第42話 私の家です
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
退院の日。
シンジは治療院の前で、ゆっくりと馬車に乗り込んだ。
まだ包帯は残っている。
顔の腫れも完全には引いていない。
肋骨のあたりは、深く息を吸うと少し痛む。
それでも、地下の檻にいた時とは違った。
空が見える。
風が通る。
座る場所がある。
それだけで、妙にありがたかった。
「無理に身体を動かさないでください」
セレーナが言った。
「分かってる」
「分かっている人は、乗り込む時に手すりを使います」
「使ったつもりだったんだが」
「つもりでは困ります」
「はい」
シンジは大人しくうなずいた。
向かいの席にはルカが座っている。
ルカは朝からやけにそわそわしていた。
「シンジ、本当に大丈夫?」
「大丈夫。痛いけど、生きてる」
「その言い方、全然大丈夫そうに聞こえないよ」
「まあ、動かなければどうにかなる」
「動かないでね」
「はい」
なぜか二人から同時に注意され、シンジは小さく肩をすくめた。
【療養に集中してください】
視界の左端で、ボードまで念を押してくる。
「分かってるって」
「また表示ですか」
セレーナがすぐに反応した。
「ああ。療養しろってさ」
「正しい表示ですね」
「味方がいない」
ルカが少し笑った。
馬車がゆっくり動き出す。
治療院の白い壁が遠ざかり、領都の通りが窓の外を流れていく。
市場へ向かう人。
荷車を引く男。
水桶を運ぶ女。
遠くで店の看板を出す少年。
当たり前の朝が、そこにあった。
シンジは、しばらく黙って外を眺めていた。
この世界に来てから、まともに街を見る余裕などほとんどなかった。
黒沼。
リーヴェ村。
ローデン。
検分。
支所。
シュゼーレン。
どれも、落ち着いて見ればきっと違う顔があったのだろう。
だが、シンジに残っているのは、逃げる、運ばれる、調べられる、閉じ込められるという感覚ばかりだった。
馬車の揺れが、今日は少しだけ穏やかに感じる。
「セレーナ」
「はい」
「君の家って、どのあたりなんだ?」
「領都の北側です。支所や領主館に近い区画ですね」
「へえ。職場に近いのは便利だな」
「便利ではあります」
セレーナは少しだけ目を伏せた。
「ただ、普通の民家とは……少し違います」
「仕事用の部屋でもあるってことか?」
「はい。資料の保管、来客対応、簡単な執務も行います」
「なるほど。事務所兼住居みたいなもんか」
「その理解で、おおむね間違いありません」
シンジは納得した。
事務所兼住居。
つまり、少し広めの家だろう。
領都の北側。
仕事場に近い。
資料も置ける。
ならば、日本で言えば士業の先生が住んでいるような、落ち着いた家だろうか。
そんなことを考えているうちに、馬車は大通りを外れた。
道は少し狭くなったが、舗装はむしろきれいになった。
建物同士の間隔も、少しずつ広がっていく。
そして、立派な門の前で馬車が止まった。
門が開いた。
人もいないのに、どうやって開いたんだ。
「ファンタジーだなあ」
思わずつぶやくと、馬車はそのまま門の中へゆっくり入っていく。
「ん? なんで入っていくんだ?」
セレーナは無言だった。
「あの……どこに連れていかれるのでしょうか?」
シンジは恐る恐る、セレーナに尋ねた。
そうこうしているうちに、建物の正面玄関らしき場所の前で馬車が止まった。
「着きました」
セレーナが言った。
シンジは窓の外を見た。
装飾された豪華な玄関。
玄関の向かいには、噴水のようなものがある。
噴水の手前から玄関までは、馬車寄せの屋根が伸びていた。
高級ホテルの入口のような造りだ。
そして……建物が、でかい。
「……セレーナ」
「はい」
「これは、家?」
「はい。私の家です」
「……お屋敷じゃねえかああ!」
思わず叫んだシンジの横で、ルカもぽかんと口を開けていた。
セレーナは平然としている。
平然としているつもり、なのかもしれない。
「普通の家よりは広いですが……」
「普通の家よりは、で済む広さじゃない」
「仕事の関係で、資料室や客間が必要なので……」
「門と庭と馬車止めは資料室に必要なのか?」
「来客対応に必要です」
「言い切った」
シンジは包帯だらけの顔で、もう一度建物を見上げた。
石造りの壁。
高い窓。
手入れされた庭木。
玄関まで続く広い道。
どう見ても、家というより屋敷だった。
ルカが小さな声でつぶやく。
「セレーナさん……」
「何ですか」
「いや、これ、セレーナさんって呼んでいいやつ?」
シンジが半分冗談で言うと、ルカが真顔でうなずいた。
「そうだね、シンジ。ここはセレーナ様だよ。支所の人たちも、みんなそう呼んでたし」
「そうか。俺、セレーナ様をずっと呼び捨てにしてたのか」
「かなり失礼だったかも」
「まずいな。謝罪した方がいいかな。セレーナ様? それとも、セレーナお嬢様?」
「やめてください!」
セレーナの声が、珍しく裏返った。
「これは領主から、住まいとして頂いた家です。ですから、私は貴族でも、お嬢様でもありません」
「でも、これだけの大豪邸……え? 頂いた? 貰ったの?」
「記録上は、私の家です」
「記録上って、セレーナの持ち物なのか!?」
「……そうです。ですが、仕事で使う部屋も必要ですし、来客もありますから」
「それで、このでっかい屋敷を貰えるって……」
「広い家です」
「……屋敷じゃなくて?」
「家です」
「言い方で押し切ろうとしてる」
その時だった。
玄関の扉が、静かに開いた。
白髪の老執事が、背筋を伸ばして一礼する。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
シンジとルカの動きが、同時に止まった。
二人は、ゆっくりセレーナを見た。
「……やっぱりお嬢様ですやん」
「やっぱりお嬢様だったんだ」
「違、違いますから!」
セレーナの声が、また少し裏返った。
老執事は表情を変えない。
だが、その目の奥に、ほんの少しだけ楽しそうな色が見えた気がした。
「お嬢様。お客様方を玄関先で立たせたままにされるのは、あまり感心いたしません」
「エドガー、その呼び方はやめてくださいと何度も」
「失礼いたしました、セレーナ様」
「それも今ここで言うと誤解を招きます」
「では、いつも通りに」
「だから、それが困るのです!」
セレーナは、両手で顔を覆った。
シンジは小さくルカに耳打ちした。
「やっぱり普段からお嬢様って呼ばれてるんじゃないか?」
「うん。確定だと思う」
「聞こえています!」
セレーナが、こちらをきっと睨んだ。
二人は同時に口を閉じた。
エドガーは、そのやり取りを黙って見ていた。
セレーナが客人の前で、ここまで声を乱す姿を、彼は見たことがなかった。
支所や機関の者と話す時の彼女は、いつも静かで、正しく、隙がない。
それは立派なことだった。
けれど今のセレーナは、少し頬を赤くし、困ったように眉を寄せ、シンジとルカの言葉に本気で慌てている。
エドガーは、ほんのわずかに目を細めた。
どうやら、お嬢様は良い方々と出会われたらしい。
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