第2話 森で目覚めた実務屋
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ここから真司は、自分が置かれた状況と向き合い始めます。
異世界に来たからといって、都合よく何かが解決するわけではありません。
真司は目の前の現実をどう判断して処理するのか?
その前に、目の前に現れたテンプレが……
土の匂いがした。
湿った草と、腐葉土。
頬に触れる風は少し冷たく、どこかで鳥が鳴いている。
堺井真司は、ゆっくりと目を開けた。
「…………」
木だった。
見上げても木。
右を見ても木。
左も木。
そして、やたらと青い空。
「……どこだ、ここ」
少なくとも、自宅のリビングではない。
ついさっきまで、妻とコーヒーを飲んでいた。
仕事のメールを見ていた。
妻が言った。
――楽しんでね。
それから景色が歪んで、光に飲まれて。
「いや……ちょっと待て」
真司は身体を起こした。
そこで違和感に気づいた。
「……ん?」
腰が痛くない。
もう一度、身体を捻る。
痛くない。
右肩を回す。
ぐるん。
「おお?回る!痛くないぞ」
もう一度。
ぐるん、ぐるん。
「おおお?」
二カ月前に発症した、あの忌まわしい五十肩が噓みたいに治っている。
膝も軽い。
試しに立ち上がる。
すっと立てた。
「……マジか」
その場で軽く屈伸する。
一回。
二回。
三回。
「痛くない」
調子に乗って、少し跳んでみた。
「おっ」
思ったより高く跳べた。
着地。
「…………」
真司は自分の両手を見た。
皺が減っている。
肌にも張りがある。
頬を触る。顎を撫でる。
「若返ってる?」
五十二歳。
老化という言葉が冗談ではなくなり、老眼鏡を妻に勧められ始めた男である。
身体だけ若くなる。
もしこれが夢なら、かなりサービスがいい。
「異世界転移で若返り……」
口にしてみる。
少し楽しくなってきた。
「……いや、あるぞ。こういうの」
小説でも漫画でもアニメでも見た。
異世界。
転移。
若返り。
ここから、
勇者。
剣聖。
大魔導師。
神様からのお詫びチート。
「まさか俺にも……」
そこで、真司の顔から笑みが消えた。
「……俺の朝はここじゃない……」
一気に現実へ引き戻された。
妻はどうなった。 自分だけが消えたのか。
家は。子供たちは。あの光は何だった。
「くそ……」
何も分からない。
真司はポケットを探った。
スマートフォン。
ない。
財布。
ない。
鍵。
ない。
「…………」
もう片方。
何もない。
「異世界転移、手荷物制限厳しすぎるだろ」
服まで変わっていた。
くすんだ色のシャツに丈夫そうなズボン。足元には革製らしい靴。
少なくとも、さっきまで家で着ていたものではない。
「スマホくらい持たせろよ……」
今や財布より重要な文明の利器である。
連絡、地図、検索、翻訳、暇潰し。
全部消えた。
「これは厳しいな……」
そこで左手に触れて、真司は止まった。
薬指。
指輪がある。
「……あ」
結婚指輪だった。 細かな傷まで同じだった。
長い間つけてきた、見慣れた銀色。
真司は無意識にそれを握った。
「……これは持ってきたのか」
なぜ指輪だけなのかは分からない。
だが、少しだけ安心した。
妻とつながっているものが、まだ手元にある。
「戻るからな」
誰に言うでもなく呟く。
「何とかして戻る」
方法は知らない。
場所すら分からない。
だが、それだけは決めた。
その時だった。
視界の左端が、淡く光った。
「ん?」
何かが浮かんでいる。
薄い板。
透明な画面。
「……来た」
真司の目が輝いた。
「来た来た来た!キターーー!」
これだ。
異世界転移といえば、これである。
ステータス。
能力。
スキル。
真司は期待を込めて画面を覗き込んだ。
【個体照合中】
名称:堺井 真司
年齢:52
肉体年齢:推定40前後
【現地適応段階:0】
身体:C
魔力:E
戦闘:E
精神:B
適応:A
「…………」
真司は一度画面を閉じるように目を逸らした。
もう一度見る。
変わらない。
「戦闘……E」
嫌な予感がした。
「魔力……E」
もっと嫌な予感がした。
「いや待て。まだスキルがある」
下を見る。
【技能候補:抽出のみ/使用不可】
情報整理
状況検分
課題抽出
工程管理
関係調整
販促設計
企画編集
信頼蓄積
「…………」
真司は黙った。
三秒。
五秒。
「履歴書じゃねえか!」
森に声が響いた。
「なんだよ販促設計って! 異世界で広告でも作れっていうのか!」
勇者は?
剣聖は?
大魔法使いは?
世界を滅ぼす禁断魔法とか。
一振りで山を割る剣技とか。
そういう胸躍るものはどこ行ったんだ!?
「工程管理って、お前……五十二歳の職務経歴そのままじゃねえか!」
さらに無情な表示が続く。
【言語適応:照合中】
【文字理解:未接続】
【操作権限:未接続】
【補助機能:制限中】
「未接続多すぎだろ!」
真司は画面を指で突いた。
すかっ。
指が抜けた。
「触れないのかよ!」
【操作権限:未接続】
「それは今見た!」
返事なのか偶然なのか分からない。
ただ画面だけが淡々と浮かんでいる。
真司は額を押さえた。
「異世界に来たのに、最初に見せられたのが五十二歳の職務経歴書って……」
せめて異世界くらい夢を見せてほしい。
肉体年齢が若返ったことだけが救いだった。
「まあ……身体Cなら、前よりマシか?」
知らないけど。
そもそもCがどの程度なのかも分からない。
真司はため息をついて空を見上げた。
それでも。
少しだけ、さっきより落ち着いていた。
何も分からない。
けれど、自分自身はここにいる。
身体も動く。
日本語らしき表示も読める。
そして、妻との結婚指輪もある。
「……よし」
まず生きる。
帰る方法を探すのは、その後だ。
何も分からない時ほど、一度に全部解決しようとしない。
分かることと、分からないことを分ける。
それはもう、仕事というより真司の癖だった。
「とりあえず、水と人だな」
人が安全とは限らないけれど。
一人で森をさまようより、まずは情報集めである。
真司は足元に落ちていた太めの枝を拾った。
「武器……」
構えてみる。
「……には見えんな」
どう見ても枝だった。
戦闘E。
枝。
真司は自分で悲しくなった。
「せめて木刀くらい寄越せよ」
その時。
森の奥で、大きな音がした。
ガタンッ!
「……ん?」
続いて、馬のいななき。
何か重いものが倒れる音。
そして。
人の叫び声。
真司の表情が変わった。
もう一度。
今度ははっきり聞こえた。
助けを求めるような声だった。
真司は枝を握り直す。
「……人がいる」
知らない場所。
知らない相手。
危険かもしれない。
それでも。
考えている間にも、もう一度悲鳴が響いた。
「くそっ」
真司は駆け出した。
身体は、驚くほど軽かった。
五十二歳の頭を乗せたまま。
四十歳ほどの身体が、森を走り始めた。
お読みいただきありがとうございます。
真司にできることは、まだ多くありません。
それでも彼は、見て、考えて、少しずつ状況を整理していきます。
「まさか異世界に来てまで自分の履歴書と経歴書を見るとは思わなかった」by真司
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




