第47話 家であり、基地
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
廊下に、静かな空気が流れていた。
シンジは、照れくさそうに頭をかいた。
少し動いただけで肋骨が痛み、すぐに顔をしかめる。
「痛っ……こういう時くらい、かっこよく言わせてほしいんだけどな」
「無理をしないでください」
「分かってる」
シンジは小さく息を吐いた。
言葉を選び直す。
「俺はさ、この家に招いてもらえて、本当に安心したんだ」
「シンジ……」
「心の底から眠れた。誰かに起こされるためじゃなくて、眠っていい場所で眠れた」
セレーナは何も言わなかった。
「この世界で初めて、温かくてうまい食事を食べた。食べたら、身体だけじゃなくて、気持ちまで少し楽になった」
シンジは、窓の方へ視線を向けた。
夕方の光が、薄布越しに廊下へ落ちている。
「異世界に飛ばされて、右も左も分からなかった。不安で仕方なかった。怖い思いもした。痛い思いもした。何が正しいのかも、誰を信じていいのかも分からなかった」
そこで、一度言葉が止まる。
セレーナは、ただ静かに聞いていた。
「でも、今はこうして立ってる。飯を食って、寝て、まだ痛いだの寝具に負けるだの、くだらないことも言えてる」
シンジは、少しだけ笑った。
「それは、セレーナが俺を保護してくれたからだ」
セレーナの指が、かすかに動いた。
「私は、職務として」
「うん。そう言うと思った」
シンジはうなずいた。
「でも、その職務の中で、セレーナは俺を見捨てなかった。ここに連れてきてくれた。普通はしないことを、必要だと思ってやってくれた」
セレーナの唇が、少しだけ引き結ばれる。
「俺は、セレーナを責めてない」
「……」
「むしろ、感謝してる」
その言葉に、セレーナの目がわずかに揺れた。
「セレーナに会わなかったらって考えると、正直、怖い」
シンジは静かに言った。
「黒沼のそばで、誰にも言葉が通じないまま、怪しまれて、隔離されて、どこかで間違われて終わってたかもしれない。シュゼーレンみたいなやつに、もっと早く潰されてたかもしれない」
「そんなことは」
「分からない。けど、ありえたと思う」
シンジはセレーナを見た。
「だから、ありがとう」
セレーナは、動かなかった。
「俺を保護してくれて、ありがとう」
廊下が、しんと静まった。
「俺を、この家に連れてきてくれて、ありがとう」
セレーナの目に、光がにじんだ。
「出会ってくれて、ありがとう」
その一言で、セレーナは顔を伏せた。
何かをこらえるように、肩が小さく震える。
「……それは」
声が、少しだけ揺れていた。
「私が、言われていい言葉ではありません」
「なんでだよ」
「私は、もっと早く気づくべきでした。もっと早く、助けるべきでした。あなたを危険な場所へ置いてしまった。怖い思いも、痛い思いもさせました」
「それでも助けてくれた」
「でも」
「でもじゃない」
シンジの声は、強くはなかった。
けれど、まっすぐだった。
「俺は今、助かってる」
セレーナは顔を上げられなかった。
「セレーナがどう思ってるかは分からない。後悔してることも、悔しいこともあるんだと思う」
シンジは、少しだけ息を整えた。
「でも、俺から見たら、セレーナは助けてくれた人、命の恩人だよ。感謝してもしきれない」
セレーナの頬を、涙が一筋だけ伝った。
彼女はそれに気づくと、慌てて指で拭おうとした。
だが、うまく隠せなかった。
「……困ります」
「何が」
「そのようなことを言われると、記録が乱れます」
「記録の問題なのか?」
「心の、記録が」
言ってから、セレーナは自分で少しだけ目を伏せた。
シンジは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「それ、ちょっと詩人っぽいな」
「忘れてください」
「忘れない」
「忘れてください」
「無理だな。今のはいい言葉だった」
セレーナは、もう一度目元を拭った。
それでも、涙は完全には止まっていなかった。
「……シンジ」
「うん」
「こちらこそ」
セレーナは、ゆっくり息を吸った。
「信じてくれて、生きていてくれて、ありがとうございます」
その声は小さかった。
けれど、廊下にはっきり届いた。
シンジは少しだけ笑った。
「じゃあ」
彼は、照れ隠しのように廊下を見回した。
「ここは、セレーナの基地だな」
「基地?」
「そうだ。基地っていうのは、俺のいた世界では、外で動くための拠点とか、戻って立て直す場所って意味でも使ってたんだ」
「意味はこちらでもだいたい合っています」
「だから、セレーナが外で動くために戻る拠点だ。疲れたら休む。必要なものを整える。支えてくれる仲間がいる。食事も出る。戻れば、なんとかなる」
「戻れば、なんとかなる……」
「この基地があるから、セレーナは巡回書記官として外へ出られる。ここはセレーナを助ける場所で、セレーナが誰かを助けるための場所でもある」
セレーナは、その言葉をしばらく聞いていた。
やがて、ぽつりと言った。
「たしかに……」
「ん?」
「そう言われると、基地のような存在ですね」
シンジは小さく笑った。
「だろ」
「ですが、家です」
「そこは譲らないんだな」
「譲りません」
「じゃあ、家であり、基地」
セレーナは少し考えた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「悪くありません」
「採用?」
「検討します」
「また検討」
「記録板で叩く件よりは、前向きに検討します」
「それはよかった」
セレーナの表情は、まだ少し濡れていた。
けれど、さっきよりもずっと軽く見えた。
シンジはそれを見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
◇
客室へ戻るころには、シンジの足はかなり重くなっていた。
短い距離だったはずなのに、全身が鉛のようだ。
セレーナはすぐに気づいた。
「今日はここまでです」
「異議なし」
「珍しく素直ですね」
「基地見学で体力を使い果たした」
「家です」
「基地じゃなかったのか」
「検討中です」
「なるほど」
シンジは寝台に腰を下ろした。
少し沈む。
今度は驚かなかった。
エドガーがいつの間にか部屋の入口に立っていた。
「お疲れのようですね」
「はい。五分くらい歩いただけで、なかなかの敗北感です」
「回復には段階がございます」
「みんな同じこと言う」
「正しいからでございます」
エドガーの言い方が、マーサと少し似ていて、シンジは笑いそうになった。
「エドガーさん」
「はい」
「この家って、いいところですね」
エドガーは一瞬だけ目を細めた。
それから、静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
その返事には、使用人としての礼儀だけではないものが混じっていた。
長く守ってきた場所を褒められた者の声だった。
シンジは寝台に横になる。
今日はもう、十分だった。
部屋の外では、人の気配がする。
セレーナの声。
エドガーの低い返事。
遠くでマーサが誰かに指示を出す声。
ミアとノーラが動く小さな足音。
知らない世界の、知らない家。
けれど、そこには人の暮らしがあった。
シンジはゆっくり目を閉じる。
今度は、すぐには眠れなかった。
疲れているのに、心だけが少し起きている。
窓の外で、風が葉を揺らした。
かすかな音がする。
それは一瞬だけ、雨の音に似ていた。
シンジは、遠い日のことを思い出しかけた。
だが、その記憶はまだ形にならない。
柔らかい寝具の中で、彼は静かに息を吐いた。
明日になれば、また少し動けるかもしれない。
明日になれば、この家のことも、もう少し分かるかもしれない。
そんなふうに思いながら、シンジはゆっくりまぶたを閉じた。
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