第17話 麦粥がうまい
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
ぐう。
馬車の影で目を閉じていたシンジの腹が、なかなか立派な音を立てた。
「…………」
ルカが振り返る。
シンジは何事もなかったような顔で目を閉じたままだった。
ぐううう。
「シンジ」
「はい」
「お腹減ったんでしょ」
「走ったから……」
「知ってる」
「身体は正直なんだね」
「なんか、違う意味で聞こえるのは、汚れた心のせいか!?」
「意味わかんない!」
ルカが笑う。
その音を聞きつけたのか、宿の方から女将の声が飛んできた。
「腹が減ってるなら、いつまでそこに座ってるんだい! 入んな!」
「おお、飯!」
急に元気になったシンジを見て、ルカが呆れた顔をする。
「今まで死にそうだったのに」
「飯と聞けば人は立てる」
「さっきまで足が営業終了したって言ってなかった?」
「臨時営業です」
◇
宿の食堂は、馬車溜まりとは違う賑わいに満ちていた。
仕事を終えた御者、明日の出立を相談する商人、酒を飲む護衛。
卓の間を料理が行き交い、焼いた肉やパンの香りが漂っている。
「……いい匂い」
シンジの腹が、また小さく鳴った。
「もう隠す気ないね」
「俺が鳴らしてるわけじゃないからな」
一行は奥の大きな卓へ案内された。
ガレンはまだ長く座っていられないため、宿側が用意した寝台で休んでいる。
セレーナが状態を確認してから食堂へ戻ってきた。
「ガレンは?」
「大丈夫です。食事も運んでもらいました」
「そっか」
ルカが安心したように息をつく。
ほどなくして、シンジの前へ湯気の立つ木椀が置かれた。
「今日はこれにしときな」
女将が置いたのは麦粥だった。柔らかく煮た麦に刻んだ野菜と、少しの肉が入っている。
「走り回ったあとに、いきなり脂っこいものを詰め込んで腹でも壊されたら面倒だからね」
「ありがたい」
シンジは素直に頭を下げた。
「いただきます」
そう言って、木匙へ手を伸ばそうとして……止まった。
「…………」
白く封止された両手。
木匙。
もう一度、両手。
「どうしたの?」
「いや……」
シンジはしばらく考えた。
「食事にも攻略法が必要なんだなと思って……」
「あっ」
ルカも気づいた。
両手は指まで覆われている。普通に木匙を握ることはできない。
セレーナが立ち上がりかける。
「私が食べさせましょうか?」
「待った」
「はい?」
「ちょっと挑戦させて」
シンジは丸く覆われた両手で、木匙の柄を左右から挟んだ。
「…………」
そっと持ち上げる。
ぷるぷる。
「おっ」
「すごく危なそうだけど……」
「いける!」
「本当に?」
「人類はこうやって進歩してきたんだ」
「絶対違うと思う」
麦粥へ木匙を入れる。
すくう。
そして両手で挟んだまま、慎重に持ち上げた。
ぷるぷる。
「シンジ……」
セレーナが心配そうに見ている。
「大丈夫」
「かなり揺れていますよ」
「こういう時は勢いが――」
「勢いで食べないでください」
「はい」
素直に速度を落とす。
口まであと少し。
あと少し。
ぽとっ。
「あぁ……」
木匙に乗っていた麦粥の半分が卓へ落ちた。
「…………」
シンジは落ちた麦粥を見つめた。
「尊厳がこぼれた……」
「麦粥だよ!」
ルカが吹き出す。
セレーナも口元を押さえた。
「まだ半分残ってる」
シンジは気を取り直し、今度はさらに慎重に木匙を口元へ運んだ。
そのまま食べようとして、ふと思い直す。
「熱いかな」
ふう、ふう、と息を吹きかける。
木匙は相変わらず少し揺れている。
それでも今度はこぼさず、ようやく一口を口へ運んだ。
ゆっくり噛んで、飲み込む。
シンジの肩から、ふっと力が抜けた。
「……うまいな」
笑った。
ほんの少し、安心したような笑顔だった。
ルカは、思わずその顔を見つめた。
朝からずっと馬車の横を走っていた。
両手が使えないのに、荷をどうにかする方法を考え、
ローデンでは売り方まで考えてくれた。
それなのに今は、麦粥を一口食べただけで、こんなに嬉しそうな顔をしている。
「……何?」
シンジがこちらを見た。
「ううん」
ルカは慌てて首を振った。
