第1話 朝のコーヒーが冷める前に
プロローグからお越しいただきありがとうございます。
ここから、おっさん堺井真司の物語が始まります。
剣も魔法も持たない現代人が、異世界で何を見て、どう考え、どう生き残ろうとするのか。
いきなりプロローグのような展開にはなりませんが、
これから地味なりに物語は進んでいきます。
最後までお付き合いください。
朝のコーヒーは、いつも少し熱い。
堺井真司は、リビングのテーブルに置いたマグカップを指先で少しずらし、ノートパソコンの画面を眺めていた。
昨日の夜に届いた相談メールが、開きっぱなしになっている。
件名は、ありふれていた。
新商品の販促について相談したい。
だが、本文を読み進めるほど、真司は眉間に皺を寄せていた。
売上が伸びない。
広告の反応が悪い。
営業が商品の説明に困っている。
書いてあることは、どこの会社でも聞くような悩みだった。
けれど、真司には別のところが引っかかった。
この担当者は、何を売ればいいのかで悩んでいるのではない。
何を信じて売ればいいのかで止まっている。
商品の特徴は並んでいる。
性能も書いてある。
価格も競合との比較もある。
それでも、肝心の「だから誰に届けたいのか」が見えない。
真司は、そういう引っかかりを見つけるのが昔から早かった。
長く勤めた会社を離れ、今は中小企業向けに販促や広報、企画編集の仕事を請けている。
肩書きはいくつもあった。
企画屋。
編集屋。
広報支援。
販促相談。
たまに、言葉にならない悩みの通訳。
相談は、いつも表に出ている問題だけとは限らない。
広告の相談に見えて、実は商品の魅力を社内で言語化できていなかったりする。
売上の相談に見えて、買う人の顔が見えていなかったりする。
営業資料の相談に見えて、本当に足りないのは資料ではなく、伝える順番だったりする。
会議で語られる課題と、言葉の奥に沈んでいる不安は、必ずしも同じではない。
だから真司は、人の話をよく聞く。
何を言ったかだけでなく、何を言わなかったかまで拾うように。
散らばった情報を並べ直し、伝わる形へ組み替える。
それが堺井真司の仕事であり、いつの間にか身についた癖でもあった。
本人に言わせれば、特別な力ではない。
ただの職業病だ。
「また難しい顔してる」
向かい側から妻の声がした。
真司は画面から顔を上げる。
妻は台所から戻ってきたところで、自分のマグカップを手にしていた。
長く連れ添った相手特有の、少し呆れたような、けれど柔らかい目をしている。
「仕事のメールだよ」
「朝から?」
「朝だからだろ。夜に見ると眠れなくなる」
「昨日も見てたじゃない」
「見ただけだ。考えたのは今朝だ」
「それ、同じじゃない?」
真司は反論しようとして、やめた。
だいたい、こういう時に勝ったことはない。
五十二歳。
数字にすると、それなりに重い。
子供たちはもう成人した。
息子は息子の人生を歩き、娘も娘なりに前へ進んでいる。
妻は相変わらず元気で、真司よりよほど背筋が伸びていた。
仕事も、ようやく形になってきた。
会社勤めを離れた時は、それなりに不安もあった。
だが長年の人脈と経験は、思ったよりも真司を支えてくれた。
もう若くはない。
それでも、終わったと言うにはまだ早い。
とはいえ、最近は同年代との会話で出てくる話題も変わってきた。
親の介護。
定年後の暮らし。
年金や保険。
誰かが病気をしたという話。
昔は遠い未来だったものが、いつの間にか現実の距離まで近づいている。
真司はマグカップを眺めながら、小さく息を吐いた。
「老後、か」
思わず口にすると、妻が眉を上げた。
「急にどうしたの」
「いや、そろそろ考えないとなって。保険とか、仕事の整理とか。ほら、俺ももう若くないし」
「そう言いながら、昨日も夜中まで漫画読んでたじゃない」
「漫画じゃない。電子書籍だ」
「そこは変わらないでしょ」
真司は小さく咳払いをした。
小説、漫画、アニメ、ゲーム。
年甲斐もないと言われれば、その通りだ。
だが、そこを手放すと本当に老け込む気がした。
