第34話 シュゼーレン
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
馬車が止まった時、真司は窓の外を見た。
教会の印はなかった。
その時点で、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
だが、施設の場所を知らない真司には、それ以上の判断ができなかった。
目の前にあったのは、錆びた鉄の門だった。
門の内側からは、湿った石と、古い汗と、こびりついた怒鳴り声の匂いが流れてきた。
ここは違う。
そう思った。
だが、その違和感を言葉にする前に、背中を押された。
「入れ」
看守の男は説明しなかった。
真司が何者なのかも、どこへ送られるはずだったのかも、聞こうとしなかった。
ただ手にした札を見て、鼻で笑った。
「異邦人か」
その言葉に、周囲の空気が変わった。
奥の方で誰かが笑った。
別の誰かが鉄格子を叩いた。
「異邦人様のお着きだ」
「おい、こっちを見ろよ」
「なんだ。ただのおっさんじゃねえか」
真司は反応しなかった。
反応してはいけないと、身体のどこかが警告していた。
案内された場所は、部屋ではなかった。
石壁に囲まれた奥の区画。
床には藁が敷かれていたが、湿っていた。
何の湿りなのか、真司は考えたくなかった。
「ここで待て」
看守が鍵を閉める。
鉄の音が鳴った。
がちゃん。
その音は、やけに軽かった。
軽いのに、胸の奥へ沈んだ。
最初の一日は、まだ食事が出た。
固い黒パンのようなものと、薄い豆の汁。
味は薄く、具も少なかったが、腹には入った。
水も飲めた。
だから真司は、その時点ではまだ、ここが何かの手違いである可能性を捨てきれずにいた。
明日になれば確認される。
セレーナが指定した場所と違うなら、誰かが気づく。
そう思いたかった。
けれど、夜になっても誰も来なかった。
遠くで誰かが怒鳴っていた。
近くで誰かが笑っていた。
隣の区画からは、爪で石をひっかくような音がした。
真司は壁を背にして座り、両手を胸の前に抱えた。
手の甲には、見慣れない紋がある。
この世界で言葉を拾い、生きるための印。
だが、この場所では、それが別の意味を持つらしかった。
「見ろよ、その手」
「印まで入れてもらってるぞ」
「異邦人様はいい身分だな」
「どこの誰とも知れねえおっさんが、ずいぶん大事にされてるじゃねえか」
笑い声が広がった。
真司は、手を引っ込めた。
二日目。
食事は来た。
だが、真司の前には届かなかった。
木皿を持った男が、格子の前で足を止めた。
皿を床に置く。
その瞬間、横から伸びた腕が、パンを掴んだ。
「異邦人様には、必要ねえだろ」
男が笑った。
真司は立ち上がろうとした。
その足を、誰かが蹴り上げるように払った。
足が変な方向へ浮く。
倒れる寸前で床に手をつく。
「おっと。手は大事にしろよ。ありがたい印なんだろ?」
笑い声が重なった。
看守は見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
真司は床に落ちた汁を見た。
皿は蹴られ、汁は石のくぼみに流れていた。
腹が鳴った。
その音が、自分でも情けないほど大きく聞こえた。
【警告:栄養摂取不足】
【警告:睡眠不足】
【休息を推奨します】
視界の左端で、真司にしか見えない小うるさいボードが文字を並べた。
休息を推奨します。
その文字を見て、真司は笑いそうになった。
喉から出たのは笑いではなく、乾いた息だった。
「できるなら、とっくにしてる」
声に出してしまった。
近くの男が反応した。
「何をぶつぶつ言ってやがる」
真司は口を閉じた。
と、同時に腹を蹴られた。
息が出来ず、その場でうずくまった。
看守はその様子を周りの囚人と一緒に、笑いながら見ているだけだった。
昼を過ぎた頃、檻の前に数人が集まった。
「おい、独りぼっち異邦人、遊びに来てやったぜ」
「独り言いうぐらい、誰かと話したそうだったからな」
「かわいそうになあ。こっちの世界には友達がいねえもんな」
真司は黙っていた。
黙っていれば、飽きる。
そう思った。
だが、人は、黙っている相手にも飽きないことがある。
特に、自分より弱いと決めつけた相手には。
男の一人が、通路脇に立てかけてあった掃除用の柄を取った。
先には、泥をかき寄せるための小さな板が付いている。
男はそれを槍のように構え、格子の間から檻の中へ差し込んだ。
肩を突かれる。
鈍い衝撃が骨に響き、腕が一瞬しびれた。
脇腹を突かれる。
息が詰まり、肺から空気が押し出される。
真司は奥へ逃げようとした。
だが、檻は狭い。
壁に背中が当たったところで、逃げ場はなくなった。
もう一度、同じ場所を突かれた。
今度は痛みが遅れて広がり、内側から焼けるように熱くなった。
足首に柄の先が引っかかった。
引かれる。
踏ん張ろうとした足が滑り、膝が石に当たった。
鈍い音がして、骨に直接衝撃が走る。
そのまま体重が乗り、膝の奥で何かが軋んだ。
痛みより先に、屈辱が来た。
笑い声。
「おい、せっかく遊んでやってるんだから立てよ」
「異邦人様、足腰が弱いな」
「こっちに来る前は、寝て暮らしてたのか?」
真司は立ち上がろうとした。
立てなかった。
頭の中で、何かが冷えていく。
日本にいた頃、痛みを我慢する種類の人間ではなかった。
殴られた経験など、ほとんどない。
喧嘩が強いわけでもない。
誰かに胸ぐらを掴まれたことすら、仕事上の怒鳴り合いで一度あるかないかだ。
五十二年生きてきて、暴力とはニュースの向こう側にあるものだった。
それが今、格子一枚向こうから伸びてくる。
肩を突かれ、脇腹をえぐられ、足を払われる。
鉄越しに届く悪意が、体の逃げ場を一つずつ潰していく。
何度も、何度も。
やめてくれ。
そう言いかけて、真司は口を閉じた。
言えば、もっとやられる。
やめてと言えば、やめない人間がいる。
そのことを、真司は異世界で学んだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




