第45話 初めての例外
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
目を覚ました時、部屋は少し薄暗くなっていた。
窓の薄布越しに、夕方の光が差し込んでいる。
シンジは、しばらく天井を見つめた。
高い天井。
知らない部屋。
柔らかい寝具。
痛みはある。
身体も重い。
けれど、頭の奥にあった濁った疲れは、少しだけ薄くなっていた。
誰にも起こされなかった。
格子を叩く音もない。
怒鳴り声もない。
笑い声もない。
ただ、静かな部屋で眠っていた。
それだけのことが、不思議なくらいありがたかった。
【睡眠回復:微量】
【療養を継続してください】
【水分摂取を推奨します】
視界の左端で、ボードが静かに表示された。
「微量かよ」
シンジは小さくつぶやいた。
あれだけ寝たつもりでも、回復は微量らしい。
身体というものは、便利なようで、そう簡単には帳尻を合わせてくれない。
「起きましたか」
声がした。
見ると、部屋の隅の椅子にセレーナが座っていた。
記録板を膝に置いている。
だが、今は何かを書いていたというより、静かに様子を見ていたようだった。
「いたのか」
「はい」
「ずっと?」
「途中からです。ルカは商会へ戻りました。明日また来るそうです」
「そっか」
ルカにも、帰る場所や仕事がある。
ずっと付き添わせるわけにはいかない。
それでも、明日また来ると言ってくれたことが、少し嬉しかった。
セレーナは立ち上がり、水差しから杯に水を注いだ。
「水です。ゆっくり飲んでください」
「ありがとう」
シンジは身体を起こそうとして、肋骨に小さな痛みが走った。
「ぐっ」
「無理に起きないでください」
セレーナがすぐに近づいて、背中に手を添える。
支え方が、妙に慣れてきている。
「なんか、介護される五十二歳だな」
「療養中の保護対象です」
「言い方が強い」
「事実です」
シンジは苦笑し、杯を受け取った。
水を少しずつ飲む。
冷たすぎず、ぬるすぎず、飲みやすい。
ただの水なのに、喉を通るだけで身体が落ち着いていく気がした。
「痛みはどうですか」
「ある。でも、さっきよりはましだ」
「熱は?」
「たぶんない」
「たぶんでは困ります」
セレーナは額に手を伸ばしかけ、途中で止まった。
シンジと目が合う。
セレーナはほんの少しだけ視線をそらした。
「……失礼します」
「今さら?」
「確認です」
セレーナの手が、そっと額に触れた。
ひんやりしていた。
その手が離れるまで、シンジはなぜか動けなかった。
「熱はなさそうですね」
「そうか」
「はい」
沈黙が一瞬だけ落ちた。
シンジはごまかすように咳払いをした。
「それで、セレーナ」
「はい」
「この家、広すぎて迷いそうなんだが」
「迷います」
「断言した」
「ですので、動ける範囲だけ先に説明しておきます。勝手に歩かれると困りますから」
「勝手には歩かない」
「そう言う人は、そう言いながら歩きます」
「信用が低い」
「一般的な対応です」
「一般的なのか」
「少なくとも、今のシンジには適用されます」
セレーナはそう言って、部屋の扉へ向かった。
「少しだけ歩けますか」
「たぶん」
「では、廊下までです。無理はしません」
「はい」
シンジは慎重に立ち上がった。
足元が少し頼りない。
だが、歩けないほどではない。
セレーナは横に立ち、いつでも支えられる位置を保っている。
過保護だ。
そう思ったが、口に出すのはやめた。
言えば、たぶん「保護です」と返ってくる。
◇
廊下へ出ると、屋敷の静けさがさらによく分かった。
人の気配はある。
だが、騒がしくはない。
遠くで食器の触れる音がする。
どこかで人の歩く気配がする。
それでも、全体としては落ち着いていた。
「この客室は、来客用の部屋です」
セレーナが説明した。
「来客用」
「はい。遠方から来られた方や、機関の方、同じ巡回書記官、支所や領府の関係者、教会の方などが泊まることもあります」
「完全に仕事関係の客なんだな」
「そうですね」
セレーナは少しだけうなずいた。
「ただし、誰でもここへ来るわけではありません。この家は相談窓口ではありませんから」
「そりゃそうだよな」
シンジは納得した。
「いきなりセレーナの家に来いって言われても、俺なら困る。普通は支所とか領府に行くよな」
「はい。通常の相談や訴えは、支所か領府へ行くものです」
「責任者の自宅へ突撃は、もう事件だ」
「事件です」
「だよな」
セレーナは少しだけ口元をゆるめた。
だが、すぐに視線を落とした。
「それに、保護対象をここへ泊めることも、普通はありません」
「そうなのか?」
「はい。通常なら、手続きを行った支所や領府が保護施設を手配します。治療院や、管理された宿舎を使うこともあります」
「じゃあ、俺は」
シンジは言いかけて、言葉を止めた。
セレーナが、静かに続きを引き取った。
「私の判断です」
「……そうか」
「他の巡回書記官が、自宅で保護対象を預かることがないわけではありません。ですが、私は今までしたことがありませんでした」
「初めてなのか」
「はい」
その返事は、少しだけ硬かった。
シンジは廊下の先を見た。
応接室。
執務室。
資料室。
客室。
そして、この家を支える人たち。
エドガーたちが驚いていた理由が、少し分かった気がした。
セレーナが誰かを連れてきたからではない。
セレーナが、自分の判断で、自分の家に誰かを招いたからだ。
「だから、エドガーさんたちも少し驚いてたのか」
「……おそらく」
「セレーナは、そういう特別扱いをしない人だったんだな」
「特別扱いは、判断を曇らせます」
セレーナはすぐに言った。
その言い方が、いかにも彼女らしかった。
「ですが」
そこで、言葉が止まる。
セレーナは一度だけ、シンジを見た。
「今回は、そうすべきだと判断しました」
シンジは、すぐには返事ができなかった。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「俺、結構すごいことされてるんだな」
「療養中の保護対象です」
「そういう言い方で逃げたな」
「逃げていません」
「逃げた」
「逃げていません」
少しだけ、空気がやわらいだ。
セレーナが選んだ、初めての例外。
その中に、自分はいる。
そう思うと、シンジの胸の奥が、また少しだけ熱くなった。
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