第2話 森で目覚めた実務屋
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ここから真司は、自分が置かれた状況と向き合い始めます。
異世界に来たからといって、都合よく何かが解決するわけではありません。
真司は目の前の現実をどう判断して処理するのか?
その前に、目の前に現れたテンプレが……
土の匂いがした。
湿った草。
腐葉土。
少し青臭い葉の匂い。
それから、どこか遠くで水が流れているような音。
堺井真司は、ゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、木だった。
天井ではない。
見慣れたリビングの白い天井でもない。
蛍光灯でも、エアコンでもない。
枝。
葉。
その隙間から差し込む、やけに鮮やかな光。
「……どこだ、ここ」
声がかすれていた。
起き上がろうとして、腕に力を入れる。
その瞬間、真司は固まった。
腕が軽い。
いや、軽いというより、動く。
寝起きの重さがない。
肩の奥にいつもあった鈍い張りもない。
腰の下に沈んでいた古い痛みもない。
五十二歳の朝にしては、あまりにも体が素直だった。
「……いやいや」
真司は自分の手を見た。
知らない手だった。
皺が少ない。
血管の浮き方も違う。
指は自分のもののはずなのに、ずいぶん若く見える。
手の甲をこする。
頬を触る。
顎をなぞる。
髭の感触も違う。
「夢か」
そう言ってから、真司はすぐに否定した。
夢にしては、地面が痛い。
背中に小枝が当たっている。
ズボンに土がついている。
左手の指先には、草の汁のような青い汚れがついていた。
それに、匂いが濃すぎる。
夢でここまで森臭いのは、少し嫌だ。
真司は周囲を見回した。
森だった。
日本の里山とは違う。
木が太い。
葉が大きい。
苔の色が濃い。
地面には、見たことのない小さな花が点々と咲いている。
紫とも青ともつかない花びらが、朝露のようなものを抱えていた。
虫の声が聞こえる。
鳥の声もある。
けれど、知っている鳴き声ではない。
「……異世界、ってやつか?」
言葉にして、真司は額を押さえた。
五十二歳にもなって、何を言っているのか。
だが、他に説明がつかない。
さっきまで自宅のリビングにいた。
妻がいた。
コーヒーがあった。
仕事のメールを見ていた。
そして、景色が揺れた。
白い光。
妻の声。
自分の手が透けて。
そこから先がない。
真司は急に胸の奥をつかまれたような気がした。
「……おい」
妻はどうなった。
家は。
子供たちは。
あのリビングは。
真司は立ち上がろうとして、足元がふらついた。
若い体のように軽いのに、感覚が追いつかない。
車のハンドルだけ新品に替えられたような気持ち悪さがあった。
膝に手をつき、息を整える。
「落ち着け。まず状況確認だ」
仕事で何度も使った言葉を、自分に向けて言う。
混乱している時ほど、分ける。
分からないことを、分からないまま置く。
分かることから拾う。
感情と事実を混ぜない。
それができなければ、会議も現場も崩れる。
真司は一度目を閉じ、深く息を吸った。
分かっていること。
自宅ではない。
森の中にいる。
体が若返っている可能性がある。
服は、さっきまで着ていた部屋着ではない。
真司は自分の服を見下ろした。
くすんだ色のシャツ。
丈夫そうなズボン。
革に似た素材の靴。
上着は薄いが、作りは悪くない。
少なくとも、現代日本の既製品ではない。
ポケットを探る。
スマホはない。
財布もない。
家の鍵もない。
名刺入れもない。
「終わった」
思わず声が出た。
いや、まだ終わってはいない。
だが、かなり嫌な方向に始まっている。
次に、左手を見た。
薬指に、指輪があった。
結婚指輪。
それだけは、そこにあった。
真司は息を止めた。
指輪をそっと触る。
見慣れた銀色。
細かな傷。
長い年月で少しだけ丸くなった縁。
間違いない。
妻と同じ日に選んだものだ。
「……よかった」
それがここにあることに、なぜか救われた。
財布よりも、スマホよりも、名刺よりも。
それだけが残っている。
真司は指輪を握りしめた。
「戻る」
声は小さかった。
けれど、森の中で自分に言い聞かせるには十分だった。
