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異世界テンプレを信じた俺がバカでした  〜ステータスは出た。スキルもあった。だが、ほぼ履歴書だった〜  作者: 小森こもり
第一章 ~転移~

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第3話 黒い泥と荷馬車

お読みいただきありがとうございます。


ここから真司は、異世界の現実に少しずつ触れていきます。

剣も魔法もない男が、見て、考えて、どう動くのか。

引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。


 助けを求めるような声だった。


 真司は枝を握ったまま、音のした方へ足を向けた。


 いきなり走り出しそうになる足を、意識して止める。


「待て。まず確認」


 知らない森。

 知らない土地。

 知らない相手。

 何が危険かも分からない。


 人の声がしたからといって、無防備に飛び込んでいい状況ではない。


 真司は木の幹に拾った石で浅く傷をつけた。

 少し進んでは、また目印をつける。


 戻るためだけではない。


 戻れると思い込まないためだ。


 森の中では、進むほど自分の位置を失う。

 会議でも現場でも同じだった。最初の前提をなくした話は、だいたい迷子になる。


 声は近づいていた。


 人の声。

 馬のような鳴き声。

 木が軋む音。

 何か重いものが、地面に食い込むような音。


 やがて、木々の切れ間が見えた。


 道だった。


 舗装などされていない。

 踏み固められた土の道だ。轍が二本、奥へ伸びている。


 その道の真ん中で、荷馬車が大きく傾いていた。


「……うわ」


 思わず声が漏れる。


 馬車の片側の車輪が、道の端に沈んでいる。


 荷台は斜めに傾き、積んであった木箱や袋が崩れかけていた。

 前方では馬が暴れ、革の綱を引きちぎりそうな勢いで首を振っている。


 馬の近くには、御者らしい男がいた。


 手綱を必死に押さえているが、馬は完全に怯えている。

 声をかけ、なだめようとしているものの、いつ引き倒されてもおかしくない。


 荷馬車の脇には、小柄な少年に見える人物がいた。


 薄茶色の髪。

 動きやすそうな旅装。

 泣きそうな顔で何かを叫びながら、倒れた男へ駆け寄ろうとしている。


 倒れているのは、大柄な護衛らしい男だった。


 片足が、沈んだ車輪の近くに取られている。

 顔を歪めているが、意識はある。


 その近くに、もう一人。


 少し若い護衛がいた。


 剣を抜きかけたまま、前へ出るか、下がるかで迷っている。

 目は大柄な男に釘づけだった。


 黒いものは、荷馬車の片側にだけあった。


 沈んだ車輪の下。

 割れた轍の底。

 そして、倒れ込んだ大柄な男の足元。


 そこだけが、まるで夜を流し込まれたように黒かった。


 泥。


 最初はそう見えた。


 だが、真司はすぐに違うと感じた。


 濡れた土の黒ではない。

 油の黒でもない。

 影の黒でもない。


 光を吸い込むような、底の見えない黒。


 泥だまりのように見えるのに、表面が不自然に揺れていた。

 風もないのに、波紋のようなものがゆっくり走る。


 その揺れを見た瞬間、真司の体の内側で何かが警告していた。


 あれは駄目だ。


 本能、というには少し違う。


 ぬかるみに沈んだ車輪を見て、事故の危険を察したのとは種類が違う。


 もっと深い場所。


 自分の体の中に、知らない誰かがいて、そいつが必死に鐘を鳴らしている。


 心臓の鼓動が早くなる。

 背中に冷たい汗がにじむ。


 理由は分からない。

 理屈もない。

 説明もできない。


 けれど、分かる。


 あれは、危ない。


 その確信だけが、先に真司の中へ突き刺さった。


 小柄な少年が、その黒いものへ近づこうとした。


「おい、待て!」


 真司は反射的に叫んでいた。


 当然、言葉は通じない。


 少年が振り返る。


 大きな目が真司を見た。


 驚き。

 警戒。

 それから、助けを求めるような必死さ。


