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異世界テンプレを信じた俺がバカでした  〜ステータスは出た。スキルもあった。だが、ほぼ履歴書だった〜  作者: 小森こもり
第二章 ~感情~

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第44話 まずは食べて寝ること

【前書き】


いつもお読みいただきありがとうございます。

異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。



 屋敷の中は、外から見た印象よりもずっと静かだった。


 高い天井。

 磨かれた床。

 壁に並ぶ燭台。

 奥へ続く廊下。


 どこを見ても、広い。


 そして、妙に落ち着いている。


 高級そうなのに、威圧感はない。

 立派なのに、冷たくはない。


 シンジは思わず足を止めた。


「……すごいな」


「何がですか」


「いや、家の中が、もう家じゃない」


「家です」


「そこは譲らないんだな」


「譲るところではありません」


 セレーナはきっぱり言った。


 その横で、ルカがきょろきょろと周囲を見回している。


「すごい……私、こんな家に入ったの初めて」


「俺もだ。たぶん人生で一番ちゃんとした建物に入ってる」


「シンジ様、こちらへ」


 エドガーが穏やかに先導する。


 その歩き方は、静かだった。


 床を歩いているのに、足音がほとんどしない。


 シンジは少し不思議に思った。


 執事って、足音まで執事なのか。


【療養に集中してください】


 視界の左端で、ボードがまた出た。


「分かってるよ」


 シンジが小さくつぶやく。


「ボードですか」


 セレーナがすぐに聞いてきた。


「ああ。また療養しろって」


「正しい表示です」


「ここにも味方がいない」


「味方はしています。だから療養してください」


「はい」


 シンジは素直にうなずいた。


 反論する気力も、そろそろ底をついてきた。


     ◇


 案内された客室は、一階の奥にあった。


 扉を開けると、柔らかな光が差し込んでいた。


 窓際には小さな机と椅子。

 壁際には衣装棚。

 部屋の中央には、広めの寝台。


 寝台。


 シンジはそれを見た瞬間、少しだけ立ち止まった。


 まともなベッドだ。


 檻の床でも湿った藁でもない。

 馬車のそばにあった箱台でもない。

 治療院の硬いベッドでもない。


 高そうな綺麗なシーツ。

 厚みのある高級そうな寝具。

 派手ではないが装飾された寝台。


 それが、そこにあった。


「どうしました」


 セレーナが心配そうに顔をのぞき込む。


「いや……ベッドだなと思って」


「はい。ベッドです」


「色々あったけど、やっとまともに寝られるんだなって……」


 そう言った瞬間、セレーナの表情がわずかに曇った。


 シンジはすぐに気づいた。


「あ、違う。責めてるわけじゃない」


「……分かっています」


「本当に、ありがたいと思っただけだ」


 セレーナは何か言おうとして、少しだけ口を閉じた。


 その代わり、エドガーが静かに言った。


「寝具は硬すぎないものを選んでおります。お身体に触るようでしたら、すぐに替えさせましょう」


「いや、十分すぎます。これ以上柔らかいと、俺の方が寝具に負けそうです」


「寝具に負けるの?」


 ルカが真顔で聞いた。


「今の俺なら負ける。たぶん沈む」


「沈まないように見張るね」


「頼もしいけど、絵面がちょっと情けないな」


 ミアとノーラが、部屋の奥で小さく笑った。


「湯と拭き布をお持ちします」


「着替えもこちらに」


 二人が手早く支度を始める。


 シンジは少し慌てた。


「あ、ええと、湯って、まさか今から風呂とか」


「今日は湯浴みではなく、身体を拭く程度です」


 セレーナが説明した。


「傷に触りますから、無理はさせません」


「なるほど。介護レベルが急に上がって、少し動揺した」


「必要なら、私がお手伝いいたします」


 エドガーが穏やかに言った。


「執事さんに世話されるのも、それはそれで情報量が多い」


「では、可能な範囲はご自身で。難しいところだけお申しつけください」


「それがありがたいです」


 シンジは心からそう言った。


 異世界に来てから、何かと情報量が多すぎる。


 黒沼。

 仮界紋。

 支所。

 収監施設。

 屋敷。

 執事。

 メイド。


 そして、今度は執事に身体を拭かれる可能性まで出てきた。


 人生というものは、五十を過ぎても知らないことが多い。


     ◇


 着替えと簡単な手当てが終わるころ、部屋の外から足音が聞こえた。


 ミアが扉を開ける。


 そこに立っていたのは、丸みのある体つきの中年女性だった。


 大きめの盆を持ち、いかにも台所から来ましたという顔をしている。


 髪は布でまとめられ、袖はきちんとまくってある。

 表情は明るく、目元には人を安心させる力があった。


「お嬢様、療養食をお持ちしましたよ」


「マーサ。その呼び方は」


「はいはい。今はお客様の前でしたね。セレーナ様」


「今は、という問題でもありません」


 セレーナが小さくため息をつく。


 マーサはまったく気にしていない様子で、シンジを見るなり眉を下げた。


「あらまあ。ずいぶん痛そうな顔をしてるじゃないですか」


「あ、シンジです。お世話になります」


「はいはい。今は挨拶より、まず食べることです」


 強い。


 シンジは直感した。


 この人は、エドガーとは別方向に強い。


「マーサです。この家の台所を預かっています」


「専属料理人さんですね」


「そんな大げさなものじゃありませんよ。食べる人がいるから作る。それだけです」