なんというか、ちょっとだけかわいい。
そんなことを思ったとは、絶対に本人には言わない。
◇
セレーナもまた、シンジを見ていた。
昼間に水を飲んだ時と同じだった。
顎から水を滴らせながら「うまい」と笑った。
今度は、木匙をうまく使えず麦粥をこぼしながら、
それでも自分で食べようとしている。
特別な料理ではない。
高価なものでもない。
それでも一口食べただけで、心から嬉しそうに笑う。
「セレーナ?」
「……はい?」
気づけば、シンジがこちらを見ていた。
「どうした?」
「いえ。美味しそうに食べるなと思って」
「美味しいからな」
「そうですか」
「うん」
シンジはもう一度、木匙を挟んだ。
今度こそ、と慎重にすくう。
少し持ち上げる。
ぽとっ。
「…………」
また一部が落ちた。
「手伝いましょうか?」
「まだ大丈夫」
「本当に?」
「次で人間の尊厳を取り戻す」
もう一度。
ぽとっ。
「…………」
「また落ちましたね」
「くっ……尊厳が遠い」
「ふふっ」
セレーナが吹き出した。
「笑ったな」
「すみません」
「最近、謝りながら笑うよね」
「誰のせいでしょう」
「俺かな?」
「はい」
「即答!?」
ルカまで笑い出した。
◇
時間はかかったが、シンジは最後まで自分で食べた。
何度か卓へこぼし、そのたびにルカとセレーナに笑われたものの、
木椀はちゃんと空になった。
「ごちそうさま」
シンジは大きく息を吐いた。
「食った……!」
「食事しただけなのに、なんでそんな達成感あるの?」
「両手を使わずに一杯食ってみろ。価値観変わるぞ」
「やらないよ」
女将が空いた椀を回収しながら、シンジを見た。
「腹はいっぱいになったかい?」
「はい。生き返りました」
「なら次は風呂だね」
「風呂!」
「その格好のまま寝るつもりじゃないだろうね」
シンジは自分を見る。
汗。
土埃。
昼間、アースに水を飲ませてもらった時の跡まで残っている。
「これは確かにひどい」
「他人を見るみたいに言うんじゃないよ」
「でも……」
シンジは両手を持ち上げた。
「これ、濡らしていいの?」
「駄目です」
セレーナが即答した。
「ですよね」
「封止部分は湯へ入れないでください。できるだけ濡らさないようにしてください」
「なるほど……」
シンジは少し考えた。
湯場。
身体を洗う。
両手は使えない。
「……俺、風呂でも尊厳無くさない?」
「尊厳が細かい男だね」
「いや、嫌な予感がする」
ルカが笑う。
「何するにも大変だね、その手」
「改めて手の偉大さを知ったよ」
「女性の方が先に使うそうです」
セレーナが立ち上がった。
「じゃあ俺は後か」
「はい」
「その間に攻略法を考える」
「お風呂に攻略法はいりませんよ」
シンジは両手を見せた。
「これを見てくれ、どう思う?」
「…………」
セレーナが少し考える。
「……考えておいた方がいいかもしれません」
「だろ?」
「認めちゃった」
ルカが笑いながら立ち上がった。
◇
ルカとセレーナが湯場へ向かい、シンジは食堂に残った。
椅子へ深く座り、丸く封止された両手を眺める。
「風呂か……」
黒沼。
魔獣。
隔離。
仮界紋。
見知らぬ世界での商売。
ほんの数日のことなのに、随分長い時間を過ごしたような気がする。
それでも、腹が減れば飯がうまい。
疲れれば風呂に入りたい。
ただの水を飲んで、美味いと思う。
そういうところは、元の世界と何も変わらないらしい。
「さて」
シンジは白く丸い両手を見た。
「どうやって身体洗うかな」
一方。
湯場へ向かうセレーナは、自分の荷物へそっと目を落とした。
中には、馬車の中で作った二つの布袋が入っている。
何度か縫い直してみたものの、左右の大きさは少し違う。
縫い目も綺麗とは言えない。
やはり、出来はよくなかった。
「…………」
それでも、シンジが湯から上がったら渡してみよう。
セレーナはそう決めて、湯場の扉を開けた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
真司の異世界生活は、まだまだ序盤です。
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