最近は老眼で文字が少しつらい。
小説の細かい文字など、もはや敵に見える時がある。
「まあ、字が小さいのは世界の方が悪い」
「老眼鏡をかけなさい」
「夢がない」
「現実を見なさい」
その言葉に、真司は笑った。
現実なら、嫌というほど見てきた。
予算がないのに効果は欲しいと言う依頼主。
納期が近いのに素材が出てこない案件。
伝えたいことが多すぎて、何も伝わらなくなった広告。
怒っている本人も、何に怒っているのか分かっていない打ち合わせ。
それでも、ひとつずつほどけば形になる。
真司はそうやって生きてきた。
マグカップを手に取る。
コーヒーはまだ熱そうだった。
「楽しんでね」
ふいに、妻が言った。
真司はカップを持ったまま、顔を上げた。
「何を」
「仕事」
「急だな」
「急じゃないわよ。あなた、ずっと考えてた顔してたもの」
妻はそう言って、少しだけ笑った。
「失敗したらどうする、とか。もう若くない、とか。今さら始めてよかったのか、とか」
「……よく分かるな」
「何年一緒にいると思ってるの」
真司は返す言葉に詰まった。
仕事なら、もう少し気の利いたことが言える。
相手の不安をほどき、見通しを立て、必要なことを順番に説明できる。
けれど、妻の前では言葉が短くなる。
飾らなくていい相手だからだ。
無理をしなくても、分かってくれる相手だからだ。
「楽しめるほど、余裕があればいいけどな」
「あなたは大丈夫」
「根拠は?」
「私がそう思うから」
「強いな」
「昔からよ」
その通りだった。
昔から、妻はそうだった。
強く見せる人ではない。
けれど、真司が迷った時、いつも最後のところで背中を支えてくれた。
がんばれでも、きっと成功するでもなく。
楽しんでね。
その言葉は、真司の胸の奥に静かに落ちた。
「……ああ」
返せたのは、それだけだった。
その時だった。
窓の外が、揺れた。
「……なんだ?」
地震かと思った。
けれど違う。
揺れたのは窓ではない。
景色そのものだった。
リビングの向こうに、別の景色が重なっている。
木々。
深い緑。
見たことのないほど大きな葉。
窓ガラスに映っているのではない。
テレビの映像でもない。
現実の景色の上に、別の現実が薄く重なっていた。
「真司?」
妻の声が、遠くなる。
すぐそこにいるはずなのに、廊下の向こうから呼ばれたように聞こえた。
妻の輪郭から、色が抜けていく。
顔も、髪も、着ている服も、白い霧の向こう側に沈むように薄れていった。
「おい、待て」
立ち上がろうとして、手の中のマグカップを見た。
自分の手が透けていた。
湯気が、その指の向こう側を抜けていく。
「いやいやいや、待て待て待て」
理解が追いつかない。
耳の奥で、音が鳴った。
声、のようなもの。
『接続……不安定』
『個体照合……不可』
『転写率……異常』
「何言ってんだよ」
妻が立ち上がる。
真司へ手を伸ばす。
その手が、白い光に飲まれた。
「待て!」
世界が弾けた。
最後に見えたのは、テーブルの上に残されたコーヒーだった。
まだ、半分も飲んでいなかった。
お読みいただきありがとうございます。
次話から、真司は自分が置かれた状況を少しずつ理解していきます。
ただし、異世界テンプレのように都合よくはいきません。
展開は地味ですが、確実に前に進もうとするおっさん主人公の生き様を楽しんで頂ければと。
一話一話、意味のある要素を入れて、丁寧に作っていきます。
処女作なので粗い部分もあるかと思いますが、温かい目で見守ってくださいませ。
執筆中に思ったのですが、
物語のワンシーンを描写するにも、思ったような描写が出来なくて、
何度もトライ&エラーで書き直し中に、ふと思いました。
「本職の小説家さん、本当に大変だな」と。
次回作に半年とか一年二年かかるのも、なるほどなと納得しました。
そんな大作家を目指そうと烏滸がましく思っていませんが、
やっと自分の作品の本編スタート出来ましたので、
引き続き、お付き合いいただければ嬉しいです。
小森こもり




