第4話 一難去って、また一難
お読みいただきありがとうございます。
真司の異世界実務サバイバル、続きです。
「異世界初日から、ずいぶん濃いな……」
そう呟いて、自分の手を見る。
「……あれ?」
両手の指先。
黒いもの自体は付いていない。
なのに。
爪の際から指先へ向かって、皮膚の内側へ墨を流し込んだような黒い染みが残っていた。
「なんだ、これ」
擦ってみる。
落ちない。
「……痛っ」
冷たい。
氷を直接押し当てたような冷たさが、指先からじわりと奥へ染み込んでいく。
視界の左端に表示板が浮かんだ。
【状態変化を検出】
【両手指先:異常反応】
【原因:不明】
「原因不明って……」
さっきまで泣いていた小柄な少年が、真司の手を見た。
顔色が変わる。
「――!」
「え?」
少年が慌てて駆け寄ろうとした。
「待った!」
真司は両手を上げ、一歩下がる。
「人には触らない方がいいな、これ」
「――?」
黒くなった指を示し、自分と少年の間へ線を引くような仕草をする。
「俺が触った物も、使わない方がいい。たぶん」
意味までは伝わらなくても、少年は真司の手へ触れるのをやめた。
「そう。それでいい」
その時。
若い護衛が低い声を上げた。
「――!」
「今度は何だ?」
振り向いた真司の表情が固まる。
倒れている大男。
荷馬車に挟まれていた脚に、黒い筋が浮かんでいた。
「……あの人もか」
真司よりひどい。
足首の辺りから、細い黒い筋が幾つも脛へ伸びている。
若い護衛が険しい顔で何かを言い、小柄な少年も同じ言葉を繰り返した。
そして二人とも、街道脇の黒いものを指した。
表示板が淡く光る。
【周辺音声を照合】
【登録語候補:黒沼】
「……クロヌマ?」
真司も黒いものを見る。
「これの名前か?」
【詳細情報:未取得】
「名前だけね」
それでも一歩前進だ。
真司は自分の胸を指した。
「シンジ」
少年が瞬きをする。
「俺。シンジ」
「……シンジ?」
「そう!」
思わず顔がほころんだ。
少年も自分の胸へ手を当てる。
「ルカ」
「ルカ?」
「ルカ!」
「おお。ルカか」
真司が名前を呼ぶと、ルカの表情が少しだけ緩んだ。
ルカは続けて大男を指した。
「ガレン」
「この人がガレン?」
「ガレン!」
「よし。ガレンな」
真司も呼んでみる。
「ガレン」
大男が薄く目を開けた。
「……シンジ」
「おお、通じた」
ただ名前を交換しただけ。
それなのに、さっきまでの知らない人間ではなくなった気がした。
「よし。ガレンも助かった。あとはここから……」
離れよう。
そう続けようとした時だった。
ざわっ。
森が鳴った。
「……ん?」
鳥が一斉に飛び立つ。
馬が大きくいななき、太い口髭の御者が慌てて手綱を引いた。
若い護衛の反応は早かった。
腰の剣を抜く。
一瞬で、護衛の顔になる。
森の奥から低い唸り声が聞こえた。
「……なんだ?」
木々の隙間に影が動く。
現れたのは、狼に似た大きな獣だった。
灰色の毛。
泡混じりの涎。
ところどころの毛が黒く汚れ、目には獲物を狙う獣とは違う濁った光が宿っている。
続けて別の影。
さらに奥にも。
「……多いぞ」
視界に表示が広がった。
【周辺の移動反応を整理】
【正面:複数】
【右後方:茂み内に移動反応】
「右後ろ?」
真司が振り向く。
何も見えない。
だが、茂みの一部だけが不自然に揺れている。
その間に、正面の獣が走った。
「――!」
若い護衛が盾で受ける。
牙が盾へ食い込み、身体ごと押された。
剣が閃く。
獣がよろめく。
だが逃げない。
傷を負っても、また襲いかかろうとする。
「怯まない? 痛みを感じない生き物なのか……?」
【右後方:接近】
「そっちも来る!」
叫んでも通じない。
若い護衛は正面を見ている。
「なら……!」
真司は足元の石を拾い、若い護衛の右後ろへ投げた。
カンッ!