 若い護衛も真司を見た。


 こちらは、驚くより先に剣を構えた。


「いやいや、敵じゃない」


 真司は枝を捨て、両手を上げた。


 通じるかは分からない。


 それでも、少なくとも武器を持っていないことは見せられる。


 若い護衛が何かを怒鳴る。


 大柄な男も、歯を食いしばりながら低い声で何かを言った。


 御者は馬を押さえるのに精一杯で、こちらを見る余裕もない。


 やはり言葉は分からない。


 ただ、状況だけは分かる。


 馬を落ち着かせる。

 荷を軽くする。

 大柄な男の足を抜く。

 黒い泥には触らせない。


 順番は、それしかない。


「分けろ。問題を分けろ」


 真司は小さく呟いた。


 それから御者を指さし、馬を指さした。


「馬! 馬を押さえろ!」


 御者には言葉が通じない。


 真司は手のひらを下へ向け、何度もゆっくり下ろした。


「静かに。落ち着かせる。そう、そうだ」


 御者は一瞬だけ真司を見た。


 それから仕草を理解したのか、馬の首の横へ回り込み、低い声でなだめ始めた。


 次に真司は、荷台へ走った。


 傾きの原因は、片側に寄った荷だ。


 全部を下ろす必要はない。

 今は少しでも重さを逃がせればいい。


 手近な袋を抱える。


「重っ」


 若返っているとはいえ、重いものは重い。


 真司は袋を反対側へ下ろした。


 それを見て、少年も動いた。

 小柄な体で袋を引きずり、真司の真似をする。


「そう、それでいい」


 通じてはいない。


 けれど、やることが分かれば人は動ける。


 若い護衛は、まだ大柄な男の方を見ていた。


 真司は若い護衛を指さし、次に黒い泥を指した。

 そして強く首を横に振る。


「今はダメだ。飛び込むな」


 若い護衛の顔が歪む。


 怒りか、焦りか、恐怖か。


 たぶん全部だ。


 何かを叫び返してくる。


 真司には分からない。


「今することはこっちだ! こっちを手伝え!」


 真司は自分と若い護衛を交互に指し、それから荷台を指した。


 押す仕草。

 支える仕草。


 若い護衛は歯を食いしばった。


 剣を鞘に戻し、真司の方へ来る。


 真司は大柄な男へ向かった。


 男は警戒していた。


 森から急に知らない男が出てきたのだ。

 普通なら怪しすぎる。


「怪しいのは分かる。でも今はそれどころじゃない」


 真司は自分の足を指さし、次に男の足を指さした。


 男は呻きながら、足元を見せた。


 片足が、車輪と地面の間に挟まれている。


 完全に潰れてはいない。

 だが、無理に引けば車輪がさらに沈みそうだった。


 しかも、黒い泥がその周囲にまとわりついている。


 真司は近くの枝を拾い、泥の端にそっと触れさせた。


 ぬるり、と黒が枝を這った。


「……気持ち悪いな」


 ただの泥なら、枝にまとわりつくだけだ。


 だがこれは違う。


 黒いものが、枝を伝うように上へ伸びた。

 まるで、触れたものを探っているようだった。


 真司は反射的に枝を放り投げた。


 枝は地面に落ち、黒い染みを広げながら嫌な音を立てた。


 その瞬間、周囲の空気が凍った。


 御者が低く呻く。

 少年が息を飲む。

 若い護衛が顔色を変える。


 なにより、枝を突っ込んだ真司自身が一番驚いていた。


 大柄な男は、真司と黒い枝を見比べていた。


 全員、この黒い泥が危険なものだとは知っている。


 黒いのが普通ではないことを見せるつもりだった。

 だが、想定以上だった。


「うわ、想像以上に危ないものだった……えっと、な? だから触るな」


 真司は全員に向けて、手を大きく振った。


 黒い泥を指し、首を横に振る。


「ダメ。これはダメ」


 言葉は通じない。


 だが、危険だということは伝わったらしい。


 真司は荷台を見た。


 荷を少し移したことで、傾きはわずかに変わっている。

 それでも車輪はまだ沈んだままだ。


 次は支点だ。


 馬車の構造など詳しくない。

 だが、沈んでいるものを力任せに引けば壊れることくらいは分かる。


 まず、重さを抜く。

 次に、動く方向を作る。

 沈む力を逃がす。

 それから引く。


