた。
答える者はいない。
真司はしばらく天井を見つめていた。
それから、ゆっくり目を閉じた。
胸の奥に、雨の音だけが残っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




