第14話 地面に描いた言葉
お読みいただきありがとうございます。
真司の異世界実務サバイバル、主役はルカです。
真司は………最後までお読みください。
夜が明けても、真司は灰色の線の内側にいた。
朝の光は、村の屋根を淡く照らしている。
門の内側では、すでに人が動き始めていた。
水を運ぶ音。
木戸を開ける音。
誰かが小さく話す声。
村の朝だった。
けれど、真司のいる場所は、まだ村の外だ。
灰線の内側。
門の前。
黒沼反応者の待機場所。
状況はあまり変わっていない。
ガレンは戸板の上で眠っている。
呼吸は浅いが、昨夜よりは少し落ち着いているように見えた。
ルカはそのそばで膝を抱えていた。
若い護衛は、眠ったのか眠っていないのか分からない顔で周囲を見ている。
御者は馬の様子を確認していた。
セレーナの姿は、今は門の内側にある。
何かを確認しているのだろう。
あるいは、また記録しているのかもしれない。
真司は小さく息を吐いた。
自分がこの後どう扱われるのかも分からない。
ガレンをどこへ運ぶのかも分からない。
村の中へ入れるのか、このまま追い返されるのかも分からない。
分からないことばかりだった。
分からないまま待つ時間は、妙に長い。
◇
しばらくして、ルカがやって来た。
昨夜より少し顔色は戻っているが、目元には疲れが残っている。
短く切った栗色の髪は、寝癖のように跳ねていた。
ルカは灰色の線の外側に腰を下ろした。
真司から手の届かない距離。
けれど、遠すぎるわけでもない。
何かを話すには近い。
触れないようにするには遠い。
そういう距離だった。
「ルカ」
真司が呼ぶと、ルカは小さく頷いた。
「シンジ」
名前だけは通じる。
それが、今の二人にあるほとんど全てだった。
ルカはしばらく真司を見ていた。
何か言いたそうだった。
だが、言葉がない。
真司にも、言葉がない。
沈黙が落ちる。
気まずい。
ルカは少し考えたあと、近くに落ちていた細い枝を拾った。
そして、地面に何かを描き始めた。
丸い胴体。
四本の足。
長い首。
雑だが、何となく分かる。
「馬か?」
真司が言うと、ルカは絵を指した。
「馬」
現地の言葉だった。
真司には音しか分からない。
だが、その瞬間、視界の左隅に板が浮かんだ。
【対象:馬】
【現地語照合:進行】
【登録語候補:馬】
「お」
真司は思わず身を乗り出した。
ルカはもう一度、馬の絵を指す。
「馬」
真司も真似る。
「馬」
発音はたぶん怪しい。
だが、ルカは少しだけ目を丸くしたあと、ぱっと表情を明るくした。
頷く。
通じた。
「馬」
真司がもう一度言うと、ルカは嬉しそうに笑った。
その笑顔に、真司は少し救われた気がした。
昨日からずっと、恐怖と緊張と警戒ばかりだった。
初めて、普通の年頃の人間らしい顔を見た気がする。
◇
ルカは次に、丸いものを描いた。
小さな袋のような絵。
「水」
ルカが言う。
「水」
真司が返す。
【対象:水】
【登録語候補:水】
次に、細長い塊。
「パン」
「パン」
【対象:パン】
【登録語候補:パン】
小さな家。
「家」
「家」
【対象:家】
【登録語候補:家】
道。
「道」
「道」
【対象:道】
【登録語候補:道】
真司はだんだん面白くなってきた。
言葉を覚えている。
この世界の音が、少しずつ物と結びついていく。
今まで目の前にあったものが、名前を持ち始める。
名前がつけば、記憶に残る。
記憶に残れば、考える材料になる。
地味だ。
ものすごく地味だ。
だが、真司には分かった。
これは、仕事でいうところの用語表づくりだ。
専門用語が分からない新人に、まず現場の言葉を覚えさせる。
道具の名前、場所の名前、人の役割。
それが分からなければ、指示も相談もできない。
「異世界でも、まず用語集か」
真司は苦笑した。
通じない。
けれど、ルカは真司が何かを理解し始めていることだけは分かったらしい。
少し得意そうに、次の絵を描き始めた。
今度は、人の形だった。
大きい人。
その横に、小さい人。
近くでは、村の子供たちが柵の内側からこちらを見ていた。
兄妹だろうか。
年上の少年が、小さな女の子の手を引いている。
ルカはその二人を指した。
まず、少年を指す。
「男」
次に、女の子を指す。
「女」
真司は頷いた。
「男。女」
【対象語:男/女】
【分類語登録:進行】
ルカが笑う。
真司も少し調子に乗った。
単語だけではない。
二つつなげれば、簡単な言葉になるかもしれない。
真司は自分を顎で示した。
「シンジ」
次に、少年を指して覚えたばかりの言葉を言う。
「男」
ルカは頷く。
正解らしい。
真司は少し嬉しくなった。
「シンジ、男」
ルカがまた頷いた。
通じる。
なら、もうひとつ。
真司はルカを指した。
「ルカ」
ルカは自分を指し、頷く。
「ルカ」
真司は、覚えたばかりの単語を続けた。
「男」
ルカの笑顔が止まった。
「……」
空気が、一瞬で変わった。
真司は気づかなかった。
