第38話 怒っているからこそ
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
シンジが眠ったあと、セレーナは静かに立ち上がった。
応急処置は済ませた。
安眠の術もかけた。
命に関わる状態からは、ひとまず引き戻した。
だが、それだけだ。
この場所で何が行われたのか。
誰が見ていたのか。
誰が手を出したのか。
誰が止めなかったのか。
そして、なぜシンジがこんなひどい目に遭わなければならなかったのか。
それを明らかにするまで、関係者を誰一人としてここから出すつもりはなかった。
通路から入口付近の大きなホールへ出た。
そこには先ほどの囚人たちと看守たちがそわそわしている。
セレーナのペンを握る手に、力がこもる。
目を細め、周囲をゆっくり見回す。
視線を合わせないように下を向く者。
その場に崩れ落ちる者。
誰一人として、セレーナの視線に耐えられる者はいなかった。
その視界の端で、シンジが衛兵二人の手によって担架に乗せられ、こちらに向かっている。
ルカは、その横にぴったりとついた。
泣きすぎて顔はぐしゃぐしゃだった。
けれど、その目だけは、もうただ怯えているだけではなかった。
担架が運び出される直前、ルカは振り返った。
「セレーナさん」
「はい」
「私……シンジをこんな目に合わせた人たち、許せない」
声が震えていた。
怒りと悔しさと、何もできなかった自分への情けなさが混じっていた。
「でも、私には、その資格も力もないから」
ルカは涙を拭かずに、セレーナの目をじっと見た。
「セレーナさんに、任せます」
セレーナは、ゆっくりとうなずいた。
「私は、職務として、これを許すつもりはありません」
静かな声だった。
だが、地下にいた看守たちの肩が震えた。
衛兵二人も、足を止め背筋を伸ばした。
「そして、シンジを知る者として、とても怒っています」
「セレーナさん……」
「ルカ。私は巡回書記官です」
セレーナは、奥の檻を見た。
シンジが倒れていた場所。
湿った藁。
石の床。
格子の影。
「目の前の悪事を、許しません。逃しません。必ず償わせます」
ルカは唇を噛み、強くうなずいた。
セレーナは一呼吸置いてから、声を少しだけやわらげた。
「だから、シンジのことを頼みましたよ」
「……うん」
ルカは担架の横へ戻った。
衛兵たちも、ゆっくり丁寧にシンジを運び出す。
シンジが運び出される。
足音が遠ざかる。
ルカのすすり泣く声も、階段の向こうへ消えていく。
地下のホールに残ったのは、セレーナと、看守たちと、囚人たちだった。
誰も動かなかった。
さっきまで下卑た声をあげていた囚人たちは、床に伏せたまま息を殺している。
看守たちは壁際に並び、目を合わせようとしない。
セレーナは、ゆっくりと振り返った。
「では、記録します」
その一言だけで、地下の空気が凍った。
それと同時に、記録板が静かに光り出す。
「誰が、シンジに危害を加えましたか」
誰も答えない。
「誰が、彼をあの檻に入れましたか」
沈黙。
「誰が、あの状態の彼を見ていましたか」
看守の一人が唾を飲んだ。
セレーナは、その音のした方へ視線を向けた。
「答えないのですね」
「い、いえ、その……」
「では、今からこの場にいる全員の真偽を確かめます」
囚人たちがざわめいた。
その宣言に応じるように、記録板がゆっくりと点滅する。
「待ってくれ!」
「俺は知らねえ!」
「俺じゃねえ!」
「知らない、という言葉も確かめます」
セレーナの声は低かった。
「虚偽があれば、その場で審問に移します。隠した者も同じです。必要なら、この場で裁決します」
地下が静まり返った。
「即処罰も覚悟しなさい」
誰かが小さく悲鳴を漏らした。
看守長らしき男が、震える声で言った。
「しょ、書記官殿。ここは収監施設です。多少の揉め事は」
「揉め事?」
セレーナの視線が、その男に向いた。
ただそれだけだった。
なのに男は、喉を詰まらせたように黙った。
「今、あなたは、あれを揉め事と言いましたか」
「い、いえ、言葉の綾で」
「言葉を選びなさい」