 真司は太めの枝を探し、荷台の傾いた側へ差し込んだ。


 車輪を直接こじるのではない。

 荷台側を少しだけ浮かせ、挟まった足にかかる圧を抜く。


 真司は若い護衛を呼ぶように手を振った。

 御者にも目で合図する。


 少年には、下がるように示した。


 少年は嫌がった。


 だが、大柄な男が何かを低く言うと、泣きそうな顔で一歩下がった。


 真司は枝に両手を添えた。


 すぐには押さない。


 若い護衛と御者を見て、手のひらを下げる。


 待て。


 まだだ。


 真司は息を吸った。


「……それっ!」


 声と同時に、真司は全身で枝を押した。


 若い護衛も、御者も、意味ではなく勢いを読んだのだろう。

 ほとんど同時に力を込めた。


 荷台が、わずかに持ち上がった。


 大柄な男が呻く。


「まだ動くな!」


 真司は叫んだ。


 それから、空いた隙間へ別の短い枝を押し込む。


 車輪が沈む力が、少しだけ逃げた。


 もう一度。


 真司は若い護衛と御者を見る。

 枝を押す仕草。

 息を合わせるように、短くうなずく。


「押せっ!」


 言葉の意味は通じない。


 けれど、声の強さと体の動きは伝わった。


 三人の力が同時にかかる。


 荷台が軋む。


 若い護衛の顔が真っ赤になる。

 御者も歯を食いしばっている。

 真司の腕にも力が入る。


 その時だった。


 黒い泥が、ぬるりと動いた。


 大柄な男の足首へ向かって、細い筋のようなものが伸びる。


 触れたらまずい。


 そう分かっていた。


 分かっていたのに、男の足が沈む方が一瞬早かった。


「まずい!」


 真司は考えるより先に手を伸ばした。


 黒い泥に手を入れるつもりなどなかった。


 男の膝裏を掴む。

 足を引く。

 泥から離す。


 それだけのつもりだった。


 だが、男の体は重い。

 荷台は軋む。

 地面は滑る。

 黒いものは、まるでこちらの動きを待っていたように揺れた。


 真司の指先が、泥の表面をかすめた。


 冷たい。


 そう思った瞬間、痛みが走った。


 火傷とは逆だった。


 熱ではなく、体の内側から温度を奪われるような痛み。


「っ、くそ!」


 それでも、手は離さなかった。


 ここで離せば、大柄な男の足が持っていかれる。


 真司は歯を食いしばり、男の足を引いた。


 男も必死に体をよじる。


 若い護衛が叫ぶ。

 少年も叫ぶ。


 荷台が大きく軋み、差し込んだ枝が折れた。


 だが、その一瞬で大柄な男の足が抜けた。


 真司と男は、もつれるように地面へ倒れ込んだ。


 黒い泥が、すぐ目の前で波打っている。


 真司は男の肩を掴み、必死に後ろへ引いた。


「離れろ! 離れろ!」


 若い護衛が飛び込んできて、大柄な男の腕を取る。

 少年も小さな体で必死に引く。


 三人で泥から離れる。


 数歩下がったところで、ようやく真司は息を吐いた。


 大柄な男は荒い呼吸をしている。


 足から血が出ていた。

 腫れもある。

 折れているかもしれない。


 だが、生きている。


 少年は大柄な男にすがりつき、泣きそうな声で何かを言っていた。


 若い護衛は片膝をつき、大柄な男の肩を支えている。

 その顔は、怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。


 大柄な男は苦しそうにしながらも、若い護衛の頭を軽く小突いた。


 叱るような、安心させるような仕草だった。


 真司はその様子を見て、少しだけ力が抜けた。


「よかった……とは言い切れないか」


 だが、荷馬車はまだ傾いている。


 黒い泥は消えていない。


 そして真司の指先には、黒い染みが残っていた。


 まずは助けた。


 だが、終わったわけではない。


お読みいただきありがとうございます。


少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

次話もお付き合いいただければ嬉しいです。


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