いや、気づくのが遅れた。
うまく言えたと思ったのだ。
だから、念を押すようにもう一度言った。
「ルカ、男」
ルカは自分を指した。
「男?」
声が低かった。
今までの明るさが、すっと引いている。
真司はそこで、ようやく何かがおかしいと気づいた。
「え?」
【誤認】
【訂正推奨】
【謝罪推奨】
「……は?」
【対象:ルカ】
【性別分類:女】
【直前発話:不適合】
【謝罪推奨】
「うそだろ」
真司はルカを見る。
短い髪。
小柄な体格。
旅装束。
昨日からの泥と疲れ。
少年だと思っていた。
ずっと、そう思っていた。
だが、改めて見ると、髪型と風貌のせいでボーイッシュな感じはするが、
顔立ちは、可愛らしいく整っている。
大きな茶色の瞳も、少年のそれとは違って見える。
見える。
愛嬌のある少年じゃなく、可愛らしい少女だ。
今さら。
「え、もしかして……」
真司は言葉を失った。
ルカは下を向いていた。
さっきまで地面に絵を描いていた枝を、握ったまま。
何も言わない。
怒鳴らない。
ただ、黙っている。
その沈黙の方が、真司にはずっと痛かった。
「いや、違う。悪い。俺は、その」
言葉は通じない。
真司は慌てて頭を下げた。
「悪かった」
【謝罪意図:確認】
【現地語未取得】
「こういう時こそ翻訳しろよ!」
【通詞術式:未接続】
「使えねえ!」
真司は本気で焦った。
灰色の線の内側からは出られない。
両手は包まれていて、謝るように胸へ触れることもできない。
ただ、頭を下げるしかない。
ルカはしばらく黙っていた。
やがて、地面に描いた「男」の絵を枝でぐちゃぐちゃと消した。
それから、新しく人の絵を描く。
自分を指す。
「ルカ」
次に、小さな女の子を指して言った言葉を、もう一度言う。
「女」
真司はゆっくり頷いた。
「ルカ、女」
発音はたぶん、まだ怪しい。
それでも、ルカは小さく頷いた。
笑ってはいなかった。
真司はもう一度、深く頭を下げる。
「すまん」
ルカは枝の先で地面をつついた。
怒っているのか。
傷ついたのか。
呆れているのか。
真司には分からない。
ただ、さっきまで少しだけ縮まったように見えた距離が、また線一本分、遠くなった気がした。
◇
その時、近くで小さな笑い声がした。
柵の内側にいた女の子だった。
兄らしき少年に口を押さえられ、まだ肩を震わせている。
ルカがそちらを睨む。
少年は慌てて妹を後ろへ隠した。
真司は、さらに居心地が悪くなった。
「公開処刑かよ……」
【状況評価:不利】
「評価しなくていい」
ルカは深くため息をついた。
まだ怒っている。
たぶん、かなり怒っている。
それでも、立ち去りはしなかった。
ルカは地面に描いた「男」の絵を枝で乱暴に消すと、真司の方をちらりと見た。
その目は、さっきより少しだけ刺さる。
真司はもう一度、頭を下げた。
「悪かったって」
通じない。
だが、謝っていることくらいは伝わったらしい。
ルカはしばらく真司を見ていたが、やがて短く息を吐き、枝で地面を叩いた。
もう一度。
今度は、馬の絵。
水の絵。
家のようなもの。
道のような線。
言葉は少しずつ増えた。
けれど、会話にはならない。
真司が何かを言おうとしても、ルカは首を傾げる。
ルカが何かを説明しようとしても、真司には音の並びにしか聞こえない。
地面には、絵だけが増えていった。
馬。
水。
道。
黒沼。
灰色の線。
棒人間が二人。
伝わるものはある。
だが、伝わらないものの方がずっと多い。
真司は、布に包まれた両手を見下ろした。
「……不便だな」
【言語適応:単語照合中】
「分かってる」
分かっている。
だから、余計にもどかしかった。
◇
セレーナが戻ってきた時、地面にはいくつもの絵と、何度も引き直された線が残っていた。
馬。
水。
家。
道。
黒沼。
そして、真司とルカらしき棒人間。
セレーナはそれを見下ろし、次にルカを見た。
ルカは少しだけ胸を張った。
まだ不機嫌そうではあったが、どこか誇らしげでもあった。
セレーナは、ほんのわずかに表情を緩めた。
それから、真司を見た。
真司は肩をすくめるしかなかった。
通じない。
けれど、何とかしようとはした。
地面に残った絵は、その証拠みたいなものだった。
セレーナはしばらく黙っていた。
やがて、真司の両手を見る。
白い布に包まれた、黒沼封止の手。
次に、真司の額を見る。
真司は嫌な予感がした。
「……なんだよ」
セレーナはまだ何も言わない。
ただ、地面に残された絵と線を見て、何かを決めた顔をしていた。
真司は、灰色の線の内側で身じろぎした。
単語だけでは足りない。
それは、真司自身も分かっていた。
だが、次に何をされるのかは、まだ分からなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ルカ君はルカちゃんでした。
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