石が木の幹へ当たる。
若い護衛が反射的にそちらを向いた。
直後。
茂みから一頭が飛び出す。
「――!」
間一髪。
盾が牙を受け止めた。
「よし!」
若い護衛が獣を押し返す。
そして。
一瞬だけ真司を見た。
「これなら、気づいてくれる」
言葉は通じない。だが、注意を示す方法はある。
真司は表示板へ視線を戻した。
【左側:迂回する反応】
「今度は左か」
一頭が若い護衛を避け、荷馬車へ回ろうとしている。
狙いは。
「ルカ!」
ルカが振り向く。
真司は荷馬車の陰を指した。
「言葉が通じないって面倒だな!」
同時に石を拾う。
獣の少し前へ投げた。
ガッ。
地面に石が跳ねる。
獣が音へ反応し、真司へ顔を向けた。
「そうだ!こっち見ろ!」
真司が枝を振った。
「ほら! こっちだ!」
獣の進路がわずかにずれる。
その間にルカがガレンの陰へ入った。
若い護衛が追いつき、横から獣を盾で弾く。
「――!」
「ナイス!」
意味は分からないはずなのに。
若い護衛はまた真司を見る。
今度は一瞬ではなかった。
真司が投げた石。
避けた獣。
逃げたルカ。
そして自分が間に合った位置。
何かを理解したように、目が細くなる。
「あんちゃん頼むぞ。俺は――」
【戦闘:E】
「知ってるわ!でもさ、こういう時、何かに目覚めるとか――」
【戦闘:E】
「ダメ押し表示ありがとうな!くそっ!」
獣たちは止まらない。
正面へ集中すれば横から回る。
横を警戒すれば別の一頭が荷馬車へ向かう。
真司には剣術など分からない。
戦った経験もない。
だが。
誰がどこにいる。
誰が何を見ている。
どこが問題なのか。
そのまま進めばどうなるか。
そういうものを見ながら数手先を考え、答えを出していくことだけは。
これまでの人生で、嫌というほどやってきた。
仕事も、人も、現場も違う。
今回は相手が獣になっただけだ。
それをパズルゲームのように組み、チェスのように盤上の一手先を考える。
【左前方:二つの反応が接近】
「左!」
声では駄目。
石を投げる。
若い護衛が音へ反応し、一歩下がった。
直後、二頭の獣が同じ場所へ飛び込む。
互いの身体がぶつかった。
「今だ!」
若い護衛も分かった。
態勢を崩した一頭を盾で押し返し、もう一頭との間へ距離を作る。
「よし!」
もう一度。
石。
枝を打ち鳴らす音。
身振り。
真司は敵を倒さない。
倒せない。
ただ。
敵の見る方向をずらす。
味方が見る方向を変える。
危険になる前に、位置を少しだけ動かす。
それだけで、若い護衛が包囲される瞬間を何度も消していた。
やがて若い護衛の方から真司を見るようになった。
真司が石を握れば、その先を見る。
指差せば身体をずらす。
言葉など一つも通じていない。
それでも。
「なんか、通じてきたなあ」
だが、限界はある。
獣の数が多すぎる。
御者が馬車を出そうとした。
馬は進もうとする。
しかし。
がくん。
傷んだ車輪が大きく傾いた。
「くそっ!後から後から問題が増えてきやがる……」
無理に走れば壊れる。
ガレンは動けない。
ルカを置いて逃げるわけにもいかない。
若い護衛の息も上がってきた。
【後方:接近】
【右側:接近】
【正面:複数】
「多いって!」
真司が石を握る。
だが、どこへ投げる。
右を知らせれば後ろが空く。
後ろを向かせれば正面が来る。
「これじゃ……」
組み替える場所がない。
完全に押し込まれている。
若い護衛も分かっているのだろう。
ルカとガレンを背にし、盾を構え直した。
一歩も退かない。
真司も枝を握る。
「俺がやれることなんて……」
その瞬間。
一頭が横から飛び出した。
若い護衛は正面の二頭を相手にしている。
間に合わない。
獣は荷馬車へ。
ルカへ。
「ルカ!」
真司が前へ出た。
枝を構える。
「来るな!」
獣が跳ぶ。
その瞬間。
ドンッ!
空気が爆発した。
「うわっ!」
獣の身体が真横へ吹き飛び、街道を転がった。
「……は?」
風。
強烈な風が、一筋だけ街道を駆け抜けた。
馬蹄の音が近づく。
真司が振り向く。
一頭の馬。
その背にいるのは、女性だった。
銀灰色に近い淡い亜麻色の髪。
深い紺色の外套。
整った顔立ちに、白い肌。
やや切れ長な瞳の色は、淡い青灰色。
細身で、馬上のせいなのか、姿勢が凛として美しい。
緊迫した状況なのに、真司の口から思ったことがそのまま零れた。
「……すっごい美女が現れた」
女性は馬上から現場を見る。
獣。
若い護衛。
荷馬車。
ガレンとルカ。
黒沼。
そして。
石を握り、枝を持った真司。
視線が一瞬だけ止まった。
ちょうどその時。
【女性の左後方:茂み内に接近反応】
「そっち!」
当然、通じない。
真司は反射的に石を投げた。
女性の左後方。
茂みの手前へ。
石が跳ねる。
女性の視線が、その音へ動く。
直後。
獣が茂みから飛び出した。
女性の目が細くなった。
片手が上がる。
風が鳴った。
獣が空中で叩き飛ばされる。
「……すげえ」
真司は初めて見る魔法のようなものに、呆けたように呟いた。
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