第35話 帰るんだ
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
三日目には、誰かが真司の呼び方を決めた。
シンジではなかった。
異邦人でもなかった。
もっと汚い、もっと粗末な呼び方だった。
名前を奪うのは、簡単なのだと真司は知った。
相手を人として扱わなければいい。
ゴミ、と呼ばれる。
寄生虫、と呼ばれる。
ただ飯食い、と呼ばれる。
役立たず、と呼ばれる。
そのたびに、少しずつ自分の輪郭が削られていく気がした。
昼過ぎごろ、看守が檻の前で足を止めた。
「中を掃除する。出ろ」
そう言って、看守は鍵を開けた。
真司は立ち上がろうとした。
昨日からの痛みで、足に力が入らない。
「遅えよ」
看守が腕を掴む。
支えるためではなかった。
引きずり出すためだった。
真司は格子の外へ放り出され、通路の石床に膝をついた。
その瞬間、すぐ近くで声が上がった。
「出てきたぞ」
「おい、異邦人様。今日は歩けるのか?」
「セレーナ様に拾われたってのは本当かよ」
「だったら呼んでみろよ。助けてくださいってな」
笑い声が広がる。
看守は止めなかった。
それどころか、少し離れた壁に寄りかかり、ニヤニヤと見物していた。
檻の外に出されたことで、真司にはもう格子の守りすらなかった。
背中を押される。
よろめいたところを、腹に拳が入った。
「やめ……」
言葉が出た瞬間、息が詰まった。
世界が狭くなる。
音が遠くなる。
口を開けても、空気が入ってこない。
【警告:呼吸困難】
【警告:損傷蓄積】
【安全圏外】
視界の左端で、ボードが文字を並べた。
だったら助けろよ。
そう思った。
だが、言えなかった。
声を出せば、また笑われる。
声を出せば、まだ反応する玩具だと思われる。
真司は歯を食いしばった。
体を丸めてうずくまる真司に、男たちは笑いながら代わるがわる殴る蹴るの暴行を繰り返した。
身体のいたるところを殴られ、蹴られる。
物を投げつけて、当たったと喜んでいる者もいる。
息を吸おうとしても、断続的な衝撃でまともに呼吸ができなかった。
拳で殴る手が痛くなったのか、通路脇にあった掃除用の柄を持ち出す者もいた。
木の先が背中に落ちる。
太ももに当たる。
腕でかばえば、その腕にまた痛みが走った。
暴力は、ずっと続いたわけではない。
だが、終わったと思うたびに誰かが戻ってきた。
笑い声と足音が近づくたび、真司の体は勝手にこわばった。
夕食の鐘が鳴る頃になって、男たちはようやく飽きたように離れていった。
「いやあ、いい運動になったぜ。おかげで腹ペコだ」
「明日も生きてたら、また遊んでやるよ」
最後に一人が、通路に転がった真司の脇腹を蹴った。
足音が遠ざかる。
看守が面倒そうに鍵を開け、真司を檻の中へ戻した。
静かになった檻の中で、真司はうずくまったまま、動けなかった。
かすかに、ヒューヒューとしわがれた息が漏れている。
かろうじて生きている。
だがその姿は、ボロ雑巾という言葉をそのまま形にしたようだった。
口の中が切れているのか、鉄の味が口いっぱいに広がっている。
飲み込もうとしたが、むせて咳き込んだ。
「がはっ、ごほごほっ……」
口の中に溜まっていた血を、そのまま吐き出した。
床に血の跡がにじむ。
思っていた以上に、口の中に血が溜まっていたようだ。
片方の目が開かない。
もう片方の目も視界が滲んでいる。
その時、初めて自分が泣いていることに気づいた。
涙を拭こうにも手が動かない。
体を動かそうとするだけで、痛みが走る。
「……情けな……」
恐怖と痛みで、言葉がうまく口から出てこない。
その時、真司の腹が、ぐうっと鳴った。
こんな状態でも腹は減るんだな。
まともに食事を取っていないのだから当然だった。
意識が朦朧とする中、真司が振り絞った言葉は、それだけだった。
「……腹……減った……な……」
腫れていない片目から、涙がこぼれた。
◇
夜になっても、眠れなかった。
痛みで眠れない。
眠りかけると声で起こされる。
巡回の看守が格子を警棒で叩く。
看守の足音が響くだけで、身体がこわばってしまう。
水だけは、どうにか飲めた。
壁際に置かれた水の入った桶まで、芋虫のように這って行き、口を寄せるようにして飲んだ。
その様子を面白がって、檻の中に入ってきた看守に何度か桶を蹴られた。
惨めだった。
真司はその言葉を、頭の中で何度も噛んだ。
惨め。
情けない。
腹が減った。
痛い。
眠い。
寒い。
そして、帰りたい。
帰りたい。
それだけは、消えなかった。
妻の顔を思い出そうとした。
うまく思い出せなかった。
焦った。
声を思い出そうとした。
笑い方を思い出そうとした。
いつもの朝の台所を思い出そうとした。
痛みが邪魔をした。
怒鳴り声が邪魔をした。
石の冷たさが、記憶の中の湯気も、コーヒーの匂いも塗りつぶしていく。
やめろ。
そこまで、奪うな!
俺から……取らないでくれ……
真司は壁に額を預けた。
「帰るんだ」
声は、かすれていた。
「俺は、帰るんだ」
【目的:帰還】
【状態:継続】
【警告:身体損傷】
【警告:精神負荷増大】
【救助要請を推奨】
視界の左端で、ボードが淡々と文字を並べていた。
左側。
いつもなら、そこには妻がいた。
車に乗る時も、食卓に座る時も、歩く時も、気づけば彼女は真司の左側にいた。
今、その場所にいるのは、半透明のボードだけだった。
「誰にだよ」
真司は小さく笑った。
救助要請。
便利な言葉だ。
電話もない。
住所も分からない。
ここがどこかも分からない。
セレーナが知っているはずの場所ではない。
ルカは、きっと領都のどこかで普通に働いている。
自分がここにいることなど、誰も知らない。
誰に助けを求めればいい。
【救助要請を推奨】
【早急な治療が必要です】
【危険:放置継続】
「だから、誰にだって」
言い返す声に、力はなかった。
ボードはそれ以上、答えなかった。
ただ、視界の左端に残り続けた。
真司は、腫れた目を閉じた。
帰る。
帰るんだ。
それだけを、何度も頭の中で繰り返した。
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