セレーナは一歩近づいた。
外套の裾が、石の床をかすかに払った。
「顔が腫れ、全身に痣があり、檻の中で倒れていた保護対象を見て、揉め事と言いましたか」
「そ、それは」
「答えなさい。あなたは、あれを揉め事として扱っていたのですか」
看守長の膝が震えた。
「ち、違います」
「なら、何として扱っていましたか」
「……」
「つまり、機関が承認した保護対象に対して、誰も保護措置を取らなかったというわけですね」
その言葉に、周囲の看守たちの顔色が変わった。
セレーナの声は荒くなかった。
その代わり、銀色に光るペンが記録板の上を走った。
ひとつひとつの文字が、記録板から浮かび上がり、形を変えて、また板へ沈み込んでいく。
「シンジは、保護対象としてここへ送られた者です。罪人ではありません。罰を受ける者でもありません。あなた方の気晴らしに使ってよい人間でもありません」
看守長は答えられなかった。
その間も、セレーナが書いた文字は、浮かび上がっては、何度も記録板へ沈み込んでいった。
その沈黙と光景に耐え切れず、奥の方から声が上がった。
「あ、あいつだ!」
床に伏せていた囚人の一人が、別の男を指さした。
「そいつが最初に殴った! 飯も取った! 俺は見てただけだ!」
「てめえ、何言ってやがる!」
指された男が怒鳴った。
その瞬間、セレーナの指が動いた。
青白い光が床を走る。
怒鳴った男の足元に紋が浮かび、男の身体が床へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
「許可なく、発言を遮らないでください」
セレーナは言った。
「次は、口も封じ、決裁と処罰の対象にします」
誰も声を出さなくなった。
セレーナは、指を差した囚人に目を向ける。
「続けなさい」
「は、はい……二日目から、あいつらが飯を取って……皿を蹴って……それで」
セレーナの目が、ほんのわずかに細くなった。
食事を奪った。
その言葉を聞いた瞬間、セレーナの中に、別の光景が浮かんだ。
ローデンの宿で、両手をうまく使えないまま、ぎこちなく麦粥をすくっていたシンジ。
熱そうに息を吹きかけ、少しこぼしながら、それでもほっとした顔で食べていた。
うまいな、と。
そう言って、少しだけ笑っていた。
セレーナも、その時はほんの少しだけ笑い返していた。
あの人から、食事を奪った。
地下の空気が、さらに冷えた。
「食事を奪ったのですね」
「お、俺は少ししか」
「少し?」
セレーナは、床に伏せた男を見下ろした。
「四日間、見知らぬ場所に入れられた人から食事を奪い、それを少しと言いますか」
男は口を閉じた。
「あなたは、空腹の人間から食事を奪うことを、少しなら許されると思っているのですか」
「ち、違」
「違うなら、何ですか」
答えはなかった。
セレーナは視線を看守へ移した。
「看守。あなた方は見ていましたか」
誰も答えない。
「見ていた者は手を上げなさい」
動かない。
「では、真偽で確かめます」
その言葉に、三人の看守がほとんど同時に手を上げた。
「見ていました」
「止めませんでした」
「すみません、いつものことだと」
「いつものこと」
セレーナが繰り返した。
声はさらに冷えた。
「この施設では、弱い者から食事を奪うことが、いつものことなのですね」
「い、いえ、そういう意味では」
「では、どういう意味ですか」
看守は答えられなかった。
その沈黙を、別の囚人の声が破った。
「水もだ! 水の桶も蹴ってた! 看守が笑って蹴ってた!」
セレーナの視線が動いた。
「水も、ですか」
今度は、別の記憶が浮かんだ。
黒沼の近くで、シンジが必死に走っていた姿。
両手を不自然に揺らしながら、それでも転ばないように、息を切らして走っていた。
アースから水をかけられ、むせながらもおいしそうに飲んでいた姿も浮かぶ。
慣れない身体。
慣れない世界。
それでも、必死に生きようとしている姿に、胸の奥を揺らされた。
その人から、水まで奪った。
セレーナの指先が、わずかに震えた。
怒りではない。
怒りだけでは足りなかった。