「絶対に戻る」
その時だった。
視界の左端に、何かが浮かんだ。
「うわっ」
真司は反射的に後ろへ下がった。
目の前の空中に、薄い板のようなものが浮かんでいる。
透明な板。
いや、光の画面。
そこに、文字が並んでいた。
「……日本語?」
真司は恐る恐る覗き込む。
文字は読めた。
ただし、少し変だった。
頭の中で意味だけが合わさるような、
翻訳アプリを通した文章を直接脳に流し込まれているような、
不気味な読みやすさがあった。
【個体照合中】
名称:堺井 真司
年齢:52
肉体年齢:推定40前後
【現地適応段階:0】
身体:C
魔力:E
戦闘:E
精神:B
適応:A
【言語適応:照合中】
【文字理解:未接続】
【技能候補:抽出のみ/使用不可】
情報整理
状況検分
課題抽出
工程管理
関係調整
販促設計
企画編集
信頼蓄積
所有物:結婚指輪
状態:転移直後
分類:異邦人候補
真司は、しばらく黙ってそれを見た。
そして、こめかみを押さえた。
「……履歴書じゃねえか」
もっとこう、あるだろう!
勇者。
剣聖。
大魔法使い。
チートスキル。
神様のお詫び。
そういうものが。
だが、目の前に表示されているのは、妙に事務的な情報だった。
身体C。
魔力E。
戦闘E。
年齢52。
そのうえ、情報整理だの、工程管理だの、販促設計だの。
「職務経歴書までついてるじゃねえか!」
誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。
肉体年齢が推定40前後というのはありがたい。
ありがたいが、52という現実はきっちり残っている。
そして、長年の仕事で積み上げてきたものまで、
妙に冷静な項目名で抜き出されている。
世知辛い。
真司は画面を指でつつこうとした。
指は、何もない空間をすり抜けた。
触れない。
「操作できないのか?」
呟いた瞬間、画面が少し揺れた。
【操作権限:未接続】
【補助機能:制限中】
【記録領域:不安定】
【技能候補:未接続】
「未接続ばっかりだな」
つながっていないのは、こちらの理解の方も同じだった。
真司は周囲を見回した。
森は変わらず静かだった。
だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
まず水。
次に安全な場所。
それから、人。
いや、人が安全とは限らない。
相手が人間かどうかも分からない。
真司は足元を確認した。
靴は歩ける。
体も動く。
腹は空いていない。
喉は少し渇いている。
森の中で最初にすべきことは何か。
サバイバルの知識など、真司にはほとんどない。
動画で見た程度だ。
だから、仕事で覚えたことに置き換えて考えてみる。
移動するなら、目印を作る。
戻れなくなる動きはしない。
いきなり深追いしない。
段取りを飛ばした仕事は、だいたい事故る。
現場でも、会議でも、企画でも、それは同じだった。
準備のない実行は、勢いではなく無謀になる。
無謀は、だいたい誰かに後始末を押しつける。
真司は近くに落ちていた枝を拾った。
杖代わりにもなるし、草を払うのにも使える。
武器としては心もとない。
だが、素手よりはましだ。
もう一度、結婚指輪に触れる。
「……楽しんでね、か」
妻の声が耳の奥に残っている。
さすがに、これは楽しむには難易度が高い。
だが、泣き言だけで帰れるなら誰も苦労しない。
真司は息を吐いた。
「まず、生きる」
そう決めた。
戻るのは、その先だ。
その時、森の向こうで音がした。
枝が折れる音。
何かが走る音。
馬のいななきのような声。
それから、人の叫び声。
「誰かいるのか?」
真司は枝を握り直した。
胸の奥が、嫌な形で鳴っている。
声は、もう一度聞こえた。
今度は、はっきりと。
助けを求めるような声だった。
お読みいただきありがとうございます。
真司にできることは、まだ多くありません。
それでも彼は、見て、考えて、少しずつ状況を整理していきます。
「まさか異世界に来てまで自分の履歴書と経歴書を見るとは思わなかった」by真司
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