「それ、お母さんが言うやつだ」


「お母さんかどうかはともかく、今のあなたはまず食べて寝ること。難しい話はその後です」


 シンジは思わずセレーナを見た。


「この家、全員同じことを言う」


「正しいからです」


 セレーナが即答した。


 マーサは盆を机に置いた。


 湯気の立つ器には、細かな具の入った澄んだスープが入っていた。


 薄い色の汁に、細かく裂いた何かの肉と、柔らかく煮た根菜が沈んでいる。

 香草の匂いは強すぎず、胃に重くならないように整えられていた。


 ほかに、白めの柔らかいパン。

 蜂蜜を少し溶かした温かい飲み物。

 小さな皿には、煮崩れるほど柔らかくした果物が添えられている。


 シンジは、思わず盆の上を見つめた。


 黒パンではない。

 硬い干し肉でもない。

 薄いだけのスープでもない。

 麦粥でもない。


 ちゃんと、食事だった。


「本当は卵を使った柔らかい焼き物も出したかったんですがね」


 マーサは少し不満そうに言った。


「治療師から、今日はまだ軽めにしろと言われていますから」


「そこは守ってください」


 セレーナがすぐに言う。


「分かっていますよ、お嬢様」


「マーサ」


「セレーナ様」


 訂正が早い。


 目の前には、この世界に来て初めて、誰かが自分のために整えてくれたと分かる食事が置かれている。


 シンジは喉の奥を鳴らし、匙を手に取った。


 震える手でスープを少しすくう。


 熱すぎない。

 香りもきつくない。


 口に入れた瞬間、舌が驚いた。


 うまい。


 異世界に来て、初めて食べ物の味をちゃんと感じた気がした。


 この世界に来てから、食べたものを思い返す。


 硬い黒パン。

 麦粥。

 薄いスープ。

 干し肉。

 急いで口に入れた携帯食。


 どれも、その時の自分には必要なものだった。

 ありがたいものだった。


 けれど、これは違う。


 人の味覚を意識した、味を楽しませる食事だった。


「……うまい」


 声が小さく漏れた。


 マーサの顔が、ぱっと明るくなった。


「そうでしょう」


「本当にうまいな。びっくりするほど、うまいよ」


「大げさだねえ。元気になったら、もっとちゃんとしたものを出しますよ」


「これ以上ちゃんとしたものが出るんですか」


「出ます」


「ここは、天国ですか?」


「家です」


 セレーナが即座に訂正した。


「家の守備範囲が広い」


 ルカが笑った。


 マーサは満足そうにうなずき、セレーナへ目を向けた。


「よかったですね」


「何がですか」


「美味しそうに食べてくれて」


 セレーナは一瞬だけ言葉を失った。


 そして、ほんの少しだけうなずいた。


「……はい」


 その返事は、小さかった。


 けれど、シンジには聞こえた。


 ルカにも、たぶん聞こえていた。


 マーサはそれ以上何も言わず、ただ優しく笑った。


     ◇


 食事が終わるころには、シンジのまぶたは重くなっていた。


 腹が満たされた。

 身体が温まった。

 清潔な服に替えた。


 それだけで、急に眠気が襲ってくる。


「眠そうですね」


 セレーナが言った。


「眠い」


「寝てください」


「命令が直球」


「療養です」


「便利な言葉だなあ」


「便利ではなく、必要です」


 シンジは寝台に腰を下ろした。


 沈む。


 本当に少し沈んだ。


「おお……」


「沈んだ? 負けた?」


 ルカが目を丸くする。


「少しな。負けるほどじゃない」


「よかった」


 ミアが布団を整え、ノーラが窓の薄布を少し引いた。


 部屋の光がやわらぐ。


 エドガーは静かに扉の近くへ下がり、マーサは空になった器を満足そうに見ている。


 セレーナだけが、寝台のそばに残っていた。


「何かあれば、すぐに呼んでください」


「ああ」


「無理に起き上がらないでください」


「分かった」


「痛みが強くなったら、我慢しないでください」


「分かってる」


「それから」


「セレーナ」


 シンジが、少し笑った。


「大丈夫だよ」


 セレーナは言葉を止めた。


 それでも、まだ心配そうな顔をしている。


「ここなら、安心して休めそうだ。ありがとう」


 シンジは、部屋を見回した。


 清潔な寝具。

 湯の匂い。

 食事の余韻。

 窓から入る柔らかな光。


 そして、こちらを気にしている人たち。


「ちゃんと寝る。ちゃんと食べる。ちゃんと治す」


 セレーナの表情が、少しだけやわらいだ。


「約束ですよ」


「ああ、約束する」


【療養に集中してください】

【休息を推奨します】


 視界の左端で、ボードが静かに表示した。


「はいはい。おまえもな」


「ボードも寝ろって?」


 ルカが小声で聞いた。


「ああ。全方位から寝ろって言われてる」


「じゃあ寝ないとね」


「はい」


 シンジはゆっくり横になった。


 布団が身体を包む。


 痛みはまだある。

 疲れも残っている。

 不安だって、消えたわけではない。


 けれど、今は檻の中ではない。


 誰かに起こされるために目を閉じるのではない。


 眠っていい場所で、眠るために目を閉じる。


 それが、こんなにもありがたいことだったのかと、シンジは思った。


 意識が薄れていく。


 最後に聞こえたのは、マーサの小さな声だった。


「まずは食べて寝ること。それが一番です」


 その言葉に、誰かが小さく笑った。


 たぶん、セレーナだった。


 シンジは久しぶりに、自分の意思で目を閉じた。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。


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