「誰が水の桶を蹴りましたか」
誰も答えない。
「答えなさい」
床に伏せた囚人たちの中から、震える指が伸びた。
「あ、あいつです。桶を蹴ったのは、あいつで……あと、その看守も……」
「違う!」
看守が叫びかけた。
その瞬間、青白い光が床を走った。
看守の足元に紋が浮かび、男の身体が膝から崩れた。
「ぐっ……!」
「虚偽かどうかは、こちらが確かめます」
セレーナは言った。
「あなたが決めることではありません」
看守は口を閉じた。
別の囚人が、泣きそうな声で続けた。
「眠らせてもいなかった……夜に、格子を叩いて……声をかけて……反応すると、また笑って……」
セレーナは、目を閉じなかった。
閉じれば、また別の光景が浮かぶと分かっていた。
それでも、浮かんだ。
馬車のそばで、シンジが座っていた。
疲れ切った顔で、白い丸い手を膝の上に置き、目を閉じていた。
ルカが、あの手を可愛いと言っていた。
シンジは困ったような顔をしていた。
セレーナはその時、口には出さなかった。
けれど、少しだけ分かる気がした。
不器用で、頼りなくて、この世界にまだ慣れていない。
それでも懸命に生きようとしている、健気な人だった。
疲れ切った顔で目を閉じているシンジを見て、セレーナは思った。
早く、安心して眠れるベッドで、穏やかに休ませてあげたい、と。
そう思っていた人を、あんなにボロボロにして、さらに眠らせなかった。
シンジを……眠らせなかった。
セレーナは息を吸った。
胸の奥で、何かが音もなく燃えた。
「怪我を負った人間を、眠らせなかったのですね」
「ち、違う、遊びで」
「遊び」
その言葉を聞いた瞬間、地下にいた何人かが息を止めた。
セレーナの表情は変わらなかった。
それが、余計に怖かった。
「人が傷つき、食べられず、水も満足に飲めず、眠ることもできず、檻の隅で倒れていく様子を、あなたは遊びと呼ぶのですね」
「……」
「では、あなたの遊びがどの罪に当たるのか、今から確かめましょう」
男の顔が白くなった。
セレーナは周囲を見渡した。
「私は今、とても怒っています」
初めて、はっきりとそう言った。
「ですが、怒りであなた方を裁くつもりはありません」
看守たちは、わずかに息を吐きかけた。
その直後、セレーナの声が落ちた。
「あなた方がしたことを、あなた方がした通りに裁きます」
その場にいた全員が凍りついた。
「怒っているからこそ、ひとつも見逃しません。酌量の余地もありません」
青白い光が、地下の床を薄く走り、記録板はさらに強く光った。
「続けなさい。誰が何をしたのか、ひとつずつ話しなさい」
誰も、逆らう気力は残っていなかった。
皆、等しく絶望した表情をしていた。
囚人の一人が泣き出した。
「許してくれ、俺は命令されただけだ」
「誰に」
「そこの古株に……あいつが、異邦人は玩具にしていいって」
古株と呼ばれた男が顔を上げた。
「言ってねえ!」
「今から確かめます」
セレーナは即座に返した。
「嘘なら、彼の罪が増えます。本当なら、あなたの罪が増えます」
古株の口が閉じた。
「選びなさい。真実を話すか、真偽で暴かれるか」
地下には、もう怒鳴り声はなかった。
代わりに、震える息と、言葉を飲み込み切れない呻き声だけがあった。
セレーナは、奥の檻を一度だけ見た。
シンジが倒れていた場所。
その目に、また一瞬だけ涙が浮かびかけた。
だが、落ちなかった。
彼女はそれを許さなかった。
「続けます」
セレーナは言った。
「一人ずつ、何をしたのか話しなさい。虚偽、隠蔽、責任逃れは、その場で審問に移します」
さらに青白い光が、地下の床を薄く走り、男たちの足元に審問の紋を刻んでいく。
「絶対に逃がしません。覚悟を持って答えなさい」
その夜。
シュゼーレンの地下では、誰も眠れなかった。
男たちのむせび泣く声だけが、いつまでも響いていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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